日本近代文学の森へ (59) 田山花袋『蒲団』 6 『蒲団』のほんとうの「衝撃」
2018.11.6
前回から、途切れることなく引用する。少しは省略したいのだが、ツッコミ所が多すぎて、看過できないのである。読者におかれましては、しばらくのご辛抱を願いたい。
尠(すくな)くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。昔の恋人──今の細君。曽(かつ)ては恋人には相違なかったが、今は時勢が移り変った。四五年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪(ひさしがみ)、海老茶袴(えびちゃばかま)、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった。この世の中に、旧式の丸髷、泥鴨(あひる)のような歩き振、温順と貞節とより他に何物をも有せぬ細君に甘んじていることは時雄には何よりも情けなかった。路を行けば、美しい今様の細君を連れての睦じい散歩、友を訪えば夫の席に出て流暢に会話を賑かす若い細君、ましてその身が骨を折って書いた小説を読もうでもなく、夫の苦悶煩悶には全く風馬牛で、子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。「寂しき人々」のヨハンネスと共に、家妻というものの無意味を感ぜずにはいられなかった。これが──この孤独が芳子に由(よ)って破られた。ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にも豪(えら)い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。
普通の現代人なら、もう、これで限界、ギリギリ、これ以上読む気がしないといったところだろうか。いくら辛抱願いたいと言われても、こんな小説に付き合っている義理はないやと、さっさと立ち去るべきところだろう。
ぼくはといえば、かなり「普通じゃない」からガマンするわけで、朝ドラにしても、2007年の『どんど晴れ』以来、その全話(『ちりとてちん』だけはなぜか、断片的だったが)を見て、今に至っている。『つばさ』や『ウエルカメ』や『純と愛』なんかが、どんなにつまらなくても、ガマンして見続けてきた。別に自慢できることじゃないけど、そうこうしているうちに、つまらないものに対する変な「耐久力」がついてしまったらしい。
だからこそ、曲がりなりにも『泡鳴五部作』も読み通したし、『田舎教師』もまたしかりで、その後めでたく『蒲団』に至っているわけである。こんなところで、投げ出すわけにはいかないのである。
さて、閑話休題。(おまえは最近寄り道ばっかりしてるけど、そうしなきゃ、やってられないってことだろ? って古い友人に言われたが、まっこと図星である。)この引用した文章は、どこをとっても噴飯物である。
弟子入り志願してやってきたのが、思いがけない美人で、内心ホクホクの時雄なのに、「尠(すくな)くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。」というのだから、何のこっちゃ、である。自分は文学者だから「孤独なる生活」が実は大事なのだが、この女によってその大事な生活が破られたってことか思うと、ぜんぜん違う。その後を見ると、えんえんと妻の魅力のなさに対する批判が書かれているわけで、中でも、妻が自分が「骨を折って書いた小説」を読もうともしない無理解さを嘆いているわけで、そういう「精神的な孤独」が、「破られた」ということなのだ。
「昔の恋人──今の細君。」という対比もひどい。そんなこと言ってもしょうがないことぐらい大人なら誰でも知ってる。妻になっても、ずっと恋人みたい、なんて関係があるわけもない。一年も一緒に暮らせば、お互いどんなに気どっていても、ボロが出る。そのボロを認め合ってこその夫婦だろう、なんて、柄にもないことを言いたくなる。
時雄は、「男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった」ということを、嘆かわしいと思っているのか、それとも、喜ぶべきことだと思っているのかが、どうも分からない。言い方としては、嘆いている。けれども、その後を読むと、「ハイカラ」な女を賛美している。それにくらべて、うちの女房ときたら、「旧式の丸髷、泥鴨(あひる)のような歩き振、温順と貞節とより他に何物をも有せぬ細君」にすぎない。そんな細君に満足している自分が情けないという。おかしな理屈である。
そもそも、当時の世の中の女がみんな女子教育をうけて、「ハイカラ」になったわけじゃない。むしろ、そんな女はごく一部の上流階級の女にすぎないだろう。時雄の言っていることは、おもちゃを買ってくれとせがむ子どもが、親にダメって言われて、「でも、みんな持ってる!」ってだだをこねるのと何ら変わりはない。
「温順と貞節とより他に何物をも有せぬ細君」だからこそ、まだ子どもを産んで7日しかたっていない産褥にありながら、隣の部屋に若い女を呼び込んで、エラそうに演説ぶっている亭主を張り倒さないですんでいるんじゃないか。ハイカラな女房だったら、ただじゃすまないはずだ。
自分はひとかどの文学者だと思い込んでいるけれど、ろくな作品も生み出せないのに、女房がそれを読みもしなければ、「夫の苦悶煩悶には全く風馬牛」だといって怒っているけど、なにが「夫の苦悶煩悶」だ。そんな売れない作家の女房の「苦悶煩悶」はどうしてくれるのだ。「ハイカラ」な女房だったら、とっくに家を出て行っているはずだ。
「子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君」と批判するが、子供を満足に育てたらそれでもう十分じゃないか。「子供を満足に育てる」ことがどれだけ大変なことか。その大変さに比べたら、作家の苦悶煩悶なんて、屁みたいなものだ。女は命がけで子供を産んでいるのだ。作家は、少なくとも時雄は、自分の命と引き換えに作品を生んでいると言えるのか。
こうした男の子どもじみた身勝手きわまる考えは、何も時雄(花袋)だけの専売特許ではない。これとほとんど同じ内容のことを、岩野泡鳴は、もっと下品に、もっと露骨に、えげつない言葉にしている。そしてそれを、当の妻にぶつけている。泡鳴に言わせれば、「女は、子どもを産むと、子どもにかまけて、亭主をかえりみなくなるからダメなんだ。だから男は浮気もするし、女郎買いもする。それのどこが悪い。」ということになる。自分の欲望を正当化する開き直り以外の何ものでもないわけで、花袋よりずっとタチが悪いが、それでも、その思いを現実に実行してしまって、塗炭の苦しみをなめるところに、花袋の言葉だけで苦しんでいるようなフリをして実際には何もしない男より、ある意味、心を打つものがあるのだ。
花袋と泡鳴に、驚くほど共通するこの女性観の背景には、例の「ハイカラな女」の出現がある。泡鳴も口を開けば、女は独立しなくちゃいかんと言うのだが、それは、独立・自立しようもない多くの当時の女を、ただただ不幸にする結果を招いただけだったのではないか。
ごく一部の女が、目覚め、自由奔放な生き方をした。例えば、与謝野晶子。世の中の男どもは、そういう女こそ「新しい女」だと褒めそやし、自分の女房の「古さ」を嫌悪した。それが、明治末期の世の中であったということになるが、この「構図」は、実は、今でもちっとも変わっていない。
「妻」となることで、そこに必然的に生じてくる様々なシガラミ、そのシガラミから来る「煩悶」は、今も明治の時代も、そんなに変わっていない。「妻」になった女は、依然として姑との関係に苦しみ、そうかと思えば、我が家のリビングの「生活感」を消そうと懸命になる。なぜ、「生活感」のない部屋が「素敵」なのか。「素敵」ともてはやされるのか。そのことを、じっくり考えてみれば、今の世の中にも、依然として蔓延している、「ハイカラな女への憧れ」があぶり出されるはずだ。
だから、どんなに馬鹿馬鹿しくても『蒲団』が描き出す世界は、けっしてぼくらと無関係な、荒唐無稽な世界ではないのだ。
しかし、それにしても、引用部の最後のあたりは、なんという間抜けな「正直さ」だろう。まともな神経の男なら、こんなこと恥ずかしくて書けやしない。『蒲団』は、この「恥ずかしくて書けない」ことが書いてあるからこそ有名になったわけだが、そして、その「恥ずかしくて書けない」例が、あの「衝撃のラスト」だと一般には思われているようだが、実は、そんなところより、こうしたことのほうがよほど「恥ずかしい」。
「ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にも豪(えら)い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。」なんて、普通の男なら書かない。書けない。自分が「えらくない」と自覚している男は、ハタチにもならない小娘が「先生! 先生!」といって夢中になったとしても、そんなことで「胸を動かし」たりはしない。いや、心の中では、どんな聖人君子でも、「あ、うれしい」ぐらいは思って、「ひょっとしたら、どうにかなるかも」なんて妄想を抱くことがあることを否定はしない。けれども、それをそのまま書いちゃったら、「オレはほんとうにバカヤロウなのだ。」ということを天下に公言するようなものではないか。若い女が、「先生! 先生!」と「渇仰」してくるから、そりゃ、舞い上がるのが当然でしょ、って言いたいのだろうが、そんなことで舞い上がるのは、バカなオマエだけだよ、って言われるに違いないと、誰が思わずにおられようか。
そういうふうに全然思っているふしもなく、臆面もなく「胸を動かさずに誰がおられようか。」などと書いちゃうのだから、まことに福田恆存がいうとおり、花袋には「才能も創造力もなかった」のだと思うしかない。
その愚かしいとしか言い様のない思考回路を、堂々と書いたことこそが、花袋の世間に与えた「衝撃」に他ならず、それまで、文学者とか作家とかいうものは、少なくとも、普通の人よりは「エライ」のだという固定観念を根底から打ち壊し、そうか、こんなバカなことを作家は考えてるんだあ、それなら、オレのほうがよっぽどマトモかも、って思わせる力があって、なんか生きづらい世の中だなあと思っていたような人々に、一筋の「希望」を与えたのかもしれない。まあ、ものはいいようだけど。