Yoz Art Space

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つれづれフォト 003 大岡川の鳥

2014-03-16 16:37:35 | つれづれフォト

 

昨日、いつもの鍼灸院へ行った帰り

近くの大岡川べりを散歩しながら家に帰りました。

すぐに、鳥が現れて、撮ってください、って言うので。

 

ハクセキレイ

水辺には、必ずといっていいほどいます。

  

ムクドリ

 

これもおなじみの鳥。

暖かい春の日差しを感じる写真になってるかな?

 

 

 ハッカチョウ

 

中国から入ってきた外来種。

すでに、江戸時代ごろから日本で飼われていたようです。

 

最近上大岡近辺にも出没するようになりました。

飛ぶと、真っ黒な羽に鮮やかな白い線がきれいです。

くちばしの上の毛の逆立ちが特徴。

声もきれいで、人の言葉もマネするらしいです。

 

 

Camera  OLYMPYS STYLUS 1

 


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100のエッセイ・第9期・70 贅沢な時間

2014-03-14 14:16:51 | 100のエッセイ・第9期

70 贅沢な時間

2014.3.14


 

 石川淳が、永井荷風の晩年の随筆は、愚かな老人の愚痴にすぎないと、こきおろしている。その原因として、本来、随筆を書く基本的な条件は、本を読む習慣があることと、金に困らないことの二つをあげている。晩年の荷風は、ろくに本も読まずに、精神は硬直してなんの柔軟性もないと断じているわけである。金のことに関しては、ちょっと複雑なのでここでは触れないが、特に西洋のエッセイというものは、「読書」なしには生まれないのだということは注目に値する。確か、このようなことは、他の誰かも言っていたように思う。

 石川淳はさらに、「本のはなしを書かなくても、根底に書巻をひそめないやうな随筆はあさはかなものと踏みたふしてよい。」と断じている。

 どうして、本を読まないと「あさはかな」随筆になるのかというと、石川流に言えば、精神が硬直して、柔軟性を失うからだということだろう。いくら年の功とはいえ、自分の信念に凝り固まった老人が、今の世の中を嘆く随筆を書いても、結局は「老人の愚痴」にしかならないということだろう。

 ぼくも調子にのって、えんえんとこんなエッセイを書き続けているが、石川淳に言わせれば、きっと「愚かな老人の愚痴」ということになってしまっているに違いない。せめてそのことだけでも自覚して、少しでもそうならないような努力はしたいものだとは思う。

 だからというわけでもないが、最近読んだ本の中から、ちょっと気に入った文章を紹介したい。最近読んだとはいっても、文章は古いものである。井上靖の「とりとめもない時間」という随筆から。これは、「一年の計は何か」というアンケートに触発されて書かれたものらしい。

 今年、もう一つ自分に課していることは、少しでも時間ができたら、古いものの収められている博物館や美術館に足を踏み入れるということである。こうしたところには、特別の展覧でもある時以外、なかなか出掛けて行かないが、考えてみればもったいない話である。
 昨年の暮れに久しぶりで東京博物館に行って、二時間ほど館内を歩いた。特別な催しもののある時ではなかったので、館内は閑散としていて、自分の足音が気になるような静けさであった。
 私は館内をゆっくりと歩きながら、めったにこれだけ贅沢な時間の過ごし方はないだろうと思った。見たいものは見、見たくないものの前は素通りする。たいへんわがままな自分本位の見方であるが、こういうことのできるのは、博物館とか、美術館とかいったところだけである。こうした自分本位の、誰からも犯されない時間が流れている場所は、ほかにはなさそうである。外国の美術館でも同じであるが、この場合は、めったに来ることはできないと思うので、一応何でも見ておこうといった気持ちになる。日本の場合は、それほど欲深い気持ちにはならない。
 美術品というのは、ただ見るだけである。こちらが語りかけない限り、いつも黙っている。その替わり、こちらが語りかけて行けば、いくらでも向こうから語りかけて来る。その前にいつまで立っていようと、すぐそこから離れようと自由である。音楽を聞くにも、演劇を見るにも、書物を読むにも、時間が必要だが、その点美術品というものは少しもこちらを束縛しない。
 そうしたものが並んでいる博物館とか、美術館といったところは、現代で最も有難い贅沢な場所である。そこに居る限り、ひどく上等なものに取り巻かれているが、いささかも犯されることはないのである。

作品社「日本の名随筆・91 時間」所収。


 ぼくも、特別展があるときは、東京国立博物館などへはよく行くのだが、そうしたときに、特別展がないときに、ゆっくり東洋館だの、法隆寺国宝館だのを見るのもいいなあと思ったことがある。昨日、この文章を読んで、そうだ、この手があるなあと思った。

 とにかく、「定年後」が思いがけず1年前倒しでやってきて、「ほとんどまったく自由な時間」をどう過ごすかが、おおきな問題となってきている。もちろん、いろいろとやりたいことはあるのだが、それでも、もう少し何かないかと思っていたので、「これはいける」と思ったわけだ。

 ようやく手に入れた自由な時間なら、できるかぎりその時間を「贅沢」に過ごしたい。しかし、その「贅沢」とは、「ほんとう贅沢」でありたい。ありがねはたいて、世界一周のクルーズに出掛けるだけが「贅沢」ではなかろう。何が、「ほんとうの贅沢」なのかを見極めるためには、世俗的な価値観によってすっかり硬直しきった精神を解きほぐし、柔軟な思考をめぐらし、「自分本位」の価値を見いだすしかないということだろうか。


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100のエッセイ・第9期・69 脱いだ背広をどうするか

2014-03-12 19:12:53 | 100のエッセイ・第9期

69 脱いだ背広をどうするか

2014.3.12


 

 テレビドラマを見ていて、いつも気になるのは、刑事でも、サラリーマンでもいいが、とにかく亭主が家に帰ってきたとき、背広も脱がず、ネクタイもはずさずに、奥さんとしゃべったり、喧嘩したり、御飯を食べたりすることである。どうしてまず着替えないのだろうと、いつも気になるのだ。

 ぼくは、いわゆるサラリーマン生活から、とうとう引退してしまったけれど、つい最近まで、学校から家に帰ってくると、何はともあれ着替えたものだ。ネクタイはめったにしなくなっていたが、それでも、学校用のシャツは一刻もはやく脱ぎたかった。それを着がえもしないで、そのまま食卓につくなんて考えられない。

 テレビドラマの場合は、ひょっとしたら、時間を節約するために、わざわざ着替えるシーンを入れないということなのだろうが、その割には、つまらぬギャグをえんえんと入れたりしているから、時間の節約というよりは、衣装代の節約なのかもしれない。そうやって、細部のリアリズムを無視するから、日本のテレビドラマは、いつまでたってもレベルが低いのかもしれない。

 このところ、ヒマにまかせて、戦前から戦後にかけての、小津安二郎の映画を立て続けに見ているのだが、ほとんどの映画に共通したシーンがあって、それはそれで、テレビドラマとは違った意味で、気になってしかたがない。

 小津の映画では、亭主が家に帰ってくると、女房がいる場合は(いない場合は娘だったりするが)、必ず女房が、茶の間で、亭主の着がえを手伝う。それは「サザエさん」でも同じことで、会社から帰った波平はタンスの前で必ず着物に着替える。それを舟さんが必ず手伝う。ただその場合、詳しく分析的に見ているわけではないから正確には言えないが、ほとんど着物に着替えた波平が描かれ、波平が背広を脱ぐシーンはないように思う。

 小津の映画の場合、ぼくが気になってしょうがないのが、亭主が背広やズボンを脱ぐシーンだ。そのシーンでは、ほとんど98パーセント(100パーセントと書けないのは、シャツを手渡すシーンがどこかに一カ所あったからである。)亭主は自分の脱いだ背広やズボンを、すぐ近くにいる女房に手渡さないで、畳の上に落とすのだ。まるで、そら拾え、それがお前の仕事だと言わんばかりの仕草に見える。

 これには、びっくりする。同じ作品のどのシーンでも、別の作品でも、必ずといっていいほどそうなのだ。女房は立っているから、それをわざわざ腰をかがめて拾わなければならない。それなのに、女房は、文句も言わずに畳の上に放り投げられた背広やズボンを拾いあげて、かたづけるのだ。ちょっと手を伸ばせば、脱いだ背広やズボンを女房に手渡せるのに、それをしないのは、なぜなのだろうか、と思って見ていると、あまりの男の横柄さに腹が立ってくる。それが、夫婦喧嘩の真っ最中なら、そういうこともあるだろうと納得もできる。しかし、ぜんぜん喧嘩などしていなくて、むしろ、仲睦まじく話をしているシーンでもそうなのだ。ほんとに気になる。

 あれは、当時の一般的な習慣を、小津監督が忠実に再現しているのだろうか。それとも、小津監督の意図的な演出なのだろうか。それとも、小津監督は独身だったから、夫婦ってそんなもんだと思っていたのだろうか。でも、それなら、周囲の人が、監督、それはおかしいですよ、普通は手渡しますよ、とか意見を言ってもよさそうなものだが、そんな余計な口は一切挟ませなかったのだろうか。小津の研究をしているわけではないから、よく分からないが、誰かがこの件について、どこかで論文でも書いていないだろうか。

 まあ、それにしても、昔の女性は大変だったんだなあと、しみじみと思う。よく耐えたものだなあと、しみじみ思う。今、この日本に、会社から帰ってきた亭主の着がえを手伝いにくる妻などというモノがいるだろうか。万一いたとしても、その目の前で、脱いだ背広だのズボンなどを、床に放り出そうものなら、亭主の方が家から放り出されるに違いない。いい時代になったものである。

 

 


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つれづれフォト 002 汐見台団地

2014-03-09 10:58:29 | つれづれフォト

朝食の後、カメラをぶら下げて、近くの汐見台団地の方へ散歩。

久しぶりに、鳥の写真を撮りました。ヒヨドリです。

この鳥は大きいし、どこにでもいるので撮りやすい。

晴れているのに寒い朝。ヒヨドリも寒そうです。

 

汐見台団地は、昭和30年代に作られた団地ですが、

だいぶ様子が変わりました。

この建物は、古いのですが、塗りかえてきれいになっています。

 

デジカメは、液晶部分が傾くものが多く

こういう低いアングルの写真が簡単に撮れます。

低いアングルで撮ると、ちょっと新鮮な画面になります。

 

 

Camera  OLYMPYS STYLUS 1


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一日一書 299 よくがんばったね

2014-03-08 10:12:15 | 一日一書

 

よくがんばったね

 

 

我が家の門扉のそばに、植えてあるクリスマスローズ。

今年の雪に何日も埋もれてしまい、

雪が溶けたときには、

花芽は曲がって、もう地面にへばりつくような格好になっていました。

けれども、今日、久しぶりに見ると

懸命に立ち上がって、花を咲かせようとしていました。

 

 


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