日本近代文学の森へ (33) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その2
2018.8.5
樺太での蟹缶の事業が失敗して、すっからかんになってしまった義男は、10年も会っていない友人宅に転がりこむ。有馬勇という男で、義男よりちょっと年上の国語教師である。
この時代、一文なしになっても、友人宅に転がり込むという手があったというのが不思議といえば不思議だ。今のように家庭というものが、ガチガチに固まっていないということなのだろうか。貧しい時代なのに、どこか妙な「ゆるさ」を感じる。
札幌の友人有馬宅へ行ってみると、夏休み中のこととて、有馬は子どもを連れて買い物に行っていて不在で、だれもいないが、しばらくして、その女房がむかえる。
廣いその眞ン中に低い草が生えたままにしてある通りを行くと、左りに北海道廳の柵がまはしてある。その柵内に直立して、天を突くさかさ掃木(ぼうき)の樣に高い白楊樹《ポプラのこと》の數々と、昨年の火災に燒け殘つた輪廓ばかりの道廳の赤煉瓦とを再び見ると、急になつかしい友人に近づいて來た氣になる。
そこから一町も行かないところに、通りは農科大學の附屬博物館構内の柵に行きつまる。柵内に繁茂してゐる、脊の高いアカダモや、ドロや、柳やの森をのぞむと、然し、渠は、數ヶ月前の月の夜に、友人と共にその間を散歩しながら、今囘着手した事業の成功を身づから保證したことがあるのを思ひ出す。それが今囘殆ど手ぶらで歸つて來たのであるから、何となく顏を會はすのが恥かしい樣な氣もする。且、みやげもなく、また用意の小使錢も殆ど皆無のあり樣だが、博物館そばの通り角の友人の家に着いた時は、遠慮もなく、玄關のがらす戸を明け、
「歸つて來ましたよ」と、無造作に這入つて行つた。
半間ばかりの土間があつて、そこから障子をあけてあがると、直ぐ茶の間で、六疊敷の左り寄りのがらす窓のもとに、ちひさい四角い爐が切つてある。爐の中には、奇麗な小粒の石が澤山敷きつめてあり、その眞ン中に沈めた丸いかな物の中の灰にはおこつた火が埋めてあるかして、天井から鐵の自在鍵(じざいかぎ)でつるした鐡瓶の湯がくた/\云つてゐる。
然し裏の方はすべて明けッ放しのまま、家族のものは誰れもゐない。右の方の客間や寢間もみな方(かた)づいたまま見られるし、直ぐ奧の臺所からは裏の共同庭も見透かされる。義雄は持つてゐた包みをそこに投げ出し、爐のそばにあぐらをかいて、煙草をのみ初める。そして、暫らくここに落ちついてゐられるか知らんと考へて見る。
けふは、明治四十二年の八月十六日だ。初めてここへ訪問してから、もう、三ヶ月餘りを樺太に經過した。そしてそれが殆ど全く失敗の經過であつた。ここに滯在してゐるうちに、向うから多少囘復の報知が來ればよし、さうでなければ、北海道で一つ何かいい仕事を見附けなければならない。
然し友人はまだ某女學校の國語漢文教師であつて、僅かの俸給によつて、夫婦に子供ふたりの生計を立てて行く人——交際も狹からうし、また義雄一個がその生計の一部分に影響しては、苦しい事情があるかも知れない。兎に角、札幌へ來ての第一着は、自分のその日を送るに足るだけの定收入を作らなければならない。これはこの友人に話しても駄目だらうから、けふにも、今ひとりの、これはさう親しくないが、知人で、近々一實業雜誌を發刊しようとしてゐるものに行つて、早速相談して見よう。
などと考へてゐるうち、奧の方の共同庭——そこは、通り角の兩面に立ち並んでゐる家々に共通の裏庭だ——を、細君が衣物(きもの)の裾を腰まで裏返しにはしよつて、手桶を兩手におもたさうに下げてやつて來るのが見えた。水口を這入つてから、かの女は義雄のゐるのに氣がつき、
「あれ、まア」と、東北辯の押しつまつた口調で驚きあわてて、裾の端折(はしよ)りをおろす。それで、義雄が第一に穢(きたな)らしいと思つた白の腰卷きが隱れる。
「歸つて來ましたよ」と、渠が何氣なく笑つてゐると、かの女は爐ばたへやつて來て、
「いらツしやい」と挨拶する。「いかがでした、樺太の方は?」
「失敗でした、矢ツ張り」と、ほほゑみをつづけて、「然しまだ囘復策が出來さうなので、ちよツと北海道まで歸つて來ました。」
これからどれだけ世話になるかしれないのに、手土産ひとつ買う金がない。いくら友人とはいえ、10年もあっていないものの家にやっかいになるのに、「帰ってきましたよ」が最初の一言。びっくりする。
友人宅までの道のりを、さっとスッケチしておいて、友人の家も簡潔に描写する手際が見事だ。そこへ、登場してくる「細君」のラフスケッチも水際だっている。
着物の裾を腰まで端折っているから見えてしまう「白の腰巻き」が「穢い」と書く。冷徹な視線である。その腰巻きの「穢さ」というのは、ただ、単に物理的な「汚れ」だけではなくて、生活、生き方の「だらしなさ」なのだ。
子ども二人を抱えて、教師たる夫の微々たる給与で生活する妻は、「きれい」でいることなんてできはしない。どうしたって、「糠味噌臭く」なってしまう。仕方のないことなのに、義男は「穢い」と感じるのだ。これは義男(=泡鳴)の強いこだわりである。
義男は、自分がここにやっかいにならねばならぬ事情を正直にこの細君に話す。夫はなかなか帰ってこないので、義男は銭湯へ出かける。
札幌區立病院の廣い構内に添うて角をめぐり、その本門の前を通り過ぎた湯屋に來た。他に客はない。そこで樺太の垢をおとしながら、この夏をいつまでこの湯に這入りに來なければならないのか知らんと考へる。あちらで旅館の狹い湯に這入りつけてゐた身には、錢湯の廣いのが先づ心をも廣く、ゆるくする。
そしておほきな湯船にはだかのからだを再び漬ける時など、何だか自分に犯した罪惡でもあつて、それの刑罰に引き込まれる樣な氣分だ。湯の底が烈しい音でもして、ほら穴に變じはしないかとあやぶまれた。
節々がゆるんで、そのゆるんだ間から、自分の思想が湯氣となつて拔け出たのだらう。ぼうツとなつて、自分の神經までが目の前にちらつく。
どうも底から破裂しさうな氣がするので、湯船を飛び出し、板の間で再び垢をおとし初めると、身が輕くなるに從つて、不安が自由におそつて來る樣だ。
好きな湯に當りかけるのか知らんと、水船の水を汲んで顏を洗ふ。ひイやりすると同時に、不安の材料がはツきりと胸にこたへて來た。弟と從兄弟とが樺太で餓ゑ死にするかも知れないが、かまはないか? 東京で、妻子は心配の爲めに病氣になるかも知れないが、いいか? 愛妾も、亦、薄情を怨んでゐるが、どうだ?
義男は、豪快なようでいて、繊細で心配性な男なのだ。
こういう銭湯のシーンを読むと、銭湯という場が、生活の中で、家庭から離れてほっとしたり、癒やされたり、思索したり、気分転換したりする、なかなか重要な場だったのだなあということがよく理解できる。
そういえば、ぼくの父は、家風呂があるのに、毎日のように仕事が終わると銭湯に行っていた。ペンキ屋の親方として働いていた父だが、会社勤めと違って、家で帳簿をつけていたりすることも多かったから、家庭での「嫁VS姑」の諍いに耐えられなかったのだろう。ぼくを一緒につれていってくれなかったのも、よっぽど一人になりたかったのだろうか。
銭湯から帰ってみると、友人が女の子と一緒に姥車(うばぐるま)を押しながら帰ってくる。その姥車には、一郎という男の子と、リンゴがたくさん乗っている。なんでも、リンゴがずいぶん安いので大量に買ってきたのだという。
ふたりの子供は、喰ひたさうな顏つきをして、籠の中の物をいぢくつてゐる。
「その林檎はちひさくツて、青いぢやアないか」と、義雄が云ふと、
「なに、こいつア青くツても喰へるやつだ。」勇は生來の東京ツ子口調を出して、
「この手は、もう、けふあすでおしまひだ。今にも雨が降りやア、熟(う)んでしまつて、喰はれない。買ひ時だから行つて來たのだが、もう遲過ぎたくらゐだ——こんなに澤山でも、安いのだよ。」
かう云つて、勇がその値段を説明するのを聽くと、マオカに林檎の初荷が着した時に買つて見たのよりは十層倍も安いのに、義雄は驚いた。東京で、ジヤガ薯を買ふのと同じ樣な格だらう。北海道に來てから、所帶持ちの苦勞に親しんだ勇が、十餘町の道の暑いのをことともしないで、姥車を押しながら往來したのは、もツともだと思はれた。
「そんなに安いものなら、僕も少し買つて置きたい、ね、食後に二つ三つづつ喰ふのに——」
「もう、遲い——これをやり給へ、澤山あるのだから——暫らく立つと、また捨て賣りの時期が來る。買ひに行くのはその時にし給へ、それまで君がゐることになるなら。」
「どうせ、僕、今も細君に話したことだが、暫らく御厄介になるよ、迷惑はかけないつもりだから。」
「そんな心配には及ばないが、君さへよければ、いつまででもゐて呉れ紿へ——その代り、何のおかまひも出來ないのを承知して置いて貰はなけりやア——」
「かまつて貰つては却つて僕が困る——今の場合、僕は大道で乞食(こじき)をしさへしなければいいのだ。」
大道で乞食! これは、義雄自身には痛切な發想であつたが、勇には戲言(じやうだん)と見えたのだらう、渠は不審らしく發想者の顏を見た。義雄はやはらかに微笑してゐるが、その微笑はアカダモの枝がかぶせたやはらかさで、幹には犯し難いほどの嚴肅な寂しみを感じてゐた。
明日になれば腐ってしまうリンゴ。それならば、安いからといって、こんなにたくさん買ってしまって、今日中に食べきれるのだろうか。
「喰ひたさうな顏つきをして、籠の中の物をいぢくつてゐる」二人の子どもがいじらしい。最近、こういうのにヨワイ。