yukarikoの好きなもの
旅の写真や思い出
PCでの雑感を並べました。
 




sakuraさんが書かれていた「若一神社と西八条第跡」にお盆で
実家(伏見から京都市役所前に移転!)への帰りに立ち寄りました。

若一神社の前は通っても入った事がなかったので、カメラ持参で行きました。
もっとも要所々はsakuraさんがご紹介下さっているので
清盛像とお手植えと伝えられるご神木の大楠だけを…。




淨海入道(清盛の法体名)が衣の下に鎧を付けて指揮を取り、
重盛に説教される場面が有名ですが、若一神社に祀られた清盛像はもっと若い頃
…といっても平相国と書かれていますから太政大臣になった頃の
順風満帆・自信に満ち溢れた時代の清盛の姿でしょうね。
(どんな風に想像して、誰がお作りになったのでしょうか?)

身分は低いけれど貴族に呼ばれて今様(時代の流行り歌)や舞を披露したのだから
白拍子の祇王・祇女・仏御前・静御前はその頃の男装アイドルスターでしょう?
時の権力者が独占して手許に置きたいと思うほど魅力があったのでしょう。

庄司や武士の娘だからか、和歌の素養もあったのでしょうか?
時代が下がって出雲の阿国など川原の小屋で公演した歌舞伎が盛んになる頃とは
違うでしょうが、白拍子の座があったのかしら?

祇王が書き残したという和歌や舞われたという今様(7・5句×4)も心に染みて、
あまりぴったりなので、物語の作者が形を整えて流布させた?とも思います。

「萌え出るも枯るゝもおなじ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」

「仏も昔は凡夫なり、我等もついには仏なり
いずれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ悲しけれ」


「西八条第跡」の周りをぐるっとバイクで走りましたが
とても広い場所なので、平氏の勢力の大きさを実感しました。
でもこの炎暑の最中に脚で歩き回る気持ちにはとてもとても!

「熊野権現信仰」はとても盛んだったそうですから、清盛が勧請して
自分の広大な敷地の一角に祭ったのかもしれませんが、
お忙しかった清盛自ら「お手植え」したというのは??でしょうね。

今の象徴天皇やマスコミ対策に利用する総理大臣とは違いますから。
その時代からの大楠とそれを後から祀った楠社なのでは…?

…と勝手な想像を楽しんで帰りました。
どうもありがとうございました。楽しかったです。



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