ツイッターより
「左派のLGBT団体は「性同一性」ではなく「性自認」という用語を採用してほしいと、いま必死に議員会館をロビーイングしている。」(アゴラ)
わかりやすく言えば、男性器が付いているが心は女性という方が女湯や女子トイレに入れるかということ?
それも自分は女性だと性自認すれば女湯に入ることができ、拒否されれば差別だという主張を、あるいは無理やりに男湯へはいれと言われれば虐待だというような主張に?
女性器のままに心は男だという方の男湯への議論はないのでしょうか?
性別は動物的な体により判断されますね。しかし人間は心が発達してその心にも性別を持つようになった。
この心の性別は服装などすべての生活様式や習慣に現れる。そして恋愛や性愛にも現れる。
しかしどうにもならないものは動物的な体の違いです。
そこで男性器を切除して胸を膨らませて体も心も女性になる(ただし子宮は作れない)ことで生の同一性を行おうとする方が出る。
しかしこれを否定をしてというのか飛び越してというのか心だけの女性を認めろというのが性自認でしょうか。
この前ラジオを聴いていたら、同性愛者からは「異性愛者」という言葉を使うらしい。同性愛と異性との愛を平等に見ようということかな。この言葉を使えば男性器を持つ心だけの女性が女湯に来れば「異性愛者」の女性としては困ってしまいます。これでは平等性が崩れます。
たしかに男性器を持つ心の女性が女湯に入るというのは、「異性愛者」である女性の事を考えれば普通行わないでしょう。
しかし急進的な人というのは必ず現れるわけで、女湯に入るのを拒否された差別されたと訴える人が出ます。
そこに性自認の危うさがあります。
性自認を言う人は、戸籍上の結婚を男性器を持つ心の女性にも認めろというものかもしれません。この本来の要求に対する女湯がどうのというものを持ち出すのは議論の矮小化でしょう。
しかしここに急進的な考え方を持つ人がいてそれが問題になってしまうということですね。
禁煙運動では分煙ではリスクゼロではないという急進的な人がいますし、それが受動喫煙の軽減を否定してしまう。
障碍者の自立についても改善が足りない面を見て、現時点では解除できないものを障碍者への差別だと訴える人がいる。
LGBTにも言えることがあるかもしれない。
「左派のLGBT団体は「性同一性」ではなく「性自認」という用語を採用してほしいと、いま必死に議員会館をロビーイングしている。」(アゴラ)
わかりやすく言えば、男性器が付いているが心は女性という方が女湯や女子トイレに入れるかということ?
それも自分は女性だと性自認すれば女湯に入ることができ、拒否されれば差別だという主張を、あるいは無理やりに男湯へはいれと言われれば虐待だというような主張に?
女性器のままに心は男だという方の男湯への議論はないのでしょうか?
性別は動物的な体により判断されますね。しかし人間は心が発達してその心にも性別を持つようになった。
この心の性別は服装などすべての生活様式や習慣に現れる。そして恋愛や性愛にも現れる。
しかしどうにもならないものは動物的な体の違いです。
そこで男性器を切除して胸を膨らませて体も心も女性になる(ただし子宮は作れない)ことで生の同一性を行おうとする方が出る。
しかしこれを否定をしてというのか飛び越してというのか心だけの女性を認めろというのが性自認でしょうか。
この前ラジオを聴いていたら、同性愛者からは「異性愛者」という言葉を使うらしい。同性愛と異性との愛を平等に見ようということかな。この言葉を使えば男性器を持つ心だけの女性が女湯に来れば「異性愛者」の女性としては困ってしまいます。これでは平等性が崩れます。
たしかに男性器を持つ心の女性が女湯に入るというのは、「異性愛者」である女性の事を考えれば普通行わないでしょう。
しかし急進的な人というのは必ず現れるわけで、女湯に入るのを拒否された差別されたと訴える人が出ます。
そこに性自認の危うさがあります。
性自認を言う人は、戸籍上の結婚を男性器を持つ心の女性にも認めろというものかもしれません。この本来の要求に対する女湯がどうのというものを持ち出すのは議論の矮小化でしょう。
しかしここに急進的な考え方を持つ人がいてそれが問題になってしまうということですね。
禁煙運動では分煙ではリスクゼロではないという急進的な人がいますし、それが受動喫煙の軽減を否定してしまう。
障碍者の自立についても改善が足りない面を見て、現時点では解除できないものを障碍者への差別だと訴える人がいる。
LGBTにも言えることがあるかもしれない。