昨日午後無事退院しました。いざ退院となると名残惜しいものですね。退院直前の病室の窓からの富山市の空です。ほとんどが猛暑の晴れ続きでしたが、朝の空夕べの空はいつも美しいと思いました。冷房なので暑さは実感しないまま、秋が迫る空のすじ雲は美しいと思っていました。雨の空も悪くありませんでした。
看護婦さんたち、同室などの患者さんとは、空の景色の何倍も別れがたい思いにおそわれました。そういう顔をされると少しつらいなと思いました。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
看護婦さんたち、同室などの患者さんとは、空の景色の何倍も別れがたい思いにおそわれました。そういう顔をされると少しつらいなと思いました。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
4枚目とは反対側を横から撮ったものです。写真左手奥に行くと正門があります。
李立三は1899年ここで生まれ、1919年にフランスに勤工倹学、1921年中国共産党に入党、主として労働運動で活動し、1930年に夏に李立三路線を打ち出し、後に左翼冒険主義として批判されます。その後自己批判等により、中共のコミンテルン代表としてソ連に駐在しますが、そこでもソ連内部の迫害を受けたり、1946年帰国後要職の就くも文化大革命で再び迫害を受け、1967年失意の内に逝去する経歴を辿りました。決してハッピーな生涯ではなかったようです。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
李立三は1899年ここで生まれ、1919年にフランスに勤工倹学、1921年中国共産党に入党、主として労働運動で活動し、1930年に夏に李立三路線を打ち出し、後に左翼冒険主義として批判されます。その後自己批判等により、中共のコミンテルン代表としてソ連に駐在しますが、そこでもソ連内部の迫害を受けたり、1946年帰国後要職の就くも文化大革命で再び迫害を受け、1967年失意の内に逝去する経歴を辿りました。決してハッピーな生涯ではなかったようです。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
故居の周辺の横側から見たものです。このように門があり、塀で囲まれた立派な建物です。毛沢東の小農の家とは大分違います。
李立三の父親、伯父は共に清代の「秀才」だったようで、この故居は立三の祖父が1891年に他人から買ったものです。敷地面積2355㎡、建築面積922㎡、32間もある庭園式民居と解説にあります。敷地では私塾が開かれていたそうです。こうして見ると、李立三もプロレタリアートではなく、旧式の知識人の出身であることがわかります。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
李立三の父親、伯父は共に清代の「秀才」だったようで、この故居は立三の祖父が1891年に他人から買ったものです。敷地面積2355㎡、建築面積922㎡、32間もある庭園式民居と解説にあります。敷地では私塾が開かれていたそうです。こうして見ると、李立三もプロレタリアートではなく、旧式の知識人の出身であることがわかります。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
zenの退院にともなって、JingShangの中国各地への旅を中心とする「上海レポート」を再開します。
今朝の上海は曇りです。台風10号が福建省に上陸し、浙江省へ進みましたが、ここで熱帯性低気圧に衰弱し、警報も解除されたようです。この熱帯性低気圧の影響だと思いますが、昨日の予報は暴雨でした。実際は午後雨が降っただけでたいしたものではありません
でした。今日もこの熱帯性低気圧が影響しているのでしょう。今日の予報は一時雷雨、最高気温は29度です。
今日からは湖南省醴陵市(こなんしょう・れいりょうし)の紹介を始めます。醴陵には6月5日に行きました。この時は上海から長沙(ちょうさ)に飛び、長沙からバスで醴陵に行き、その後株州(じゅしゅう)を経て、湘潭(しょうたん)へ行き、翌6日に湘潭を見て、長沙経由で上海に戻りました。
地図をご覧下さい。地図中央やや北寄りに湖南省の省都である長沙があります。その長沙の南側に湘潭と株州が並んでいます。醴陵は株州の東南方向にあります。醴陵は株州の県級市です。東隣は江西省(こうせいしょう)の萍郷市(ひょうきょうし)です。
「醴陵」(れいりょう)の「醴」(れい)は難しい字です。音読みはレイ、一晩で醸した酒の意見だそうです。旁(つくり)の「豊」という字は古代からあり、音読みはやはりレイで、意味も一晩で醸した酒の意味で、それに酒の意符である「酉」を偏につけて「醴」としたものです。現代日本で使う「ゆたか」の意味の「豊」(ほう)とは異なります。「礼」の旧体字である「禮」や「体」の旧体字である「體」の旁(つくり)と同じ仲間です。
何故醴陵に行ったのかというと、湖南省の地図を眺めていて醴陵に李立三(りりつさん)故居があると見つけたからです。湖南省は毛
沢東、劉少奇、胡耀邦、彭徳懐等中国共産党関係者を多く輩出していますが、李立三もその一人です。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!
今朝の上海は曇りです。台風10号が福建省に上陸し、浙江省へ進みましたが、ここで熱帯性低気圧に衰弱し、警報も解除されたようです。この熱帯性低気圧の影響だと思いますが、昨日の予報は暴雨でした。実際は午後雨が降っただけでたいしたものではありません
でした。今日もこの熱帯性低気圧が影響しているのでしょう。今日の予報は一時雷雨、最高気温は29度です。
今日からは湖南省醴陵市(こなんしょう・れいりょうし)の紹介を始めます。醴陵には6月5日に行きました。この時は上海から長沙(ちょうさ)に飛び、長沙からバスで醴陵に行き、その後株州(じゅしゅう)を経て、湘潭(しょうたん)へ行き、翌6日に湘潭を見て、長沙経由で上海に戻りました。
地図をご覧下さい。地図中央やや北寄りに湖南省の省都である長沙があります。その長沙の南側に湘潭と株州が並んでいます。醴陵は株州の東南方向にあります。醴陵は株州の県級市です。東隣は江西省(こうせいしょう)の萍郷市(ひょうきょうし)です。
「醴陵」(れいりょう)の「醴」(れい)は難しい字です。音読みはレイ、一晩で醸した酒の意見だそうです。旁(つくり)の「豊」という字は古代からあり、音読みはやはりレイで、意味も一晩で醸した酒の意味で、それに酒の意符である「酉」を偏につけて「醴」としたものです。現代日本で使う「ゆたか」の意味の「豊」(ほう)とは異なります。「礼」の旧体字である「禮」や「体」の旧体字である「體」の旁(つくり)と同じ仲間です。
何故醴陵に行ったのかというと、湖南省の地図を眺めていて醴陵に李立三(りりつさん)故居があると見つけたからです。湖南省は毛
沢東、劉少奇、胡耀邦、彭徳懐等中国共産党関係者を多く輩出していますが、李立三もその一人です。
標題(または画像)をクリックして画像を大きくして見てください。またコメントを見るには下の「コメント(0)」の数字(0)をクリックしてもコメントを見たり書いたりできます。ぜひとにクリックを!