徐州概況には次のようなことが書かれています。
・ 漢の高祖劉邦の生まれ故郷であること。劉邦と覇を争った項羽は徐州東隣の宿遷の生まれでした。四面楚歌」の話の「楚」軍とは徐州を中心とする劉邦の軍のことで、四方を敵の楚の言葉で唱う歌を聴いて、項羽はもはやこれまでと思ったのでしょう。
・ 漢は長安に都を置きましたが(西漢、前漢です、因みに東漢、後漢の都は洛陽です)、徐州の重要性から劉邦は息子の一人をここに封じた。それが楚王です。劉邦は、秦の中央集権の弊害をみて、親族、部下を地方の王に封じました。
したがって徐州には、漢代の十八の楚王陵があるようです。徐州漢代王陵分布図を見ると、徐州市街地及び周辺にも多くの王陵、漢墓が分布しているのがわかります。楚王陵は8基、漢墓が3基、漢兵馬俑博物館が1つです。漢兵馬俑博物館は獅子山楚王陵(ししざんそおうりょうぼ)の兵馬俑の展示館です。写真はその発掘当時の模様です。獅子山楚王陵は20世紀後半に発掘され、副葬品の漢俑は、発掘状態で「漢兵馬俑博物館」として保存されています。獅子山楚王は、第三代劉戊(りゅうぼ)の墓だそうです。
徐州は漢の都ではないものの、漢の都市という印象が強いです。テレビの漢代歴史ドラマ用のセットもここにあります。
「漢墓」、漢墓の副葬品である「漢俑」(かんよう)、漢墓の壁に彫られた「漢画像石」を総称して「漢代三絶」(かんだいさんぜつ)と呼ばれています。当面は、漢代三絶を紹介することになります。
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・ 漢の高祖劉邦の生まれ故郷であること。劉邦と覇を争った項羽は徐州東隣の宿遷の生まれでした。四面楚歌」の話の「楚」軍とは徐州を中心とする劉邦の軍のことで、四方を敵の楚の言葉で唱う歌を聴いて、項羽はもはやこれまでと思ったのでしょう。
・ 漢は長安に都を置きましたが(西漢、前漢です、因みに東漢、後漢の都は洛陽です)、徐州の重要性から劉邦は息子の一人をここに封じた。それが楚王です。劉邦は、秦の中央集権の弊害をみて、親族、部下を地方の王に封じました。
したがって徐州には、漢代の十八の楚王陵があるようです。徐州漢代王陵分布図を見ると、徐州市街地及び周辺にも多くの王陵、漢墓が分布しているのがわかります。楚王陵は8基、漢墓が3基、漢兵馬俑博物館が1つです。漢兵馬俑博物館は獅子山楚王陵(ししざんそおうりょうぼ)の兵馬俑の展示館です。写真はその発掘当時の模様です。獅子山楚王陵は20世紀後半に発掘され、副葬品の漢俑は、発掘状態で「漢兵馬俑博物館」として保存されています。獅子山楚王は、第三代劉戊(りゅうぼ)の墓だそうです。
徐州は漢の都ではないものの、漢の都市という印象が強いです。テレビの漢代歴史ドラマ用のセットもここにあります。
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