徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

嗚呼 映画館全盛のころ!

2012-09-17 20:05:51 | 映画
 僕が映画を初めて見た記憶があるのは幼稚園の頃だが、母が勤めていた幼稚園の父兄に映画館主の方がおられたお蔭で、足繁く映画館へ出入りし始めたのは小学校に入った昭和27年頃だった。その頃の映画館の様子は、映画解説でおなじみの熊大講師・辻昭二郎先生が熊日新聞の連載コラム「わたしを語る」の中で克明に述べられているのでその一節をご紹介したい。
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▼盛況だった熊本の映画館(一部省略)
 戦後すぐは映画館が焼け、日本映画の新作も少なく、洋画はGHQ(連合国軍総司令部)の命で制限されていた。にもかかわらず、熊本の映画業界の客数はすさまじかった。
 客席は冬は完全冷房、逆に夏は暖房の状態。座席はベンチのところも。十分に電気が来ない館もあり、自家発電の音がスクリーンから聞こえ、薄暗い画面から始まることもあった。
 切符売り場ではお札を両足の間に置いた箱に入れ、あふれると足で踏み入れていた。25円の入場料のうち15円は税金で、館の実入りは10円だったがそれでももうかっていた。
 正月には人が入りきれず、上映回数を増やすため早回しや中抜きをやっていたけしからん館もあると聞く。業界は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だった。
 フィルムの数が少ないので、都会では1本が3館ほどで掛け持ちされていた。自転車の荷台にフィルムの入った缶を3個ばかりチューブで固定して運んだ。
 今までのは封切り館の話で、それが終わると2番館、3番館が待っている。一部の人にとっては映画は芸術や文化ではなく金もうけの手段だった。
 ある劇場の看板描きは、米ギャング映画のスター、ジェームズ・キャグニーを「ギャグニー」と書いていた。注意すると「こうしないと強く見えない」と言われた。
 ピーク時には熊本市内で35館、県内では120館ぐらいの映画館があり、ほとんどが1館1スクリーンだった。客足は徐々に減り、映画館も姿を消す。今は郊外シネコン全盛で、市中心部にはDenkikan(電気館)が残るだけ。ここはキネマ旬報ベストテンに入る映画の半分ほどを毎年上映しているので、ファンもその心意気に応えてほしいところだ。
 それにしても、あの頃の少し青みがかった白黒の画面のなんと美しかったことか。風呂屋や八百屋で週替わりのポスターを眺め、胸躍らせながら劇場に通う。まさに映画は生活の一部だった。
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 ちなみに僕は基本的にメディアの映画解説を信用していない。感性は人それぞれ千差万別だと思うからだ。しかし、僕が全面的に信用していた解説者が二人いる。一人は高校の大先輩でもあるこの辻昭二郎先生と、もう一人は、かの双葉十三郎さん(故人)である。


左からジャック・レモン、ジェームズ・キャグニー、ヘンリー・フォンダ、ウィリアム・パウエル
映画「ミスタア・ロバーツ(1955)」より