雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

高校野球

2007-07-06 08:02:21 | スポーツ
大阪桐蔭の強打者中田翔君が高校野球のホームラン記録を更新して87本目の新記録達成のニュースがマスコミを賑わしている。

今年で夏の甲子園は89回を迎える。愈々、夏の大会である。
永い歴史と伝統を誇る高校野球もその様相は、一昔前から見ると一変している。

もう60年近くも前に、10年間野球に熱中した。
我々の時代から見ると、その環境だけでなく野球というスポーツそのものが別世界のようなレベルにあると思う。

昔のOBたちは「俺たちの時代は」と威張りたがるが、こと野球の技術に関しては比べること自体が無理である。



練習方法も、基礎体力も、試合の数も、ピッチャーの投げるボールの種類も、内外野の守備のやり方も、よく基本に忠実にと言われるが、その基本の部分すら変わっていると思われる。

大体ホームランとはランニングホーマーのことだった。
甲子園球場にはラッキーゾーンがあったが、それでも柵越えは難しかった。
外野手が片手でボールを取ることなど考えられなかったし、内野の守備も様変わりしている。

野球に限らず記録で明らかな水泳などでも、昔世界記録で騒がれた、古橋、橋爪の記録など今は普通の人が出すタイムになってしまっている。
水泳といえば、肩が冷えるから水には入るな、は常識であった。


一番違っているのは、やはり練習方法が科学的、技術的に進歩していることだと思う。
基礎体力の重視、一つ一つのプレーのレベルの向上に主眼が置かれて、その積み重ねが現在の高い水準に繋がっている。
全般のレベルが圧倒的に昔に比べて高くなった。それ自体は非常にいいことだと思う。


高校時代、名門と言われる野球部に籍をおき、夏の甲子園にも出場もした。
然し、打撃でも守備でも個人的な技術について詳しく指導を受けた記憶は少ない。
バント守備やバックアップ、ベースカバー、中継の仕方などチームプレーばかりやっていたような気がする。

昔の運動部は野球に限らず、技術もさることながら、チームプレーや精神的な面が必要以上に強調されていた。
野球の技術よりは一種独特の、連帯感や人間形成がそこから生まれたような気がする。


野球でも他のスポーツでもスターになれる、注目を浴びる人は一握りである。
甲子園に出場したからといって、全ての選手が注目される訳ではない。

そんな一般の運動選手たちが、運動部の生活で得た技術以外のもので「一生お世話になる精神的なもの」、この方の分野も野球の技術のように進歩すればいいのだが、
これはよく解らぬが、昔のままか或いはひょっとすると、と思ったりするのである。

ひょっとすると、この分野だけが「俺たちの時代は」と威張れることなのかも知れない。



マスコミのスターへの報道姿勢も、
それを何の疑いもなく受け容れる世の大人たちも,
少し考え直す必要があるのではないだろうか。

中田君の記事を見て、また騒ぎが起こるのかと、思ったりしている。
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競争

2007-07-06 05:27:36 | カワサキ単車の昔話
世の中で生きていく上で、個人でも企業でも競争は避けて通れない。

私が経験した二輪業界は、その企業間競争が極めて激しかったし、面白かった。
戦後、エンジン付き自転車として再スタートを切った時期の二輪メーカーはその数100を越えて幾つあるのか解らぬほどであった。

その殆どが淘汰されて、昭和30年(1960)頃には数えられるほどに減っていた。。
その中には未だ名だたる大企業が入っていたのである。
三菱重工業、新明和、富士重、トーハツ、ブリジストンなどなど。
勿論、ホンダ、スズキ、ヤマハやメグロ、ライラックなどもまだ残っていた。

それが更にH,S,Y,Kの4社に集約されてしまうのだが
その間企業間競争があったと言うべきかどうかは別として、大企業が浜松の企業に負けてしまったのである。
だが、三菱重工業に競争に負けたという意識が果たしてあるであろうか。一度聞いてみたい気もする。



ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松を引っ張ったのはホンダであり、本田宗一郎であったと言えるだろう。
直ぐまじかでお会いしたこともあり、話はしたことはないがお話を聞いたことは、業界の会合などで何度もある。

高松の宮様や官庁の偉い方が出席される会合などでも、お上に媚びたりするような所は微塵もなく、常にホンネで、その場の雰囲気を壊さぬ素晴らしい話をされていたのが印象に残っている。

常に世界を意識して、自由に競争するトップメーカーのフェアな姿勢が、二輪業界そのものをフェアな競争の世界に導いたと言えるだろう。

その競争は、常に熾烈であった。
スズキ、ヤマハもそれぞれの企業の個性があって、この3社に付いていくのは大変であった。
当時の川重というような重工業の企業体質とは全然異なる世界の発想や価値観が二輪業界にはあったのである。



40年以上も前から、今現在言われているようなことが全て現実に実行されていたし、それが二輪業界の常識であった。

今頃になって四輪などで問題となっているリコールなどは、もうずっと以前からアメリカでは行われていたし、
日本でもリコールを 「我々が認可したものに欠陥があるというのか」 とお上の担当者がいい顔をしなかった当時から、二輪は日本でもリコールを申請していたのである。

常にフェアな競争が常識で、談合などの日本的な発想は考えられないことであった。
官庁にも強かった。四輪と違ってお国の援助など受けずに自分たちの力で世界に進出したという自負があったからだと思う。
その反面、交通安全面などでは官庁への協力も、特にホンダの安全運転への取り組みは突出して素晴らしいものだった。



常に競争の結果を世に明示する、シェア競争もあったし、レースという技術の競争の世界もあった。
こんな競争の世界で、最後尾ではあったかも知れぬが、脱落せずに走りきっているカワサキも捨てたものではない。

四社のなかでは、特に台数や売上高では敵わぬのだが、ブランドや独特のイメージ、特色ある商品で世界中から数多くのファンを獲得している。

そんな、素晴らしい業界の中を経験できたのは本当によかったと思っている。
川崎重工業の中にも今はこの二輪で得た幾つもの経験が、他の事業にも生かされようとしている


決められた規則、規律のなかでのフェアな競争。

それは世の中の進歩を促すものである。
競争を避けるような姿勢が見られたりするが、そこからは何も生まれない。
コメント (2)
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