鈴鹿2&4
88年10月に国内担当に戻って、直ぐレースのOB会を開催した。
安良岡、岡部、梅津、星野など関東にいるライダーたちとも久しぶりに旧交をあたためた。
昔のレース関係者、当時の高橋鉄郎さんをはじめ大槻、田崎さんなど事業部のトップたちも参加して大いに気勢を上げたものである。
現役ライダーは、宗和、多田、塚本などが主力で、鶴田、北川がまだ若手であった時代である。
チームグリーンを中心にサテライトチームも入れて国内レースの活性化を図ろうとしていた。
明けて89年3月4日、鈴鹿サーキットで2&4という2輪と4輪が同時に開催されるレースがあって、
カワサキも宗和などが出場しTT、F1で宗和が3位に入賞などした。
4輪ではまだ星野も走っていて、星野インパルの金子豊君とも久しぶりに会った。
確か記憶が正しければ、片山右京も星野のチームに居たのではなかったかと思う。
このレースからカワサキの新しいレース活動が再開されたといっていい。
そんなレースで、しばらくレース活動の現場からは離れていたので、当時の鈴鹿の関係者の方たちにも改めてご挨拶をしている。
その翌年の3月4日にも同じく2&4が開催されている。
1年経って、レース活動の成果も出てこの年の2&4でカワサキは、
F1では優勝こそ逃したが、ドーソン、塚本、宗和が2,3,4位に入り、7位には北川が入って好成績であった。
F3では、サテライトチームとして活躍していたビートの和泉、高橋が1,2フィニッシュで優勝を飾った。
4輪のF3000では、星野一義君が優勝した。
若い頃、カワサキにいた星野の優勝は何度も現地で見ているのだが、4輪での優勝を見るのは始めてだった。
このレースには、星野がカワサキの主力になった当時のマネージャーだった故岩崎茂樹君も来ていたのだが、
星野はビクトリーランの最後にわざわざチームグリーンのパドックの前でマシンを止めてみんなと言葉を交わし、優勝の喜びをカワサキと分かち合ってくれた。
そんな2&4はカワサキはこの年までだったのか?
翌年は平成3年3月3日に札幌のショールームを開設する予定になっていて札幌にいたからか、何故か翌年には、2&4の記録は残っていない。
でも、私にとっては印象に残っている2&4であった。
88年10月に国内担当に戻って、直ぐレースのOB会を開催した。
安良岡、岡部、梅津、星野など関東にいるライダーたちとも久しぶりに旧交をあたためた。
昔のレース関係者、当時の高橋鉄郎さんをはじめ大槻、田崎さんなど事業部のトップたちも参加して大いに気勢を上げたものである。
現役ライダーは、宗和、多田、塚本などが主力で、鶴田、北川がまだ若手であった時代である。
チームグリーンを中心にサテライトチームも入れて国内レースの活性化を図ろうとしていた。
明けて89年3月4日、鈴鹿サーキットで2&4という2輪と4輪が同時に開催されるレースがあって、
カワサキも宗和などが出場しTT、F1で宗和が3位に入賞などした。
4輪ではまだ星野も走っていて、星野インパルの金子豊君とも久しぶりに会った。
確か記憶が正しければ、片山右京も星野のチームに居たのではなかったかと思う。
このレースからカワサキの新しいレース活動が再開されたといっていい。
そんなレースで、しばらくレース活動の現場からは離れていたので、当時の鈴鹿の関係者の方たちにも改めてご挨拶をしている。
その翌年の3月4日にも同じく2&4が開催されている。
1年経って、レース活動の成果も出てこの年の2&4でカワサキは、
F1では優勝こそ逃したが、ドーソン、塚本、宗和が2,3,4位に入り、7位には北川が入って好成績であった。
F3では、サテライトチームとして活躍していたビートの和泉、高橋が1,2フィニッシュで優勝を飾った。
4輪のF3000では、星野一義君が優勝した。
若い頃、カワサキにいた星野の優勝は何度も現地で見ているのだが、4輪での優勝を見るのは始めてだった。
このレースには、星野がカワサキの主力になった当時のマネージャーだった故岩崎茂樹君も来ていたのだが、
星野はビクトリーランの最後にわざわざチームグリーンのパドックの前でマシンを止めてみんなと言葉を交わし、優勝の喜びをカワサキと分かち合ってくれた。
そんな2&4はカワサキはこの年までだったのか?
翌年は平成3年3月3日に札幌のショールームを開設する予定になっていて札幌にいたからか、何故か翌年には、2&4の記録は残っていない。
でも、私にとっては印象に残っている2&4であった。