飄(つむじ風)

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聖書について!!⑪

2008-11-19 12:23:18 | 聖書について

聖書は難しいと言われる所以は何故か?!!


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<土星のオーロラ:記事に無関係>


 聖書は、難しい。何故難しいか。具体的な説明が不足しているからである。当初からそうであったとは思われない。時の経るままに、相当割愛されたか、変更されたきらいを否定出来ない。本来、イエスはその教えを、大衆に説いた。決して時の知識階級(律法学者や司祭、パリサイ人)に説いた訳ではない。むしろ彼らは、イエスを疎んじ、怖れ、迫害し、最後は殺したのである。


 その大衆は、無学文盲とは言えないかも知れないが、似たようなものである。ゴーダマ・ブッタも同じである。だから、決して小難しく説いたわけではなかろう。きっと、噛んで含めるように説いたはずである。しかし、聖書は難しい。


 難しい中で、最も難しいのは、マタイによる福音書 / 21章 18節から21節にある次の記述であろう。


【引用開始】マタイによる福音書 / 21章 18節~21節    
 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。
 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。 
 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。
【引用終了】


 字義通り読めば、気ままな思惑で、何の罪もないいちじくを枯らしてしまった。そして、その奇跡を信仰の強さを示すために見せたように読める。果たして、イエスがそのような事のために、そのような所為をするであろうか。どうしても信仰を示す所為としては、バランスを欠く。大仰に感ずるのは投稿者ばかりではないであろう。


 これは、聖書の説明不足である。もし、下記のように言葉が加えられるとどうであろうか。


もし人の子に対して罪を犯すなら、あなたがたは赦され、あなたがたの罪は親切と愛の行いで清められよう。しかし、もし聖気があなたがたのために生命の戸を開く時に、これを無視して罪を犯すなら、また、聖気があなたがたの心に愛の光を注ぎ、神の火をもって、これを清めようとする時に、魂の窓を閉じてしまうなら、あなたがたの罪は現世においても来世においても、消えぬであろう。好機は二度と来ないから、幾時代かめぐり来るまで待たねばならぬ。

 

 その時になって、聖気は再びあなたがたの生命の火に息を吹きかけて、えんえんたる火に煽(あお)り立てるであろう。そうすれぱ、聖気は再び戸を開くから、あなたがたはこれを迎え入れていつまでも親しく食事を共にすることも出来ようが、若しそうでなければ、つい幾度もこれを軽んずることになろう。あなたがたイスラエル人よ、今こそあなたがたの好機である。


 あなたがたの生命の木は見かけだけの木で、葉は豊かにしげり、枝は実でたわわに垂れている。見よ、あなたがたの言葉は葉、あなたがたの行為は実である。人々があなたがたの生命の木の林檎をもぎとって見たが、全く苦くて、芯まで虫が喰っている。


 葉や無用の実が一杯ついているあの道端のいちじくを見よ。それからイエスは自然物の霊が分かる一言を発した。すると見よ、いちじくは枯葉のかたまりとなった。その時イエスはまた言った。「見よ、神は聖言(みことば)を語り給う。そうすれぱ、あなたがたは日暮れに立っている一本のいちじくの木である。ガリラヤ人よ、遅すぎぬうちに、選定者を呼んで、あなたがたの無用な枝や、見かけ倒しの葉を切りとらせて、日光の当るようにせよ。」


 太陽は生命である。あなたがたの無用なものを価値あるものにすることが出来る。
 あなたがたの生命の木は良い。しかしこれを長いこと自我の露や、肉欲の霧で育てて、日光を遮ってしまった。
 人々よ、あなたがたに言う。あなたがたの語るすべてのつまらぬ言葉や、いやしい行為に対してあなたがたは神に申し開きをしなければならぬ。<宝瓶宮福音書>》

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<土星のオーロラ:記事に無関係>



 つまり、意訳するとこうである。人は本来、罪を犯す存在であるが、親切と愛の行いで清められる。又、聖気は愛の光を注ぎ、魂を清める。それがなければ魂の芯まで罪により喰われてしまうからである。


 その罪は、自我や肉欲であって、喩えて言うなら、あの葉や無用の実の一杯ついた、いちじくの木と同じである。聖言(みことば)により、いちじくは枯れた。自我や肉欲による無用の枝や、葉を切り取らせるように、自我を超克し、肉欲から離れるならば、聖気が魂の窓を開き、(生命本来の)良い実がたわわに実る良き木(生命)になることが出来る。


 という意味になる。これならば納得出来る。


 おそらく、仏典でも同じ。仏典だと結集(編纂)して2,000年を優に超している。しかも、サンスクリット語→漢語→日本語と変遷している。

 真理は単純だ。分かりやすいものである。少なくとも分かり易く説いたものに違いない。『無学文盲の比丘、比丘尼達よ!!... 云々』で説いた教えが、長い時を経て、知と意が加わり、省略され、変えられ、難しくなった。というより、訳が分からなくなった。


 聖書もそう言うところが随所にある。