遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

フフフ 私の昭和時代

2019-05-02 13:12:07 | 日記

花てぼさんちで 見たので

まねしっこ


私のおやじも失業したことがあるけど

それが いつの時代か忘れた

多分小学校の時だ

ともかく飲んだくれのおやじで

生活は成り立たない

それで 母が 私は子供が好きだから

と 駄菓子屋を始めた

やがて 近くにおいしいパン工場があって

そこのパンを仕入れることができるようになって

パン屋さんとお菓子屋さんをやって

生活が成り立つように?

たいして成り立たなかったか

そういう風な

貧しい暮らし

小学校時代の給食費は300円 それをもらえなくて

払えないことがあったけど

忘れた振りして

へへへ 学級委員の私

給食費忘れた子にちゃんと持ってくるように

伝える係やらされて

私も 払ってないですけど・・・

という風だった


高校進学時

花てぼさんの言うように商業高校は就職口がよく

人気があったけど

私の得意分野じゃない

という自覚はあって 普通科に行ったけど

高校なんか どこでもいいのさ

親がなく 貧しい暮らしだった母は

進学なんかできず

その年代は 進学って 行ける子は女学校よね

それで 親が行きたかっただろう

元女学校ばかり受験したが

ま どうでもよかったのよ


前に 人懐っこい子ちゃんと話したように

数学は大好き って パズルチックが好きってこと

それを

酔っ払い親父は

お前は 数学ができるから 会計士とかになれば食うに困らんから

そうしろといったけど

違うって!

職に就いたときもいろいろな校務分掌はやらされたけど

会計だけは 緻密に資料を整頓できないたちでだめなので

お前は 会計だけは 能がない

子どものことをやると迷惑をかけるから

職員の親睦の会計をやって 勉強しろ!

お前がそれでしくじっても 仲間内だけで被害が食い止められるからな

と言われて やらされたけど

やっぱり

みなさん

私に会計やらせるのは

お諦めになった


そうそう 上に書いたパン屋さん

運んでくれるお兄さんとわが家族は

すごく親しくなった

その彼は 秋田大学に合格したけれど

貧しいので あきらめて

東京に出てきて

パン工場で働きだしたのだ

私の世代は まだ貧しさは半端なく

進学をあきらめる人たちも多かった

東京では割合そうでもなかったかもだけど

ここ茨城に来てみると

地方はもっとそうかもしれない

武蔵も 父親を亡くし 疎開先で貧しい暮らし

姉たちは優秀だったけど誰も進学できなかった

武蔵も どうせ俺も勉強したって進学するわけじゃなし

剣道に明け暮れ

ぐれてくらしてたそうだ

それが お前は長男だから

高校に行っておくれ

と 試験の三か月前に言われて

焦ったそうだ

前に書いたかもしれないけど

私が高校生のころ

おばさんがお嫁に行って

おばあちゃんが(これらはおばさんの養父母

母も親無しで苦労して育ったのだ)入院

おじいちゃんのご飯づくりのために

おじいちゃんのところから高校に通った

その時おじいちゃんちは下宿屋だったけど

同い年の 地方から出てきた 夜間高校生と友達になった

素晴らしく賢い人で

学ぶところの多い友人になってくれた

やっぱり 働きながらじゃないと勉強もできない

そういう時代が

私らの 昭和の高校生時代だ

だから 制服なんかあったけど 公立は強制ではない

私なんか油絵で汚れるからって

ジーパンはいてったことあるよ


武蔵も 貧しくて制服なんかあつらえられないから

お父さんが警察官だったので

その服を改造して 帽子も改造して着用したそうだ

それが今 制服でがんじがらめ 服従させるみたいな話も聞くけどな

貧しい時代だったけど

学校の中は ともかく 小学校中学校高校 みんな自由な校風だったわよ

小学校時代の通信簿

名前が カタカナなのは

則子という名前が 男運が悪い と言われ

父親に戦死され 育ての父がひどい酒乱 ということで

迷信深い母が恐怖に駆られて

こういう文字の通称にした

だから 小学校時代は ノリ子ちゃんだったのだ

後は戸籍通りじゃないとイカンからね

コメント (1)
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