善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
親鸞の歎異抄の中の有名な語句だけれど
これ
わかったような
分らないような
だったけれど
先日 急にわかった気がした
往生を遂ぐって 死ぬことよね
衆生を阿弥陀浄土に往生させるというのが阿弥陀様の本願
といい
いわんや悪人をや。
って ねえ
突然思った
わたしはもちろん阿弥陀浄土なんか信じない
下品(げほん)の人間だわよ
それでも 死は万人に訪れ それは救いであるということか!
と 突然思った
浅はかだけれど ホント 眼科の検査が本当に苦しくて
そこに入院施設があってぶっ倒れられたら
どんなにいいだろう うちに帰りたくないと思ったのだ
それで不謹慎にも 父の自殺のことを思い出した
わたしは その時 妊娠中だったから
孫が生まれてかわいいのを見たら生きる気力がわいたはずなのに
なんて馬鹿なんだ
とか ひたすら 父のことを怒って
父を失ったという悲しみから目を背けようとしていた
でも 亡くなる数日前 母から電話があった
お父さんはもう ダメかもしれない って
あの時母は父の死と向き合っていたのだな
そうして 自殺されちゃったけれど
病気で苦しんでいたので
病苦に対して半狂乱の日々を支えてきて
母の目にも その死は救いに見えたのかもしれないと思い至った
先日も 病苦の中絶食一週間で亡くなった人を送った
介護した人は さぞつらいだろうと 思ったけれど
極 身近な人は もちろん失った寂しさに耐えがたいだろうけれど
死を受け入れるということが
阿弥陀信仰なのかもしれないという風に思った
私の実家の寺の宗派は浄土真宗なので
母が亡くなったときは 住職が 足しげく通ってきて
お経をあげ いろいろなお話をしていったけれど
坊さんは 家族を失ったものに 適切な経を上げ
わかりやすく 死を受け入れられるような話をするのだなあ
と 敬意を抱いたのも思い出した
九品の往生ってさ 頼通なんか
平等院作ってこの世に浄土を具現するような世界を表現して
・・
流行ったのだよね
でも
よく ぼけちゃうと 死の恐怖から救われて
分らないまま逝けるから
救いかも
と言うけれど
ぼけようがぼけまいが
人は必ず死ぬわけだし
死なないというのは それこそ地獄だわよね
糞尿地獄 考えてみれば
元気で生き抜く人は ほとんど糞尿地獄にお世話になる
阿弥陀様は そういう衆生も必ず救う
すごくわかりやすい