オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

豚&ブタ・・・

2011-12-19 | Weblog

12/19(月) 今日のメニューは豚肉となった。豚ヒレ肉の香草焼と肩ロース肉と根菜の煮付け。これに付け合せの野菜たちである。

香草焼はローズマリーとレモンハーブにワインで、下仁田ネギ・エノキの炒め物を添える。煮物は、大根と人参・インゲンがお供で酒・醤油に味醂とウェイユーで味付けする。そして、最後は、定番の卵焼きであった。

                    

今日は、淋しくも弁当は二人前である。長女は弁当が要らないそうだ。Kと家人の二人前だが、一人分の菜が余った。小僧が朝飯で喰っていた・・・。

                         

其々、一口づつ味見だけはした。中々の弁当の菜であった・・・?

 

 「古い人たちと・・・」

今週は二晩ほど、若い頃の知り合いと会う。今日と、明後日である。

そう云えば、昨日懐かしい唄(民謡)がラジオから流れてきた。

「白浜音頭」である。『房州白~浜 ヨーホエ住みよ~いところョ、真冬菜種の・・・花盛りヨー・・』なんて云う詩の、千葉県民謡。

この唄は、入社四年目にご一緒し、三年前に亡くなった小宮係長から教わった。当時は、墨田区横網の墨田地区管理部に勤務していた。震災記念堂の横の建物が勤務先で、釣の好きだった小宮さんから、投げ釣を教えて貰い、練習をしたのは震災記念堂の脇の空き地であった。

お酒も大好きな好々爺然とした方であったが、今思えば未だ四十半ばの年齢であったはず。担当業務は、小宮さんと私の二人だけの係りであった。飲みに行く店は居酒屋、「偶には姐さんがいる店に行きましょうよ」と、云ったものだった。

その小宮さんが、酔っ払って行く先が「民謡酒場」であった。亀戸や錦糸町辺りの小さな民謡酒場、そこで「白浜音頭」をよく歌っていた。

そんな民謡酒場って、未だあるのか?時代の時がゆたったりと流れていたような気がする、昭和四十年代後半の頃であった。

先週金曜日にもある方と会ったが、この方も墨田地区管理部時代に仕事上で付き合いがあった社内の方。職場を訪問し、その後、暫し杯を交わした。来春には完全にリタイアするとのことであった。

今日会うのは、サラリーマンになった最初の職場でお世話になったSさんとO君である。遥か四十年を越えた時代のことである。江東区の外れ、東陽町にあった電話局に勤務した時のことで、都電がまだ走っていた。

当時、Sさんは労厚係長、O君は資材担当で入社二年目であったか。新入りながら態度だけがでかい私は、O君から社長と呼ばれてからかわれていたものだ。庶務係りであった私は、給与事務等を担当していたが、算盤が全く駄目でO君の応援で凌いでいた。

O君の算盤術は、私からすると神業であった。労厚係長だったSさんは、組合対応などでご苦労をされていたが、若い人たちへの配慮には並々ならぬものがあった。

最初にゴルフのクラブを振ったのはこの当時。O君と二人で、Sさんに連れられての赤羽の河川敷練習場であった。この時、Sさんの東十条の自宅でカッドンなどをご馳走になった記憶がある。

最初の師匠が悪い所為で、ゴルフが上達しない。と、その後にゴルを始めた私はSさんに云うのが常であった。そのSさんも、奥さんに先立たれて一人暮らしが長い。

O君は西尾久に自宅が在り、何度か立ち寄った。既にお父さんは亡くなっており、母親との二人暮しであった。ここでも何度か飯を馳走になった。

スポーツマンのO君は、我が電話局のエースであったが、体力不足からか後半になると打ち込まれたようだ。当時大流行だったボーリングでは、300点近いスコアを出していた。

野球の電話局対抗戦の翌日、線路課のメンバーやSさんから冷やかされていたのを思い出す。そのO君の結婚式で、司会を努めたのは私であった。サラリーマン人生も順調であったが、或る時厭なことでもあったのだろう、サッパリと退社した。

介護で苦労されたようであるO君の母親は、今春九十一歳で亡くなったとのこと。

働き始めた頃に出会った人たちと、今も会えるのは嬉しいものだ。会いたい人たちは沢山いるが、大半は会へないままに終わる。そして亡くなっていく・・・。人は皆、死ぬ運命にある。か、・・・。

 

 

コメント
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