2/2(日) 今日の昼前、羽田空港に着いた。火曜日の午後、高知竜馬空港に着いて真っ直ぐに高知市内の葬祭場に向かった。従弟の直宏君の通夜が執り行われるので、何かお手伝いができればと早目に式場に入った。暫くして家族やお棺が式場に着いた。伯母さんや奥さん、一人娘に掛ける慰め言葉もない・・・。
安らかで綺麗な死に顔だった。土曜日の朝、出勤のために車で家を出て100mほど行ったところで心臓近くの大動脈剥離で意識を失い、そのまま亡くなったとのこと。前日に不調を言ったすだが、この日、朝食を摂って家を出たのが最期であった。姉二人の長男として生まれ、安芸市の実家には94歳の老いた母が居る。心残りであろうが、一瞬に訪れた死はすべてのことを瞬時に消し去ったであろう。
取り敢えず通夜が始まるまでの間、受付を手伝うこととした。故人は銀行のOBで、未だ関連会社に勤務をしていたので受付の方も数名きてくれた。式場には銀行関係や野球関係、一人娘の勤務先などからの生花が並んでいた。
翌日は通夜につづいて告別式、そして火葬に附されたが、家族の慟哭がつづいた。不謹慎ながら、私が死んだとてこんなに嘆き悲しむものはいないなと、ちょっと安心でもあった。あまり愛されないと云うのも、いいものかもしれない・・・。後に心を残す生き方をしない、これが出来れば幸せじゃなかろうか?
一つ年下の、従弟の死と葬儀に立ち合いながら、早く逝くがいいのか、遅れて逝くがいいのか。こればかりは選択のしようがないにしても、何れが良いのかを考えたりしていたのであった。
週末の31日は、従姉のご主人の七回忌が安芸市の清水寺(せいすいじ)であった。本来、この法事に併せて帰省の予定であった。従姉は私の亡父の姉の子で、その次男と弊社にいたSAKUMA嬢が縁あって一緒になった。七回忌を迎えた従姉のご主人とは、そんなことから何度か酒席を共にし、肝胆照らすような気がしていたが、数年を経ず故人となった。げにや儚きは人の世である。
内々で七回忌をすると聞いていたが、故人への思いや、従姉の実家との密なる関係を考えても私が顔を出しても許されようと、参列する旨を伝えてあった。法要は、真言宗智山派清水寺の本堂に置いてしめやかにおこなわれた。御本尊は観世音菩薩である。
法要後、家族だけの食事会にも参加して束の間、故人を偲んだ。この前日、生憎の天候で昼まで風雨であったが、私の郷里の町の守護神「神峰神社」と四国八十八ヶ所の27番札所「神峰寺」に登った。スタッフの一人が体調を崩したことから、彼の平癒を祈った。
実家では何時ものように飯作りである。種類と量を作らないと面白くない。「こんなに作って、よう食べん」と母が云うが・・・。ついつい自分で食べ過ぎとなる。
或るの日の夕食は、「みみなし」という川魚(冬期、大きな川石のそこで冬眠中。石をゆすって獲る)と川エビの煮付、「猪鍋」、イタドリの煮物(塩漬け保存)やブリの照り焼き、味噌汁と田舎の自然食・ジビエ料理である。とはいっても、材料は従姉妹らからのもらい物である。
昨日は蜜柑畑に出て文旦を半分ほど収穫。そして有機肥料を撒き、消毒(農薬に入らない機械油)をする。とは云いながらも、作業は親戚のTOSHIYUKIに殆ど押しつけたが。膨らんだ梅の蕾の枝先に、ミノムシがぶら下がっていた。春もまじかと感じさせる、ひと時であった。
高知は連日暖かであった、こんなに暖かい一月も珍しいのではなかろうか。帰京の今朝などは春の陽気、靄がかかり四月を思わせた。
然し、一月は早く過ぎていった。年始や三連休と休日が多い所為もあるが、それにしても早い。これじゃ、あっという間に年末を迎えるぜ。生きてさえいればだが。