オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

暇にあかせて・・・

2015-08-21 | Weblog

8/21(金) お盆明けから初めて会社に顔を出した昨日。八時ごろから近所の飲み屋に顔出しとなった。先ずは「ローカーボ」さんでハイボール、相方はTOKIOさん。彼の信州・安曇野の施設に居る母親の様子などを聞きながら一杯、もう一杯とハイボールの美味さを味わった。

次いで「SEIJU」を覘いたが、珍しいことにサラリーマンでカウンター席が埋まっている。そっとドアを閉めて「ちょっぷく」に向かった。丁度、店の前でYAMAちゃん店長が客を見送っていた。その姿はバニーちゃん、ピンクの兎の耳を被っていた。余りの暇さに、やけくそになったのか?

                        

店内に客の姿は疎ら、これじゃやけくそでバニーちゃんごっこでもしてなきゃ間が待たねえか。またしても、売れ残るからと摘みをじゃかじゃか、ワインをグラスになみなみと注ぐ。閉店間際まで居たら、すっかり酔いが廻ってしまった。帰宅は零時前であったか?

今朝は、妙に胃もたれしている。昨日の昼の「半チャン・ラーメン&生ビール」か、「ちょっぷく」での― 摘み攻め&ワイン攻撃― の所為か、判然としないが・・・・。

今日は休みの予定だった。そんなことで出社午後からだと、落ち着かぬ胃をなだめようと、朝飯を食しながらビールを飲むことにした。朝飯は、弁当用に作った「オムライス」だが、これは昨日の昼飯で、半チャン・ラーメンかオムライスかと迷ったことが尾を引いたようだ。

今日の弁当は残り飯でオムライスと考え準備をした。念の為に白飯も炊いたのだが・・・・。長女は今日は休みとのことで、弁当要らずと判明。家人は、普通のご飯がいいと、これまたオムライスを拒否しやがった。そんな次第で、オムライスはオイラと小僧の朝飯になった。

家人の弁当が白飯となると、何か菜が必要だ。急遽、南瓜を煮ることにした。今朝のカボチャは、家人の友達で函南町在住のNAO&MAKI夫妻が送ってくれたもので、大量の紫蘇ジュースや胡瓜などと一緒に頂いた。心して煮なくては・・・・。

カボチャを煮ると、往々にして焦してしまうのだが、今朝は上手くいった。まあ焦さなかったというだけのことだが。なかなか、美味しい南瓜だった『NAOちゃん、美味い南瓜だぜ』。

                            

他の菜は、小松菜のお浸し、出来合のシューマイに焼き鮭、卵焼き、以上である。「今日は忙しいので、弁当をゆっくり食べる時間がないよ」と、作り手からすると張り合いのないことを聞き、手抜きの作りになっていた。と、云う次第。胃もたれも影響してるか?

                     

 

昼過ぎ、会社に出ようとすると次女が「今日はアタシの誕生日よ」と言う。『そうか?すっかり忘れてたよ。オメデトウ・・・。じゃあ特別に、俺がいなくてもカニを一匹喰っていいことにしよう』と、今朝札幌のT女史から届いたばかりの、大きな浜茹で毛ガニを食べる許可を与えた。次女は魚は好きじゃないが、カニ好きなのだ。

 

そう云えば、前日の8月20日が誕生日だった姐さんがいた。いたというのは、その姐さんは十六年前の初秋に亡くなった。六本木のクラブで働いていた。昔一緒に飲み歩いたKOSAIが連れて行った、防衛庁脇の通りに在った店、六本木クラブで会ったのが初見だった。そこから、六本木のクラブを何軒移たろうか。最後の店は、防衛庁前の通りを入った横丁にオープンした、シュールと云うミニクラブだった。

その姐さんの気性が気に入ったので、飲み行くと呼んでいた。何度か店がはねた後も飲みに行ったが、深酔いをすると荒れた。胸の奥に深い傷でもあったのか、単に酒癖がよくなかったか。前者ではなかろかと思っていたが・・・・。

誕生日が二十日と聞き、覚えていた。「よく覚えているわね」と言われたが、答は簡単なことだ。サリーマン時代の給料日が二十日だった。給料日と同じだから忘れようもない。しかし、そんな答えは明かさなかった。知らない方が夢がある。

それと同じように、その姐さん― 源氏名はAYAで通していたが、本名はAKIKOと聞いた、同じ店に明子と云う姐さんがおりAYAにしたとか― のことで知っているのは、世田谷の水道屋が実家で、実家に息子を預けている。そんなことを聞いたが覚えがある。そして本名は、木偏に日が二つのSUGIMOTOと云うことぐらいだった。

毎年八月の声を聴くと、窓の鍵に紐を掛けて、深夜の部屋で(店がハネて、帰宅してからだったとか)首を括った姐さんのことを思い出す。
AYAさんが逝ったのを知ったのは、三月も経った師走。雪交じりの霙が降ってきた晩のことだった。当時、横須賀に勤務しており六本木の巷を彷徨うこととはすっかり縁遠くなっていた。店に寄った友人からの知らせであった。只々驚いた。

あれから十六年、なんの手助けもしてやれなかった。そんな思いだけは拭えない。

 

お盆、終戦記念日、沈黙の八月。

 

 

 

 

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