オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

朝からカレー

2014-02-13 | Weblog

2/13(木) 昨晩、今朝と炭水化物のオンパレードになっちゃった・・・、駄目な男である。昨夕、大手町の某社に勤務する後輩のKeijirou君と会った。夕闇迫る大手町はN・Yのような佇まい。私がこの町に勤務したのは、三十年以上も前になるが、当時のビルはすっかり変わり、ピカピカの高層建築になった。

未だ変わっていないのは大手町ビルと、朝のモーニングコーヒーでさぼっていた新大手町ビルぐらいである。このビルも早晩建て変わるとか。旧丸の内ホテル辺りから、国電(今じゃJRか)のガードの先の上空を見ると、仙台銘菓の「萩の月」のような色合いの半月が浮かんでいた。

                   

かつて勤務したビルは雄々しく聳え、シティと云う雰囲気を醸している。keijirouは、かつて勤務し、今は雄々しく聳えるこのビルに勤めている。懐かしい場所ではあるが、然しこれだけ変わってしまうと懐かしさも湧いてこない。不思議なものだ。

思いおこせばここに勤務した頃、薫風とともに花々が咲き始めた時期は、職場の皆で弁当をを誂えて皇居内の公園で昼食と摂った。花見に次ぐ、五月の恒例の行事であった・・・・。のんびりとした、いい時代のことである。

                 

この雄々しいビルの地下にある安酒場(安い店があるんで安心するぜ)で待ち合わせた。前にも一緒に入った「杵屋」である。彼が、ここに焼酎のボトルを入れてあるとのことで、此処になった。

 何時もながらの昔語りが中心だが、一応仕事のことなども訊き、見積もり提出の用意があることなども伝えておく。Keijirou は、先般松山から上京したHoshika君の下にいたので、その時のことなどを聞かせた。ほど良く酔いもまわり、私のフランチャイズ・人形町までのすことになった。東京駅発21時30分が、静岡まで帰る彼の最終便、その時間に間に合うように送り出せばいい・・・。

そうなんだ、彼は静岡から新幹線通勤をしているのだ。朝は五時半起きで、七時過ぎの新幹線に乗り、出社は八時半だと云う。飲み過ぎて帰れない日は、御徒町のカプセル・2800円に宿泊だとか(ゆっくり眠れるのでいいそうだ)。寝てしまい、何度か乗り過ごしたこともあるそうだ。ご苦労なこったよ。

人形町では、取り敢えず「ちょっぷく」で一杯やり「ローカーボ」へと移動。彼はホットワインなど注文、三分の一程飲んだところで眠り始めた・・・。お疲れだろと、カウンターに顔を伏せたままの彼を暫く眠らせた。その間、私は隣に座っている女性と歓談をして時間を潰した。店は珍しく混んできた・・・。

頃合いを見計らって起こした。九時前であった。タクシーに乗せ東京駅に向かうように伝え、別れた。不幸にも、彼を見送ったのが九州ラーメン「由まる」の前だった。ついつい店に入り、豚骨ラーメンを喰っちまったと云う次第。流石に100円の替え玉は控えたが・・・・。

そして夜中に目覚める。本を暫く読みながらNHKの「ラジヲ深夜便」から流れてくる、雪をテーマの歌を聴いて過ごした。酔いが醒める所為か、連夜の深夜の目覚め、新聞配達のバイクが来る3時半頃である。明け方にウトウトと一時間ほど眠った。そして、朝風呂に浸かり・・・。

台所を見ると、カレーが匂ったのだ。先日から家人が煮込んでいた豆スープが、カレーになっていた。止せばいいのに、カレーライスにして喰う気になっていた。昨晩の余計なラーメンを考えれば、今朝もスムージーが穏当な処なのだが・・・。食い意地の張っているオヤジは、喰いっ気に負けて朝からカレーライスを喰っちまった。でも、量は抑えた・・・つもり。

                  

カレーライスで胸焼けと胃もたれの腹を抱えて出勤となった・・・。外に出ると河津桜が四五輪、花弁を冷たい風にそよがせていた。

                  

 

 

 

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今朝もスムージー

2014-02-12 | Weblog

2/12(水) 昨日・今日と滅法に寒い、雪の降った方が暖かいと実感する。さて、今朝もスムージを飲むこととした。最近周りで体調が悪い人が多い、そんなことに気をまわしてのスムージーと云うことでもないのだが・・・。

スムージーを飲んでいると、腹具合がいいねえ・・・・、飯を喰っちゃうと膨満感というか、腹モタレがするがスムージーだとそういうことがない。夜の夜中に腹を減らして飯を喰ったり、休みの日は朝から大飯を喰らうのでせめて朝はスムージーと云う処か。

そんな訳で「リンゴ・キューイ・セロリ・ウコン」のスムージーとなった。仕上がりは綺麗なウグイス色であった。これを飲むというよりは食べるような感じで頂戴した。

                  

年末始以来、飯の量が増えて体重も増え、腹回りも成長の一途。これじゃ、膝にも負担が大である。かといって、大の大人が飯も喰えないようじゃ笑われる。困ったもんだぜ!

昨日の祝日は朝から会社に居た。大体は午後に出るのだが、チョットした資料を作る用があった。昼までスタッフのKURODAが、午後からインド帰りのRIEが、さらにYOSHIOが出てきた。暖房を入れているのだが、寒かった~。

折角作った資料が、保存せずに消してしまったようだ。いくらデータを探してもない、こんなドジは二度目か。プリントアウトしていたので助かったが・・・・。日が暮れて寒さが募って来る。YOSHIOに「寒いから早いとこおいて、飲みに行こうーぜ!」と声かける。待ってましたとばかり、『行こう行こう』と返ってきた。

「さぶいな~」なんて言いながら、人形町交差点に向かう。「ローカーボ」も「ちよっぷく」も灯りが点いていない。交差点を渡った『正田屋』なんて云う居酒屋に入った。この店に入るのは初めて、同じチェーンだと思うが、此処にあった前の店には入ったことがある。中の造作は全く同じ、メニューが何でもかでも『牛』と付いていた。

客の入りはまずまず、子供つれの家族が二組いた。今から安酒場のへんてこな味に慣らしちゃうと・・・碌な大人にならないぜ(俺みたいなヘンテコなオッサンだ)と、余計なことを云いたくなるが・・・(これはYOSHIOの弁なのだ、本当は)。

オッサン二人は寒い寒いと云いながら、先ずは焼酎の湯割りを注文する。温かなグラスを掌に包み込み、温もりながらの酒であった。摘みの方は、大した期待もできないので、YOSHIOと同じく『牛煮込み豆腐』なるものを頼んだ。煮込みの割には出てくるのに時間を要した。味の方はアッサリ系?要は味がしないと云うことだ。何の期待もしてないので、がっかりはしない。

後は、出汁巻卵と牛なんちゃらの鉄板焼きと云うやつを注文した。これらは味音痴のYOSHIOが殆ど食した。偉い!グダ愚だと言いながら、写真だけは撮った。

                   

ちょぼちょぼと焼酎を飲りながらのテーマは「人生の因縁」について、になった。「人はいろんなこと、場面で因縁が生れうんだが、あんたの、これが因縁だったなという出会い、心に残っている因縁話は?」水を向けた。・・・何だか思案をしているが、これだと云う因縁話が出なかった。私の場合は、中学生の時のことになるか・・・その話をした。

結末はちょっと暗く、哀しことになる。死にまつわる話なのだ・・・。だから、この話を記すのは控えよう・・・。そんなことを話、じゃ明日と、早や目に切り上げた。店の中では焼酎力で暖かになっていたが、外の風は冷たく、身に染みた。

 

 

 

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スムージー

2014-02-10 | Weblog

2/10(月) 都心を襲った雪の後遺症も、昨日の日曜日で大方は片付いたようだ。それでも路上には、雪の残骸でシャーベット状態が見られるし、歩道も泥濘が所々に残る。

弁当もスムージーにもすっかりご無沙汰であるが、今朝は久々に「スムージー」を作ることとした。土曜日だったか、TVで心臓の名医と云われる天野Drが出演した番組で心臓病の予防法として野菜や青魚を摂ると云うのがあった。

亡父は、弁膜症の術後が悪くて急死した。私も元来、不整脈や弁膜不整を云われている。そんなこともあるので、スムージーで野菜系の摂取を図ろうとのケチな料簡を起こしたのだ。どうせすぐに忘れるに決まっているのだが、体の方がその気になっているので致し方なしだ。

そんな次第で今朝は「人参・セロリ・キャベツ・キューイ・アボガド・ウコン」のスムージーを作った。水分が足りないので、ボロミキサーが途中で空回り、そこでミカンジュース(100%)をグラスに半分ほど加えた。

             

久々のスムージーは美味かった。が、家人はバカにしたような顔をして私を見た。面白くないやつだぜ・・・。

 

出社後、ベランダでタバコを一服しながらYOSHIOと雪の後始末の話をすると、一苦労有ったようだ。塵取りで雪掻きをしたら、プラスチックの軟な柄が折れて往生したとのこと。都会ではありがちな話である。

都会の雪にまつわり話を二つ紹介しよう。一つは学生時代のことだが、友人のOOI君がアパートを引っ越すことになった。それが丁度雪が降った翌日であった。貧乏学生らしく、荷物は少ないので「リヤカー」(懐かしいねぇ)を借りての引っ越しである。雪の翌日はよく晴れて、ボタ雪でぬかるんでいた。助っ人は私一人だったような気がする。

雪の残った高円寺の裏道を私がリヤカーを引き、OOI君が後から押していた。この年の雪も多かった。途中で押し役のOOIが「あっ」と叫んだ。振り向くと見事なカエル姿になって、ぬかるんだ雪道に腹這っていた。札幌出身の彼にしては無様であった。卒業後、札幌に戻った彼と音信が途絶えて久しい。都会の雪のニュースを見て、彼がニヤリとしていると面白いのだが・・・。

もう一つは比較的に新しい話。この年も結構な雪が降っった、土曜日のことと記憶するが。横須賀の単身寮で一緒だった、後輩のKATUTA君の引っ越しの時のことだ。彼は転勤とともに家族が一緒に暮らすことになり、横須賀から品川の台地にある社宅へと引っ越しすることとなった。

この日、明け方から雪が舞いだし、昼には猛雪となっていた。この日、末娘の中学の受験申込書を貰いに学校に行き、それを濡らさぬように胸に抱いて品川の坂道を上って社宅に向かった。風雪で傘をさすのも一苦労であった。

午後1時過ぎには荷物が品川に着くとのことで、品川の社宅で荷物を受け取るべく、部屋の掃除を済ませて彼の部下と待った。待てど暮らせど荷物が着かない。とうとう黄昏になってきた、雪の中を弁当や飲み物などを買い出しに行き、主不在の部屋で飲み食いをして待つ。それでも来ない、寒い・・・。

私は「風呂の具合をチェックしようぜ」と、風呂に湯を張らせた。引っ越しのためにタオルは用意されていたので、それを使ってのんびりと風呂に浸かったのであった。一っ風呂浴びて、暫くしてから漸く荷物が着いた。外は既に真っ暗で、吹雪いていた。十余年前の雪の日のことである。

今、KATUTA君が住む松山も雪が降る処、ましてや彼の住いが在る町、久万高原町はその名のとおり四国山脈の山懐に在る町。今回の雪では、相当に降ったかもしれない。

 雪にまつわる話を思い出した次第・・・。

 

 

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雪・ゆき・ユキ

2014-02-09 | Weblog

2/9(日) 昨日の未明から降り始めた雪は、夜までつづいた。雪に弱い東京のこと、某TV局などは一日中雪のニュースを流していた・・・「他に放映するものがあるだろう、バカやろう~」と云うう感じだが、それを見ていた私は、輪に掛けたアホと云うことか。

TVと云えば、最近は地上波が面白くないのでBS放送が専ら。番組制作会社の友人Hが、自ら認めるように碌な番組がない。そんな訳で、雪に振り込められた昨日は、金曜日の酒の余韻を引きづりながら本を持って一日部屋に垂れ込めていた。

金曜日、人形町からほどちかの秋葉原に勤めている末娘と一杯やることにした。娘も同じ日比谷線で通勤なので、人形町の行き付けの酒場で飲むことにする。折角の機会なので、長男小僧も呼び小言を垂れながらの家族酒である。

先ずはショットBARの雰囲気の「ローカーボ」で末娘とワインとハイボールを始めた。入り口のL字カウンターの端が指定席なので、先ずは此処に陣取り赤ワインを、マスターのホットにしますか?の声に釣られて、それも飲んだが、美味くはなかった。普段、摘みを取ることはないが、娘は腹減ったとちょこちょことオーダする。カウンターに置いた私の札が、みるみる少なくなって行く。が、そこはぐっと堪えるしかないオヤジの辛さ・・・。

                       

我が家の呑み助は、長女と末娘だけ。家人や次女・長男はからっきしダメなのだ。私の親父も家人の父も大酒飲みだったが・・・遺伝子が違ったようだ。遅れて小僧も加わり、一卓だけある奥のテーブルに移りオヤジの小言付きの盛り上がらぬ酒となった。

                       

                    「おめ~よ、そんなことでどうするんだ」と、云うようなシーンか?

長男は先に帰り、娘と二人で「ちょっぷく」に移動する。と、ここに常連で飲み仲間のH氏が居た。娘と一緒と分かると、土産にとスタバのパンケーキを買ってきた。以前、私の誕生日の折にもそのようなことがあった。妙に気遣いをする人なのだ。私のスタバ嫌いを知らないようなので、今度、キッチリ伝えよう・・・。

娘が帰った後、H氏の言に従って「Seiju」に流れてカラオケとなった。そんなことで、金曜日の帰宅は24時であった。この時点では未だ雪は舞っていなかった。

明けて土曜日は、雪が舞って雪国のような様であった。これ幸いと、朝飯を喰いながらビールを飲む。後は本を読みながらのうたた寝がつづいた。極楽トンボの一日を過ごした次第さ。

そして今日の日曜日は雪掻きだ!と思っていたが・・・。なんと、我が家の左右100mに渡って道路の雪が綺麗になっていた。朝から外でガリガリ、コリコリと音が響いていたが、我が家の真ん前に拠点を置いた線路工事会社のメンバーが雪掻きをしたようだ。深夜明け方を問わず車の出入りがあるので、住民サービスと云うことだろう。大助かりだが、私の仕事が無くなった・・・。

              

10時を過ぎると梢に積もった雪が解けた、河津桜の蕾が二三輪咲きはじめていた。昨夜の雪と風に凍えていた姿とうって変わった春の装いである。

ぬかるんだ雪道を行くと、通りの軒先に綺麗な雪ダルマが設えられていたが、一時間後には溶けはじめて頭をうな垂れ、お辞儀姿となっていた。

                          

都心では二十年ぶりの大雪とか。昭和59年の二月、辞令を貰って着任早々の大雪が当時の部長の引っ越しと重なり、雪掻きをしながら引っ越し手伝いをしたこと思い出す。近所の運送屋さんでスコップ借りて雪掻きをしたが、そのスコップの柄が折れてしまい新品を買いに行く羽目になった。笑い話である。

或る冬の雪では、当時住んでいた社宅から都立大学の駅に向かう下り坂が滑るのでゴルフシューズを履いて駅まで行ったこともある。また、若かりし時に降った春の大雪は、ソメイヨシノは既に終わり牡丹桜が咲いていた。それを雪がすっぽりと覆った。この時、ラジオの深夜番組で『旭川は未だ、雪に埋もれているよ。東京はそれぐらいの雪で大騒ぎして・・・』と、投稿が読まれた・・・。

南の国で育った私には、雪国のこと暮らしは分からない。それでも雪掻きの、雪下ろしの大変さは想像はできる。雪国の友人たちよ、屋根から落ちるなよ、腰痛めるなヨ・・・。

 

 

 

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遠方より友来る

2014-02-07 | Weblog

2/7(金) 昨日の午後、珍しく営業の真似事でクライアントを訪問した。幾つかの広告案件について、覚束ない説明をしたが・・・。帰社のすがら、吾ながら下手な説明だと反省した。最近、プレゼンテーションらしいことから遠うざかっている、てき面だ。

最寄りの人形町駅に着いてから携帯電話が鳴った。冷えた手で背広の内ポケットから端末を引っ張り出して液晶画面を見る。と、四国・松山市に在住の友人HOSHIKA君からであった。「さては、東京に来ているか」と思いながら耳に当てた・・・『いま電話してて、ええんかいな』と、緩やかな伊予言葉が聴こえた。

案の定、新宿の本部での打ち合わせが終わったので会う時間はあるかと、HOSHIKA君からの連絡であった。彼は、公衆電話会の四国支部(?)に勤務しており、東京で打ち合わせがあったとのこと。幸いにもこの時点では、私の夜の予定はなかった。「それじゃ渋谷・奈加野で会おう」と云うことになった。かつて職場を同じくしたABE君も誘おうと連絡を入れたが不通。

一旦会社に戻りメールや伝言をチェックし、あたふたと渋谷に向かった次第。先に店に着き暫く待つと、田舎のオッサンらしく帽子を被りマフラーにウィンドブレーカを着込んだHOSHIKA君が現れた。「なんやその格好は?」と訊くと『防寒防寒』と反ってきた。

仕事のことや松山の友人たちのことを訊きながら、ビールと焼酎の湯割りを飲る。前回会った折に聴いた畑仕事について尋ねた「野菜はその後も作っているんか?」、『やってますよ、まあ今は冬なので少しだけなんやが。後一年で仕事が終わるので、そしたら西条に戻っで本格的に遣りますよ』とのこと。彼の出身は西条市なのだ。

松山市在住のKやM氏、懐かしい剣道部の先輩方の動向を尋ねると、広報同窓会とかで今月に一杯やる予定があるとのこと。皆さんOBになられて悠々自適の暮らしだ。「宜しく伝えてくれよ」と頼んだ。懐かしい話、ことばかりである。それだけ年月を齢を重ねてしまった・・・。

 昨夜は、そんな思い掛けないできごとがあり、懐かしき皆々さんの顔が浮かんだ。

 

遠方からの友と云えば、丁度二ヶ月前のことになるが、札幌からSさんとNさんが東京に来られた。S&Nの仲良しの両女史、我が友人のT女史の元配下である。S&Mでなくてよかったなどと、下らないジョークを飛ばすと張ったをされそうだ・・・。冗談はさておき、その折に二人が宿泊されたのは八丁堀のアパホテルだった。

                       

今日の午後、八丁堀と築地の中間に在る税務事務所に行った。その帰り、八丁堀駅まで裏道を辿った。と、記憶のある通り出て見覚えのある建物が目についた。それが「八丁堀南 APAホテル」であった。黄昏てからホテルに着いたお二人を、迎えに行ったことが思い出された。

                    

それは師走に入って間もない頃であった。大通りから、僅かにホテルの屋上のサインが見えた。そのサインの右上の彼方に、三日月が冬空に浮かんだ風景が、今も脳裏に刻まれている。今は未だ黄昏時でない・・・それでも空を見上げた。一筆刷いたような薄雲の彼方、十時の方向に薄い半月が在った。

                     

札幌と云えば「雪まつり」が始まったと、ニュースで知った。残念ながら雪まつりの期間に札幌を訪れる機会がない。始まる前の雪像を作りで大わらわな時、祭りが終わり雪像を壊し始めた大通り公園の光景は見ている。が、肝心の祭りで盛り上がっているシーンを知らない。

Sさん、Nさんは、もう雪まつりを楽しんだろうか?或いは、そんなものには食傷して自宅の雪掻きに大わらわ。雪なんてと見向きもしてないか?札幌は雪ン中。

明日は東京でも本格的な雪との予報・・・・都心で5cm程とのこと、北国人に笑われそうだ。それでも、明日は一日部屋に垂れ込め、喰う・ビール・本と極楽トンボを決め込つもりだ。果報は寝て待つのみ!

 

 

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春遠からじ・・・

2014-02-06 | Weblog

2/6(木) 今朝も寒い。冬なので寒いの当たり前なのだが、先週が暖かだったので余計に寒さを感じる。それでも、鉢植えにしある「河津桜」の蕾が膨らみそろそろ咲きそうな気配。これは例年より早い。

                     

一方、蝋梅の花は遅れて漸く開いた。一月には咲いていたのが、今年は二月に入った。郷里の畑の脇に植わっている蝋梅は、十二月から咲いており、先々週には散り始めていた。

                        

こうした樹木の芽を見ると、春は近いと実感する。毎年の如くに花は咲き、葉を茂り、伸び、葉を落とし束の間の休息をする。一年と云う輪廻を繰り返しながら、何時かは果てる時を迎えるであろうが・・・。

 昨日、老人ホームに入所している伯父を訪ねた。九十四歳の誕生日であった。

訪れる人も稀であろうか、伯父は毛布を被って寝ていた。耳も遠くなり、聴こえが悪いので紙に「九十四歳誕生日おめでとう」を記し、ショートケーキなどを持参した。眠りが深いようなら枕元に置いて帰るつもりだった。が、肩に手を置くと朦朧と目覚めた。

束の間、ベットサイドに座した。伯父は酒が好きだったので、一番小さな缶ビールを持参した。喜んでそれで喉を潤しながら「飲むことがないから、これだけでも酔うんだ」と言った。飲み終えたその空き缶を「これを外で捨ててくれ、前に空き缶を見つかって𠮟られたよ」と、大きな声で言った。これじゃ、こっそり飲んだのが職員にばれちゃうぜ・・・と、心配した。耳が遠いので、自ずと声が大きくなるのだ。

誕生日だ。ちっちゃなビールの一缶ぐらいは許してほしい。ささやかな楽しみもできないホーム暮らしが気の毒ではあるが、如何ともし難い。カーテンで仕切れる、ベットの上だけが安らぎの場。それでも、暖かなベットが在るだけでも幸せか・・・。

これから芽吹き、花を咲かせ春を告げる木々。老齢をベットに横たえて枯れ、朽ち果てて行くばかりの伯父。天女でさえも五衰を迎えると訊けば、生身の人間が衰え消滅するは定め。諸行無常の鐘の音を聞くしかない。

 

昨夕は、Nグループの某社とT物産の開発メンバーとの意見交換会をセッチングした。一時間ばかりの会合の後、隣の蕎麦店「高松」に席を移して懇談会。生国や趣味と、仕事の垣根を取り払って和気合いあいの懇親ができたはず。取り敢えずは、中をとりもつ連絡船の役目は果たせただろう。瓶ビールと焼酎湯割り(金魚)を飲った。

帰り、客人達を三越前駅に送り別れる。一人、銀座線にて渋谷へ向かった所用のため、缶詰BAR mr.kansoに立ち寄りハイボールを二杯。この夜の立ち寄りは、後々に意味があるが・・・今は明かさない。

BLOGのタイトル、弁当箱から「オヤジの酒場日記」へと変えた方がいいかな?と、思ったりしてるこの頃・・・。

 

 

 

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雪が舞う

2014-02-05 | Weblog

2/5(水) 昨日、前日までとは打って変わって寒くなった。昼前までの雨の様子では、雪になることはなかろうと思っていた。が、4時前ごろから雪に変わった。5時過ぎ、目黒の某社に勤めているT氏に会うため事務所を出ると、ボタ雪が舞い外はすっかり暮れなずんでいた。近頃は天気予報の精度が上がっているようだ。最新の気象衛星でも上がったのか?

五反田の「蔵や」で待ち合わせていた。この店は、戦後のバラック建物の生き残りのような観だが、旨いもの喰わせる。建物の一寸見はよくないが、常連客で賑わう人気店である。カウンターに15人程、狭いテーブル席が二卓と小体な店だ。料理人の店主は、包丁を握ったままで顔を上げることは滅多にない。女将さんは元気に酒肴の手配りをする。昨夜も満席であった。

                   

予約を入れてあったので、小さなテーブルの上にはグラス・小皿とともに、お通しの小皿が五品並んでいた。この店の偉い処は、お通しも一皿一皿すべて違うものが並ぶ。昨夜は、キンピラ・オデン風煮物・魚のハンバーグ・蓮根煮・カボチャ煮と大学芋が並んだ。日頃の私なら、このお通しの品だけで十分な量と味となる。然しここに来ると喰うのだ、煮物、揚げ物、刺身と何を喰っても旨い。

                   

ビールから焼酎の湯割り(金魚仕立て)へと変えながら、菜の花のお浸し、ホウボウとカワハギの刺身、〆鯖、カキフライなどを食す。野菜天麩羅を頼んだが「量が多いので止しなさいよ、今度大勢で見えた時にしなさい」と、女将さんに止められた。確かに、奥のテーブルに居た6人組が取った野菜天を見るとテンコ盛りだった。

                  

T氏は、三月末で退職となり四月から再雇用となる。会社は別だが、同じ目黒にある某グループ社のF氏もTと同じことになる。この退職再雇用メンバーのご苦労さんの酒席を高知で設けることとなった。偶々高知でとなったが、それには次第がある。

3月30日(日)に「四万十川桜マラソン」と云うフルマラソン大会が開催されるそうだ。高知の西部となる窪川町をスタートし、四万十川沿いにワンウエイに下るコースとか。この大会にF氏が出場する。一方、T氏はNHK-TVで見た佐田岬の小学校を訪ねたいとの願望を抱いていたのだ。その小学校が三月で廃校になることを、Tが贈った文房具の御礼に届いた手紙から知った。今回、それを実現しようとのこと。

偶々ながら、四国に縁のある事柄と退職と云う節目が二人に訪れた次第だ。四国のこと、土佐のことになれば必然的に著名なる弁当オヤジの登板となる。(二人とも大切なクライアントでもあるが、そんな野暮なことはさて置いて友人ですよ)

Tは「近況通信」という私家版のレポート紙、彼が興味を持った土地・場所を訪ねて写真と記事で紹介している。これを毎月何回か発行して知人友人に配っているが、昨夜も最新の226号を貰った。高知や佐田岬の小学校のレポートを書くつもりであろう。

                     

四国でのルートや、見どころ飲み処、そんな話をしているうちに雪も止んだようだ。さて、高知ではどの店がいいのか?時間はあるのでゆっくり検討しよう・・・。・・・折角の機会なので心に残る、記念となる店だな・・・。

 

 

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慌ただしく・・・

2014-02-02 | Weblog

2/2(日) 今日の昼前、羽田空港に着いた。火曜日の午後、高知竜馬空港に着いて真っ直ぐに高知市内の葬祭場に向かった。従弟の直宏君の通夜が執り行われるので、何かお手伝いができればと早目に式場に入った。暫くして家族やお棺が式場に着いた。伯母さんや奥さん、一人娘に掛ける慰め言葉もない・・・。

安らかで綺麗な死に顔だった。土曜日の朝、出勤のために車で家を出て100mほど行ったところで心臓近くの大動脈剥離で意識を失い、そのまま亡くなったとのこと。前日に不調を言ったすだが、この日、朝食を摂って家を出たのが最期であった。姉二人の長男として生まれ、安芸市の実家には94歳の老いた母が居る。心残りであろうが、一瞬に訪れた死はすべてのことを瞬時に消し去ったであろう。

取り敢えず通夜が始まるまでの間、受付を手伝うこととした。故人は銀行のOBで、未だ関連会社に勤務をしていたので受付の方も数名きてくれた。式場には銀行関係や野球関係、一人娘の勤務先などからの生花が並んでいた。

翌日は通夜につづいて告別式、そして火葬に附されたが、家族の慟哭がつづいた。不謹慎ながら、私が死んだとてこんなに嘆き悲しむものはいないなと、ちょっと安心でもあった。あまり愛されないと云うのも、いいものかもしれない・・・。後に心を残す生き方をしない、これが出来れば幸せじゃなかろうか?

一つ年下の、従弟の死と葬儀に立ち合いながら、早く逝くがいいのか、遅れて逝くがいいのか。こればかりは選択のしようがないにしても、何れが良いのかを考えたりしていたのであった。

 

週末の31日は、従姉のご主人の七回忌が安芸市の清水寺(せいすいじ)であった。本来、この法事に併せて帰省の予定であった。従姉は私の亡父の姉の子で、その次男と弊社にいたSAKUMA嬢が縁あって一緒になった。七回忌を迎えた従姉のご主人とは、そんなことから何度か酒席を共にし、肝胆照らすような気がしていたが、数年を経ず故人となった。げにや儚きは人の世である。

内々で七回忌をすると聞いていたが、故人への思いや、従姉の実家との密なる関係を考えても私が顔を出しても許されようと、参列する旨を伝えてあった。法要は、真言宗智山派清水寺の本堂に置いてしめやかにおこなわれた。御本尊は観世音菩薩である。

                    

法要後、家族だけの食事会にも参加して束の間、故人を偲んだ。この前日、生憎の天候で昼まで風雨であったが、私の郷里の町の守護神「神峰神社」と四国八十八ヶ所の27番札所「神峰寺」に登った。スタッフの一人が体調を崩したことから、彼の平癒を祈った。

実家では何時ものように飯作りである。種類と量を作らないと面白くない。「こんなに作って、よう食べん」と母が云うが・・・。ついつい自分で食べ過ぎとなる。

或るの日の夕食は、「みみなし」という川魚(冬期、大きな川石のそこで冬眠中。石をゆすって獲る)と川エビの煮付、「猪鍋」、イタドリの煮物(塩漬け保存)やブリの照り焼き、味噌汁と田舎の自然食・ジビエ料理である。とはいっても、材料は従姉妹らからのもらい物である。

        

昨日は蜜柑畑に出て文旦を半分ほど収穫。そして有機肥料を撒き、消毒(農薬に入らない機械油)をする。とは云いながらも、作業は親戚のTOSHIYUKIに殆ど押しつけたが。膨らんだ梅の蕾の枝先に、ミノムシがぶら下がっていた。春もまじかと感じさせる、ひと時であった。

               

高知は連日暖かであった、こんなに暖かい一月も珍しいのではなかろうか。帰京の今朝などは春の陽気、靄がかかり四月を思わせた。

 

然し、一月は早く過ぎていった。年始や三連休と休日が多い所為もあるが、それにしても早い。これじゃ、あっという間に年末を迎えるぜ。生きてさえいればだが。

 

 

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