今の世でさえ、日本を離れて遠く知らない国へ旅に行くとなれば、それなりに身構えるのは当然だと思う。
それが、バリバリの鎖国時代に、日本の西の果ての当時唯一外国人が住んでいた長崎まで旅に出る、、、となれば、果たしてむかしの人たちにとって、どのくらいリアリティのあることだったのだろう。
もしかして、今の世に合わせれば、月へ行く、、、くらいの感覚だったかもしれないな。
なぜそんな話を、、、といえば、つい先日所用で長崎まで出向いた折に、暇をみて長崎街道のほんの一部を歩いてきたのです。
まずは長崎街道とは?
北九州の小倉の駅近くにある常盤橋を始点に延々224km先の終点長崎まで続く、江戸期に整備された街道
のことらしい。
まぁ、当時、陸路から唯一外国人居留地だった長崎へと続く道となれば、なかなか重要なルートだったに違いない。
そんな、ステキな異国の地を目指した当時の庶民視線で、今回歩いてみようかと。。。
まっ、時間が限られていたため、街道のラストに当たる佐賀藩 諫早領の藩境から長崎入りして、市街地までの8キロほど。地図上、ほんのわずかの赤い矢印部分。
どうやら、この区間を地元の人は「日見街道」と呼んでいます。
では、歩いてみよー( ̄Д ̄)ノ
続く。。。
それが、バリバリの鎖国時代に、日本の西の果ての当時唯一外国人が住んでいた長崎まで旅に出る、、、となれば、果たしてむかしの人たちにとって、どのくらいリアリティのあることだったのだろう。
もしかして、今の世に合わせれば、月へ行く、、、くらいの感覚だったかもしれないな。
なぜそんな話を、、、といえば、つい先日所用で長崎まで出向いた折に、暇をみて長崎街道のほんの一部を歩いてきたのです。
まずは長崎街道とは?
北九州の小倉の駅近くにある常盤橋を始点に延々224km先の終点長崎まで続く、江戸期に整備された街道
のことらしい。
まぁ、当時、陸路から唯一外国人居留地だった長崎へと続く道となれば、なかなか重要なルートだったに違いない。
そんな、ステキな異国の地を目指した当時の庶民視線で、今回歩いてみようかと。。。
まっ、時間が限られていたため、街道のラストに当たる佐賀藩 諫早領の藩境から長崎入りして、市街地までの8キロほど。地図上、ほんのわずかの赤い矢印部分。
どうやら、この区間を地元の人は「日見街道」と呼んでいます。
では、歩いてみよー( ̄Д ̄)ノ
続く。。。