改めて、地図で見てみることに。。
途中、道は崩壊して無くなっていたり、改良工事でどれがホントかわかりにくいところもありましたが、ざっと振り返れば、こんなものか。
で、街道最後の最大難所、最高高度276mの日見峠へと一気に上がっていきますよ〜。
日見の宿場から民家続きの道を歩いて、うねうねとした急坂を抜けた先が、国道34号線。
バス停名は「芒塚」。
ここ、風流な地名とは無縁の高速道路の大橋が、空を塞いでいましたっけ。
日見街道は、ここからしばらく国道沿いを歩くことになります。
大正期に建造された、なんだかオーラ感のある日見隧道が見えてきました。
再び、長崎街道の案内板が左手を示しています。
「トンネル出口 西日注意!!」と書いてある…ビックリマーク2つ付きから察するに、日本の西のはずれの夕陽はかなりの西日に違いないぞ…
トンネル脇にはかつて、梨子の木茶屋と呼ばれる峠の茶屋があったらしく、なんでもここで江戸時代の日見地区では踏み絵を行なっていたとか。。。
箱根の関所が入り鉄砲に出女、と呼ばれるように、長崎への主要な出入り口であるこの日見峠では隠れキリシタンが厳しく検分されていたのかもしれません。
そんなこんなで、案内板の指す、小さな階段を上がっていくことに。
峠口の道には、街道らしく、松も植えられたりしています。
登って間もなく、石塔のある小さな公園らしきところにでました。
ここが、芒塚ね。ふむふむ。。。
あまり、興味がないためウンチクは割愛することに。あしからずっ。
いよいよ、街道らしい感が漂ってきました!
大正期に下のトンネルが出来た後に遠く忘れ去られた古道が、いまもこうして手入れをされて生き続けているのがすごいなっ。
ここには茶屋でも昔はあって、主要なお役人ばかりか、唐人や蘭人が一服なんてあったのかしらん?、、
なんて歩きながらいろんな事を思える場面が多いのも、ちょっと嬉しくなります。
さて、そろそろ峠かな、、、と感じるピークの手前には、意外にも人家が数件建っていました。
その横には、水が絶えることなく湧いています。なんとはなしに、暫く流れる水を眺めてみましょう。。
そんな前方、切通しのなかに直線道路がいきなり出てきたぞっ?
まさに山のピークのthe峠!
車も通れるほどの幅はあれど、通るはずがないこの場所になぜこんな立派な道路がっ?
目の前の看板を頼ると、どうやらこの道は明治15年に難所の峠を33m削って、馬車で通れるように建設された明治新道の跡でした。ここ、莫大な建設費を還すために、通行料を徴収した日本初の有料道路だったそうですよー。
つまり、それ以前の峠はこの33m上にあったってわけなのか、、すごい労力!まさに維新のパワーだなっ。
というわけで、明治新道を使えばあっという間に峠を抜けられるのですが、ここは右の旧道から丁寧に回るルートを当然選びます。
しかし、まっすぐの道って、、、今ではどこでも当たり前の姿ですが、むかしはかなり不自然なものだったんでしょうね〜。
私がほんのわずかでも、うねうねとしたかつての街道を歩いて来て、いきなりこのまっすぐが出て来るだけで、なんだか違和感があったくらいなんですから。。
迂回して旧街道を登ると関所跡の看板を発見します。
関所跡はみかんの実る、普通の畑になっています。
関所は幕末から維新の数年間だけ、長崎への通行監視を強化するのに設けられたそうですが、明治新道建設で土地の形状はかなり変わってしまったようです。
その先、景色が一気に開けました👀
街道屈指の難所といわれた日見峠は、意外にもフツーに畑のある山の景色になっていました。
奥では、誰かの気配がしています。
石垣のうえの畑は、さながら天空の城のよう。とても立派な畑のようだ!
やはり、ここも関所の跡地だったりするのかな?
で、作業をしていた畑のご主人に伺うと、どうやらこの天空の畑は、ご主人の先代の手で築かれたもので、他にも峠の上に何軒か家があったのが、今ではとうとうあの向こうの家だけになってしまったのだとか。
確かに一軒のお宅が向こうに見えています。。。。
なるほど。そうなのか、、、🤔
と感慨深く佇んでいると、峠に西日が差し始めていることに、気づいた。
そう😮まだここは山のなか。
早く、長崎の町へたどり着かなきゃ!
歩を進めて間もない、道の先に、
重々しい石の鳥居が建っています。
地震、石神神社と書いてあります👀
鳥居には、しめ縄やヒサカキと小笹らしき?葉も飾られていて、その風情からも古くからここで信仰されている神様だということが、わかりました。
石段を登ると、そこは峠を見渡せる絶好の場!
向かいに見える山は、茂木岳といって、どうやら三角点がてっぺんにあるようです。
神社の石段の先には大きな木があり、その下に石が祀られています。
地震を封じるために石を祀ることがある、、と、どこかで聞いた気がしますが、かつての国境に位置するこの峠に、姿形のある石仏ではなく、石の神様を祀ったのも、地震のような天災が自領に降りかからないようにという古来からの信仰によるものかもしれません。
お社を後にして、麓へと続く急な曲がりくねった路地で地元女性の方に声をかけられました。
その方が「今では日見街道は、後家街道って言われているのよ〜」と、おもしろく話されているのがなんだか印象的でした。。
再び、長崎街道の案内板が登場しました。
左に行くと、先ほどの切り通しの明治新道に戻ります。
もちろん、私は長崎の町へと前進あるのみ!
その先に日見峠の茶屋跡の碑が👀
どうやら、日見峠には4つの茶屋があったのだとか。。もし、いまあればすべての店で、私ならお茶をしたことだろうよ、、、😑
山を少し下っただけで人家がどんどん増えてきました。長崎は平地が少ないだけに、土地利用にはホント無駄がありません。
無駄がない、、とはいえ、これを使う日常はワタシには無理でしょう…😅
日見街道でもここが一番の難所だったというのが、よく分かりますね!
これ見て、登りじゃなくてホント良かったわ〜と心底思いました💧
この先、立派な石垣で整備された街道をどんどん下っています。
長崎の町もあと少し、、と、昔の人も歩いた皆が皆、きっと思ったに違いない場所でしょうね。
またもや、峠の茶屋跡が現れました👀
この藤棚の下で、ステキにひと休みなんて、喫茶の雰囲気作りは、今も昔も変わらないのね、、、😌
刻まれた石には、長崎新道と彫られています。
新しい道、、ということは峠の明治新道が開通した際に造られた記念の碑でしょう。
その横に並んだ常夜灯や石盥が、新道で不要になった江戸時代の遺物のように無造作に転がっています。
やっと日見隧道の反対口に出てきたようです😆
車で抜ければあっという間の日見峠越えも、こうして歩いてひと山越すと、ずいぶんといろんなことがありました。。。
お次はいよいよ長崎の町に到着です。
続く。。