吉田松陰
西郷隆盛
坂本龍馬
勝海舟、、、、
異国の街 長崎を目指して数多の歴史上の人物が踏みしめた長崎街道。
江戸から遠路はるばるやってきた私も、いよいよ長崎入りですよっ!(…のつもり)
佐賀藩と天領 長崎との国境に立つ領境石標。
矢上は、佐賀藩 諫早領の最後の宿場町。
当時の旅人が長崎に入るには、この地の番屋で役人から許可を得たうえで、飛脚を長崎に走らせて、正式な通行許可がふたたび飛脚から届けられて初めて許されるものでした。
まっ、少しでも胡乱な人物は、まず長崎に入れそうにないな…。
で、私はサクッと長崎入り。
本来の街道は、この先に続く山道を巻きながら、どんどん下って行くのですが、周囲は宅地整備や道の崩壊で失われているため、結局舗装された迂回路を使うことにします。
長崎街道の案内板が立つ迂回路は、かなりの急階段。
その高低差がよく分かる当時の資料が、この絵図。
迂回路のない時代、長崎最初の宿場だった日見宿へ向かう旅人は、この切腹坂と呼ばれた険しい山道を下っていったのですね〜。
しかも、絵図が残る、、、ということは、きっと風光明媚な名所だったのかな?
因みに、切腹坂の由来は、昔或るお侍が日見宿の身分の低い者に剣術で負けたため、その面目からこの地で切腹をしたからだとか。
そのお侍の墓と慰霊塔は、土地整備のため、坂の下の国道沿いに移されてはいるものの、今尚残っていました。
そんないわくありげな切腹坂は、現在国道の擁壁で覆われて、特定し難いものの、上の絵図に描かれた海に浮かぶ三味線島の位置から、おおよそこのあたりの高さかと思うわけ。
下の国道から見上げた切腹坂のあったあたり。
私の根拠なき感では、本当の切腹坂はこのガードレール道より少し下にあって、このあたりをピークに山腹を巻いていったのではないかと思うわけ。
というのも、辺りには怪しい石がゴロゴロ。
この先に続く石積みも街道の遺構に見えてくる…とはいえ、長崎には至る所にこんな石積み幾らでもあるにはあるのだが、、、。
ますます探検したい!この藪のなかに入って、埋もれた街道を発見したい!
が、気を取り直して眼下に見える長崎最初の宿場町 日見を目指して前へと足を進ませることにしました。
そう!わたしゃ、江戸から来た旅人だったのだよ( ̄Д ̄)ノ
続く。。。