マイmy巷話

マイMy巷話(かんわ)は「私にはそう見える!」ものを儘に書いているだけの話です。

続)世田谷・滝坂道を歩いてみる

2015-10-25 | 街歩き・歴史散歩
かなり忘れてしまいましたが、先月からの続きを😝

淡島通りの淡島交差点から三宿側に坂をあがったところに建っているのが、多聞小学校。
周辺ではここがひときわ標高が高いだけあり、小学校東側の坂道から見渡す都会の景色はなかなかのものなのです。

で、中世期の多聞小学校あたりには、世田谷城の出城 (多聞寺砦)があったらしく、東からの敵あれば、そのまま台地の上を西へと駆け抜けて、お殿様の住むお城まで急をしらせることができたらしい。。
まっ、本当にそんなことがあったかは知りませんけどねっ😆

そんな多聞寺砦から世田谷城を結ぶ道は、むかし滝坂道と呼ばれていたそうです。
古くは律令制のころからの府中へとつながる主要道だったんですね。
現在この道は世田谷区の地域風景資産に選ばれていますが、対象は多聞城周辺ではなく、環七を越えた、豪徳寺(世田谷城趾の一部)あたりの道沿いの風景をどうやら指しているようです。

そんな古い歴史を持つ滝坂道を今日はぶらぶらと見に行ってみるとしましょうか🐾




地域風景資産の滝坂道は、若林からこの環七を西側に渡った先。
道が分断されているため、若林陸橋まで戻って先を進むことにします。


一応、滝坂道周辺の明治初期の古地図をチェック👀
当時はあたり一面が木々や畑ばかりの農村だったようですね。



滝坂道は住宅街のなかを進んでいくと、いかにも古道らしく、細かいカーブを描くようになってきました。



途中、いきなり狭くなり、車の通り抜けが厳しいところもあったり。。
どうやら、むかしの滝坂道も馬がすれ違える程度だったようですが、なにか軍事的な理由があったのかもしれませんね。



古地図で茶畑や畑のなかにポツリポツリと人家が集まる場所がどうやらこのあたりのようです。



その先👀
この交差点あたりは松原宿と呼ばれていました。

古地図を見るとゆるい曲線をだらだらと辿ってきた滝坂道は、ここでいきなり直角に曲がっていますが、これは世田谷城も近いため、意図的につくられたのだとか。
狭い道を直角に、駆馬は曲がれないってわけなのね。。



その先の角にお地蔵さまが建つこの場所も道が鈎の手になっています。

府中へ続く滝坂道は西へと続いていきますが、ひとまず私は世田谷城を目指して、そのまま直進(南下)していきます。



豪徳寺の広い森を越えて、お殿様の居城 世田谷城に着きました🐾



いまここは世田谷城趾公園と呼ばれています。
小田原の後北条氏と深く関わりのあった城主の吉良氏は、それまで200年以上ものあいだ、ここを居城にしていたそうですが、最後は豊臣秀吉の小田原征伐で、城は滅びてしまったのだとか。。



隣の豪徳寺も、かつては世田谷城の城域だったそうです。



猫伝説のある豪徳寺。
この猫って世田谷線の電車にも描かれていますが、こんなにもネコだらけだとは思いもしなかったっ😵



三重塔なども立派に建っていますが、、



組物の部分でも、しっかり猫が見張っていますな👀



再び滝坂道のお地蔵さまの辻まで戻ってきました。
むかし道らしい見事なジグザグ道ですねー。

このあたりの世田谷城址の北側は、かつては竹ノ上と呼ばれた竹藪だらけだった場所。
竹は前方の視界を遮るとともに、先を切り払えば城への侵入を妨げる仕掛けの役割を果たしていたそうですよ❗️

中世の城はいかに自然をうまく利用できるか?の知恵が大切なんですね。。



道沿いには立派なお寺もありました。
この常徳院もむかしはお城の防衛拠点だったのかな、、。



二俣の場所は村境だったのでしょうか。300年以上前のお地蔵さまと庚申塔が並んでいます。

以前読んだ郷土資料には、中世期の戦死者を葬った塚がこのあたりにあった、、と書かれていましたが、すでに人家が立ち並び、不明になっているようです。



しばらくすると滝坂道はすっかり商店街に様変わり。。
どうやら経堂駅に着いたようですね❗️


いやいや。今日は歩きすぎました💧
来た道を帰って行きます。

もちろん、バスでねっ😆


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