「思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-1」のつづきです。
岡崎SAを出て新東名の本線に戻り、数分走ると、ナビは豊田JCTで東名に入るよう指示してきました。
ん"? このまま新東名じゃないのか? と、根拠もなく考えた私は、豊田JCTを直進して新東名を走り続けました。
でも、道路上の案内表示を見ると、名古屋とか伊勢とか、ちょっと違う地名が出てきます
もしかしてこの選択は間違いだった? と、ナビを広域地図に変えると、やはり方向が違う
こんな無謀なルート選択をした私に対してもクルマのナビは優しく、代替ルートを表示してくれましたので、今度は、それに従って、名古屋南JCTから、いかにも名古屋らしいネーミングの「名二環」に入りました。
名二環は、ひたすらトンネルや掘割状の、まったく眺めのよろしくない道路で、ひたすらクルマは流れ続けています。
でも、知らない道では「ネズミ取り」が怖いので、なるべく車群の先頭に立たないよう、オービス
らしきものはないか目を配りながら、慎重に運転しました。
そして、清洲JCTから名古屋高速16号一宮線に入り、さらに、名古屋高速16号線⇒一宮IC⇒名神⇒一宮JCT⇒東海北陸道⇒岐阜各務原IC、というルートで岐阜県に入りました。
東海北陸道も岐阜各務原ICも、5年前にかかみがはら航空宇宙博物館に出かけたとき以来です。
5年前とは逆にR21を西に進み、岐南ICからR156を北上しました。
すると、真っ正面に山が見え、その頂上には岐阜城の天守が見えるではありませんか
長森細畑交差点で赤信号に捕まったのをこれ幸い
と、記念撮影
これを眺めて、ダイジェストに書いたように、あれまぁ~
こりゃ、岐阜城天守⇔岐阜公園の片道だけでも歩くのは無理だぁ~
となりました。
さて、長森細畑交差点から岐阜公園
までは、ナビは金華山を半時計回りに回り込むルートを提示してくれました。
なんとなく逆回りの方が良さげな気がしましたけれど、先ほどの件
もありましたので
、素直にナビに従いました。
R156のトンネル(岩戸TN)を抜けて左折すると、またトンネル(井ノ口TN)をくぐり、長良川の手前を左折しての北側に回り込むと、道が狭い
加えて、道の左側には断崖絶壁が立ち上がっていて、ところどころに「落石注意
」だの「崩落注意
」などと物騒
な標識が立っています。
「注意しろ」と言われても、落石や崩落には注意しようがないのに…
でも、岐阜城の北面は、長良川+断崖絶壁で鉄壁の守りとお見受けいたしました。
そして、再びトンネル(金華山TN)に入り、そして、抜けると、岐阜公園の入口でした。
騎馬像があって(下の写真は観光を終えて駐車場へ戻るときに撮ったもの)、
あれは織田信長かな? なんて思ったのですが、それよりも、駐車場はどこ?
すぐに見つかった駐車場は、バス&身障者専用だそうで使えない
あれ? あれ? と思ううちに公園エリアを通り過ぎてしまい、とりあえず左折してみました。
すると、前に、私と同じ境遇のようなクルマが駐まっていて、道ばたに立っているビブスを着けたおじさん
と話しています。
もしかして駐車場の場所を教えてもらえるかもしれない
と、思ったら案の上で、駐車場マップを頂戴できました
このマップによれば、一般車駐車場
には、先ほどの騎馬像の見えた交差点を右折して、側道からアンダーパスに入らなければならないようです。
って、そんな案内が路上にあったか?
と、Googleのストリートビューを見たらありました
駐車場マップを頼りに一方通行だらけの地区を抜けて、駐車場
にたどり着くことができました。
この時点で、時刻は14:45でしたので、慌てることなく岐阜城観光
ができそうです。
さっそくロープウェーで天守まで登ろうと、
ロープウェイ乗り場に向かう途中、説明板がありましたので、メモ代わりにパシャリ
この説明板から岐阜城の概要を転記しておきましょう。
岐阜城跡は、金華山(稲葉山)に築かれた山城で、稲葉山城、井口城とも呼ばれていました。戦国時代に美濃国を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織田信長が天下統一の拠点とした城としてもよく知られています。
建仁年間(1201~1203年)頃に二階堂氏が最初に城を築いていたと言われていますが、実態は不明です。大永5年(1525)頃、ここが守護方と長井氏の争いの舞台となったため、少なくともこのころには城として利用されていたと考えられます。天文5年(1536)には、斎藤道三が拠点としていたことが分かり、以降は義龍・龍興と、斎藤氏3代の居城となりました。永禄10年(1567)、斎藤氏を追放し美濃を攻略した信長が、城に大きく改修を加え、町の名を岐阜と改めました。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の前哨戦で落城し、廃城となります。
上の説明に「慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の前哨戦で落城し」とさらっと書いていますが、この岐阜城を、誰がどうやって落としたのでしょうか?
Wikipediaによると、この戦は、岐阜の領主だった織田秀信(信長の三男・信忠の嫡男) VS 東軍・福島正則&池田輝政連合軍の間で行われたもので、東軍は、援軍の集結を阻止しつつ、岐阜城への登山口を押さえ、本丸を孤立させることで、秀信を降伏させたのだそうな。
これほどの山城、天守を攻略するのは難しいでしょうけれど、孤立させるのはなんとかなります。
とりわけ、東軍の池田輝政は、1585~1591年に岐阜城主だった人物ですから、岐阜城の弱点は重々承知していたのでしょう。
ということで、「#1-3」は、天守に向かうロープウェー乗り場から再開します。
つづき:2020/03/14 思いつきの岐阜ドライブ旅行 #1-3
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます