「今年最初の関西旅行記 #2-5」のつづきは、大阪市立東洋陶磁美術館見聞録の完結編です。
「#2-5」に載せた特別展「中国陶磁・至宝の競艶」のフライヤーに使われているカラフルな壺、その名前が「緑地粉彩八吉祥文瓶(りょくじ ふんさい はちきっしょうもん へい)」と長い
緑地粉彩八吉祥文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
パステルカラーの緑地に、粉彩によるカラフルな色合いで「八吉祥」と呼ばれるチベット仏教の八宝文や花文などが描かれている。この独特な瓶は清朝の宮廷で崇拝されたチベット仏教の儀礼用とされている。
映画「ラストエンペラー」で、幼い溥儀が紫禁城に入城するときと西太后が崩御したとき、大勢のチベット僧が登場します。満州族が建てた清王朝とチベット仏教との関係が良く判らず、Why??? となりましたが、清王朝とチベット仏教とは縁が深かったんですな
それでも、なぜ地理的に遠く離れたチベット仏教? です。
調べたところ、こちらのサイトで鳥取大学の柳(ユウ)教授がこんな風に述べていらっしゃいます。
モンゴルはチベット仏教を信じていたので、その最高位にあるダライ・ラマをめぐる諸問題の発生はモンゴルの介入を招き、清朝にとって統合を危うくする大問題だったのです。
多民族国家である清では、漢民族の皇帝としてだけでなく同時に満州人の首長であり、モンゴル族の「汗(かん)」と呼ばれる最高位であり、チベット仏教の保護者である「大施主(だいせしゅ)」でもあるという顔を同時に持っている必要がありました。これによって多民族国家である清という巨大な国を統合できたのです。中でも清帝国をまとめるために重要だったのが、チベット仏教です。チベットとモンゴルに影響を及ぼすために、清朝皇帝はダライ・ラマと同列に位置していなければなりませんでした。
なるほど、モンゴル対策か…
でも、満州よりもっと遠いモンゴルでチベット仏教が崇拝されたのはなぜなんでしょ?
これまた調べたら、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトによると、
13世紀の中頃、チベットはモンゴル帝国の襲来を受け、軍事的には屈服せざるを得なかった。ところが、宗教面ではモンゴル人をチベット仏教に帰依させる結果となり、チベットはやがて独立を回復することができた。
ですと。
もしも、元寇で日本が屈服してたら、日本にもチベット仏教が広まっていたかもしれませんな
話が壮大に逸れてしまいました
話を元に戻しまして、「緑地粉彩八吉祥文瓶」よりもっと長い名前の作品がありました。
「松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶」(しょうせきりょくゆう てきこく ばんれん からくさもん へい)という名前で、一度では覚えきれません
松石緑釉剔刻蕃蓮唐草文瓶
清時代・乾隆 (1736-1795)/景徳鎮窯
上海博物館
松石緑釉は、酸化銅を着色剤として低火度で白磁に二次焼成する色釉で、雍正年間に誕生し、乾隆年間に流行した。
青緑色の釉色がトルコ石(緑松石)に似ることから名づけられた。
石の質感や模様を磁器で再現しようとした乾隆官窯の技術の高さをうかがわせる。
この瓶、私には磁器には見えず、プラスチックを成形したかのように見えます。
色もかなり不自然に感じてしまうなぁ
「#2-4」に、小さな、野々村仁清「色絵 結文形 香合」と尾形乾山「銹絵染付 羊歯文 香合」を載せましたが、上海博物館所蔵品にもこれらに負けず劣らず小さな作品がありました。
どちらも「印盒(いんごう)」、つまり朱肉入れで、直径は約7cm。
左が、「豇豆紅釉印盒 (こうとう こうゆう いんごう)」 。
豇豆紅釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館
康熙年間、景徳鎮官窯では酸化銅を主成分とした多彩な紅釉磁器がつくられた。
なかでも鮮麗な紅色を特色とする「豇豆紅釉」(欧米では“peach bloom”(桃花紅)とも呼ばれる)は、焼成の難易度が高く、希少である。
そして、右が一級文物の「蘋果緑釉印盒 (ひんかりょくゆう いんごう)」。
蘋果緑釉印盒 清時代・康熙 (1662-1722)/景徳鎮窯
上海博物館 一級文物
本作は「豇豆紅釉」が窯の中での窯変により「蘋果緑(青りんごの緑)」と呼ばれる淡い緑色に変じた奇跡の一点である。清末の陳瀏は「陶雅」で、蘋果緑の印盒一つが「値千金」と記している。
どちらもとてつもなくきれいな色をしていますが、「蘋果緑釉印盒」は「豇豆紅釉」を焼こうとしていたのに、「偶然こうなった」んですかぁ
「ふじ」のリンゴの木に、なぜか「王林」の実がなったようなものですか? (かなり違う)
冗談はさておき、全体は淡い緑色なのに、左上部分だけ赤いのには、こんな背景があったんですな
最後に登場いただくのは、小さな作品の次ということで、高さ:65.5cm、胴径:56.5cmと、一番デカい作品です。
青花雲龍文壺 明時代・正統 (1436-1449)/景徳鎮窯
上海博物館
胴部に五爪の龍二体と火焔宝珠が描かれた大壺。類似の陶片が景徳鎮珠山の御窯遺址から大量に出土している。
正統年間に青花の「龍缸」(龍文の大壺)が焼成されたが、きわめて大型のためうまくいかなかったとの記録がある。
本作は正統官窯を代表する現存最大の完成作例。
いかにも中国陶磁 の佇まいです
でも、こんな大壺を何に使ったんでしょ?
まさか「五爪の龍」が描かれた壺を、水や穀物の貯蔵、ましてや傘立てに使ったとは考えられず、「置物」くらいしか用途が思いつきません
ということで、大阪市立東洋陶芸美術館の見物を終えました。
陶磁器には疎い私ですが、かなり楽しめました。
美術館自体、施設として立派でよくできていましたし…。
満足しながら館外に出た私は、「X」にこんなポストをしました。
こんな立派な美術館ですから、建設費
は相当だったのだろう
と思った次第ですが、ブログを書くうちに知ったところによると、建設費 18億円
は、「#2-3」で書いた住友グループから大阪市の文化振興基金に寄付された152億円
の運用利息でまかなったのだとか
最近上昇傾向にあるとはいえ、今のような低金利では到底不可能な話です
さて、時刻はほぼ正午。昼食どきです。
昼食は久しぶりの新世界辺りで摂ることにして、そこまで堺筋線で行くべく、北浜駅まで歩きました。
大阪市立東洋陶芸美術館のお隣にある「こども本の森 中之島」は、建築家の安藤忠雄さんが寄付したんだったなぁ
それにしても、大阪府立中之島図書館は住友吉左衛門友純(春翠)さんの、大阪市中央公会堂は岩本栄之助さんの、大阪市立東洋陶芸美術館の主要コレクションは住友グループの、そして子ども本の森 中之島は安藤忠雄さんの寄付で建てられたというのは、その4棟が中之島で並んで立っていることと併せて凄い
ことだと思います。
江戸時代の町民パワー、近現代の市民パワー
、大阪(大坂)の底力を感じます。
これを渡れば北浜、という難波橋もなかなか魅力的でした。
その話は「#2-7」で…。
つづき:2025/02/08 今年最初の関西旅行記 #2-7
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