だいぶピンボケ
神戸と佐世保は、繰り返し注目すべき子どもの事件がありました。タイトルの「神戸」とは、1997年、「酒鬼薔薇聖斗殺人事件」のことです。この事件では、14歳の少年が2名の子どもを殺し、3名の子どもに怪我を負わせた事件です(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6)。
タイトルで「津久井」というのは津久井やまゆり園の事件のことです。
この2つの事件は、世間に圧倒的な衝撃を与えた点でも共通していますよね。
でも共通的は、それだけではありません。
2つの事件は、知的障害者の首を切った点でも共通しています。
神戸では、「酒鬼薔薇聖斗」のご近所に住む11歳の知的障害児の首が、校門に晒し首になっていましたね。
津久井では、植松聖(さとし)容疑者が務めていた知的障害者施設「津久井山ゆり園」利用の知的障害者が40人以上首を切りつけられて、その内の19人がなくなっています(http://mainichi.jp/articles/20160802/k00/00m/040/060000cなど)。
何故なんでしょうか?
首は動脈があって、致命傷を負わせやすいから?
酒鬼薔薇聖斗にしても、植松聖にしても、教育が至らなかったから、事件を起こしたのでしょうか?
知的障害者は、極めて弱い立場でしょ。ですから、自分の中の「ダメな自分」を投影するのに恰好の相手です。言葉を換えれば、知的障害者は、心の中のルサンチマン(強い恨み)を晴らす時のスケープゴートになりやすい。そのルサンチマンは、まず家庭で積み重なったと考えられます。しかし、ニッポンの学校は、ヴァン・デ・コーク教授が紹介しているような自由主義の学校ではありません(良い教育には、自由が必要)。ニッポンの学校は、会社が儲かるためには、不正や長時間労働があっても、従順に働く労働者を創り出す「ロボット絶望工場」と化していますから、酒鬼薔薇聖斗も、植松聖も、そんな学校でも、ルサンチマンを一層強めていたと考えて、大過ないでしょう。その特色の一つが、アメリカの自由主義の学校とは真逆で、「自分の気持ちを理解し、対処するためにはどうすればいいのか」が教えてもらえないばかりか、自分の気持ちを抑えつけ、我慢させられることに力点が置かれます。それが、気持ちと思考の分裂、自動運転している自分と≪本当の自分≫がバラバラ、を強化する結果になっちゃっている訳ですよね。
その分裂、そのバラバラのシンボルが、切り裂かれた「首」なんですね。
お寒い状況です。
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