桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

赤羽界隈を歩く

2010年11月17日 18時58分49秒 | 寺社散策

 昨十六日、朝八時から十二時まで、半日限の仕事が発生したので、赤羽に行ってきました。



 仕事が終わったあと、赤羽駅周辺のお寺巡りをしました。最初に訪ねたのは静勝寺(じょうしょうじ)という曹洞宗のお寺です。



 赤羽駅から歩くことわずか数分。急な石段のとっつきに稲付(いなつけ)城跡という石碑が見えました。
 太田道灌(1432年-86年)が築いたといわれる戦国時代の砦跡で、明暦元年(1655年)、道灌の子孫で浜松藩主であった太田資宗(すけむね・1600年-80年)が堂舎を建立したものです。



 石段を上り切ると、そこが砦跡であるとともに静勝寺の境内で、正面に太田道灌を祀る道灌堂が見えました。
 厨子に納められた太田道灌の坐像(高さ44・5センチ)が安置されていますが、外から見ることはできませんでした。

 


 静勝寺本堂と弁天堂(画像下)です。弁天堂は元禄七年(1694年)に建立された旧本堂です。
 このお寺には中里介山が下宿していたことがあり、その部屋が弁天堂内に保存されているそうですが、いまは本堂内陣が工事中のため、本尊の釈迦三尊がこちらに移されているので、どうなっているのか、よくわかりません。

 安岡章太郎さんも中学生(現在の都立九段高校)時代、このお寺で二年間暮らしたことがある、と「花祭」という作品に書かれていますが、安岡さんの場合は下宿ではなく、預けられたのです。
 なぜ預けられたのかというと、学業成績がビリであったため。
 そういう生徒を待ち受けている運命は、落第か退校か、そうでなければ「入院」することでした。「入院」とは担任の家に預けられるということです。
 安岡さんの担任がまだ若くて独身であったため、隣のクラスの担任の家に「入院」することになりました。その先生が静勝寺の住職でもあったというわけです。

 

 静勝寺から徒歩六分。真言宗智山派の普門院です。徳治二年(1307年)に創建されたと伝えられています。入口の鐘楼門も本堂も中国風のデザインです。



 普門院から徒歩七分。日蓮宗法眞寺。創建は天正元年(1537年)、当初は天台宗寺院。



 法眞寺から徒歩四分。曹洞宗・鳳生寺(ほうしょうじ)。建立は文明十年(1478年)。開基は太田道灌と伝えられています。



 多摩丘陵からつづく武蔵野台地が隅田川で削り取られるので、赤羽は坂の多い町です。鳳生寺前から西に上って行く鳳生寺坂。

 赤羽駅に戻り、北本通りに出ました。
 赤羽駅から歩いて十分ほどのところに東京メトロ南北線の赤羽岩淵という駅があります。
 何をするためにきたのか、まったく憶えがないのですが、南北線が開通したばかりのころ、この駅にきたことがあります。



 赤羽岩淵駅。ここで降りたはずですが、周辺の風景はまったく記憶に残っていません。

  

 大満寺。真言宗智山派の寺院。画像下は岩淵不動尊として親しまれている不動堂。

 

 大満寺に隣接している正光寺。
 本堂が新築工事中で、門が閉じられていました。本堂は昭和五十三年、失火で焼失したままだったそうです。入れないと思ったら、墓所の横手が開いており、聖観世音菩薩を見ることができました。高さは約10メートル。

 このあと、梅王寺という浄土宗の小さなお寺を見て、荒川に足を向けました。

 


 荒川と並行して流れている新河岸川に着きましたが、このあたりはあたかも刑務所を思わせるような高い壁がつづいているだけ。旧岩淵水門のある志茂橋まで行かないと、川を見ることができません。



 旧岩淵水門です。ゲートの色から通称赤水門と呼ばれています。大正十三年の完成。
 大正二年から昭和五年まで、十七年にわたる荒川放水路開削工事がありました。工事の責任者は青山士(あきら・1878年-1963
年)という人。パナマ運河開削工事に携わったただ一人の日本人だといわれています。



 水門そばに荒川知水資料館というのがあって、荒川放水路開削工事と青山士の概要を知ることができます。

 荒川放水路ができるまでは隅田川が荒川でした。千住大橋から下流を隅田川と呼んでいたのです。
 昭和四十年、放水路が荒川の本流とされ、それに伴って岩淵水門から千住大橋までの荒川も隅田川と呼ばれるようになったので、荒川区もあらかわ遊園も荒川とは無縁となりました。




 旧岩淵水門から見た新岩淵水門です。旧水門の老朽化に伴い、昭和五十七年、300メートルほど下流に建設されました。赤水門に対して青水門と呼ばれます。
 ここで新河岸川が合流し、隅田川が分かれます。水門の向こうが隅田川。



 北区志茂5丁目あたり。何か? と思って立ち止まり、よくよく見たら、電車の連結部に使われている「ホロ」でした。修理工場のようです。

 


 西蓮寺。創建は弘安年間(1278年-88年)という真言宗智山派のお寺。
 ここも山門が閉じられていて入れないと思ったら、通用門が開いていました。山門前の掲示板には本堂前に鎌倉から戦国時代にかけての板碑(供養塔)が八基並んでいる、と書かれていましたが、見当たりませんでした。

 行きは北小金→松戸→日暮里→赤羽という経路で行きましたが、帰りは赤羽→南浦和→新松戸→北小金という経路を辿りました。近いのに、どちらも二度の乗り換えを強いられるので、ちょっとばかり不便です。



 本土寺の参道入口にある店でこんなもの(瓢箪)を売るようになりました。

→この日歩いたところ



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