今日は立春。朝の冷え込みは相変わらずですが、昨日今日と日中はいっぺんに春がきたような暖かさでした。
今日は今年二度目の通院日でした。前回の通院は一月六日小寒。
私は一か月に一度の通院と理解していますが、実際は四週間に一度、二十八日ごとです。しかし、一体全体いつまで通院をつづけねばならぬのだろうか。
松戸市民となって四年目になろうとしています。去年の夏が異常に暑かったと思えば、冬は異常に寒く、一月に最低気温が氷点下を記録した日は二十九日もありました。
日中は暖かいとはいえ、氷点下の日々は先月二十六日から昨日まで十日連続。今朝もどうやら氷点下のようでした。
冬だから寒いのは当たり前、とはいうものの、去年一月に氷点下を記録した日は十七日、一昨年は十六日しかなかったのです。
異常な暑さの夏がくる前、私は早めに体調を崩していたのが免疫みたいなものになったのか、暑さが尋常ではなかったわりには悲鳴を上げることが少なく済んだようです。
しかし、この冬はいけません。幸い部屋は非常に陽当たりがよいので、お日様が出てくれる限りはサンルームのようになるのですが、部屋の中が暖かくなってきたと感じられるのはやっと十時ごろです。それまでは暖房器具を用いても身体が動かないのです。
とくに体調が悪いというわけではありません。が、ともかくギアが入らず、身体が動かない。
今朝も家を出たのは前回の通院日と同じく六時五十分過ぎ。行かなければならないので、無理矢理ギアを入れました。
それでも、前回は家を出るときが日の出の時間でしたが、四週間が経ってみると、日の出は十三分早くなり、日の入りは二十九分も遅くなっています。
通院の帰りは少しだけ遠くへ行く日ですが、今月も遠くへは行きませんでした。
私が乗る常磐線緩行は田舎電車なので仕方なしとは思うのですが、都内から帰ろうとすると、くる電車の二本に一本は途中の綾瀬止まりなのです。今日も湯島駅のプラットホームに降りたら、きた電車は綾瀬止まり。次はというと、私が降りる北小金まで行ってくれない松戸止まりだったので、松戸まで行って降りてしまうことにしました。
去年一月、馬橋駅近くの家電量販店へパソコンのキーボードを買いに行き、その足で当時しばしば通っていたスーパー銭湯へ行く道すがら、龍善寺という浄土真宗のお寺と風早神社に寄ったのですが、スーパー銭湯へ行くのが目的だったので、写真を撮っただけでした。
近いうちに周辺を巡ってブログの更新と思っていたのですが、つい機会を失して、いつの間にか一年が経ってしまいました。
春を待ちわびているときにはなかなか月日が経たないのに、一年という月日が経つのは年を追うごとにますます早いのです。
松戸駅東口を出て徒歩十分。手始めに花蔵院を訪ねました。真言宗豊山派の寺院ですが、現地に説明板のたぐいは何もなく、インターネットで手蔓も得られなかったので、いまのところは詳細不明です。ただ、山門はなかなか雰囲気がありました。
花蔵院から十三分で春日神社。こちらも詳細は不明。
春日神社の隣、別当らしき燈明寺(真言宗豊山派)の境内を通り抜けて坂を下って行くと、栄松寺まではわずか五分でした。
臨済宗大徳寺派の寺院で馬橋・萬満寺の末寺です。境内に咲く白梅が満開で、メジロ(目白)のつがいが蜜を吸いにきていました。
栄松寺から引き返す形で坂を上り、八分で風早神社に着きました。去年のいまごろにつづいて、訪れるのは二度目です。約130メートルと長い参道があります。
中世、上本郷館があったところだと推測されています。
毎年十月の第二日曜日に五穀豊穣と悪霊退散を祈る三匹獅子舞(松戸市無形文化財)がこの神社と、あとで訪れる明治神社に奉納されます。
風早神社の社殿左手に聳えるマテバシイ(全刀葉椎)。
風早神社から十五分で明治神社です。直行すれば十分足らずなのですが、地図に三世院(日蓮宗)、大聖院(宗派不明)というお寺が載っていたので、回り道をしました。
社殿は十年前に不審火で焼失し、八年前に再建されたばかりなので、まだ新しく、色鮮やかです。
ここも訪れるのは二度目です。明治五年までは妙見社と称して妙見大菩薩が祀られていました。現在の祭神は国常立神(くにのとこたちのかみ)です。
明治神社から北松戸駅東口に通じる、とうかえで通りを下り、十一分で龍善寺に着きました。ここも長い参道があります。本堂前まで目測200メートルはあって、緩いながらも、ずっと上り坂がつづきます。
ここも去年につづいて二度目ですが、この参道のことは記憶にあっても、あとは曖昧でした。
本堂前に到って思い出しました。本堂前に新しい建物が建てられていて、本堂は見えないのです。右の画像は本堂をカメラに収めるためにはここしかないかと思いながら、去年も今年も同じアングルになりました。
ところが、思い出さなかったことがあります。
境内に「首斬り地蔵」と呼ばれるお地蔵様が祀られていることです。元治元年(1864年)、佐幕派の水戸藩士・佐藤久太郎が尊皇派の水戸藩士に捕まり、首を斬られてしまいました。久太郎が斬られた場所に村の人々が冥福を祈るために建てたものです。
去年、訪問して家に帰ったあと、松戸市のホームページを視て知ったのですが、境内のどのあたりにあったのだろうと思い返しても、見ていないのですから、思い出すはずがない。今回もすっかり失念していて、また松戸市のホームページで知りました。
最後は北松戸と馬橋の中間、新作(しんざく)というところに安房須神社という変わった名の神社があるので、名前の由来を知ろうと行ってみました。
龍善寺の高台をいったん下り、胸を突くような坂道を上って行くこと八分で安房須神社に着きました。参道に由緒書きが建てられていて、見れば祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
創建は慶長十一年(1606年)。
安土桃山期までこのあたりには中根城がありました。小金城の出城で南方防御の前線を担っていたということです。秀吉の小田原征伐で高城氏が滅んだあと、中根城を守っていた武士たちは帰農し、村の平安と繁栄を願って建立したのがこの神社です。
帰農したのですから、穀霊でもある少彦名命を勧請するのはごく自然だとしても、なにゆえに「安房須」という名をつけたのか、説明はありません。
「安房」とつく名の神社は昔の安房国一の宮・安房神社(館山市)がありますが、このお宮の主祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)ですから、関係はないようです。
市川市中山にも同名の神社があって、「江戸名所図絵」には安房須明神社として載っています。同書によると、安房須の「須」は「津」が転じたもののようですが、こちらの祭神は国常立神。合祀されている祭神は多数ありますが、少彦名命は祀られていないようなので、これも関係はなさそうです。
このあと、廣照寺(真言宗豊山派)、中和倉の熊野神社と足を延ばして、馬橋駅に到りました。
→この日歩いたところ。
帰りに寄ってみたら、またうさ伎に会うことができました。
うさ伎に飲ませたいと後生大事に持ち歩いていた明治ラブを出したのですが、そっぽを向かれてしまいました。純粋な牛乳ではなく、鉄分、カルシウム、葉酸と入った加工乳であることが気に入らないのでしょうか。
こちらは香取神社の小春。こやつめは相変わらず食欲旺盛です。
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