桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

中庵と誾千代

2008年11月25日 10時52分47秒 | 歴史

 立花誾千代の肖像画は、古い上に肝心の顔の部分が傷ついているので、どんな容貌の持ち主だったか、しかとはわかりませんが、評判を知った秀吉が手籠めにしようとしたという逸話があるところから推察すると、美人であったことは間違いない。秀吉は好色だっただけではなく、面喰いだったのですから……。
 美人だった上に女傑でもありまし
た。
 名護屋に出陣していた秀吉が召し出したとき、秀吉に含むところがあるのを悟って、鎧兜に身を固めて出向いたり、関ヶ原の戦では、攻め寄せる敵を薙刀をふるって撃退したという逸話があることからも、それは明らかです。
 しかし、その女傑ぶりが夫・立花宗茂との不和の要因だったのではないか、と私は想像しております。

 宗茂も武辺一点張りの人でした。人は共通点に惹かれ合うこともあるが、かえって反発し合うこともあります。

 では、誾千代が惹かれるような男はどんなタイプだっただろうかというと、中庵宗巌のような人ではなかったか。これも私の勝手な空想です。
 先に紹介した「古寺発掘」で、中村真一郎さんが中庵を駄目オヤジの典型のように紹介していると書きましたが、決してくさしているのでも、軽蔑しているのでもありません。むしろ深い同情を寄せています。
 それはなぜかというと、中庵が当時の武辺者には似つかわしくないインテリジェンスを持ち、それゆえに自分の弱さを、相手にあからさまに見せてしまう男だったからです。
 切支丹の教えを棄てたあと、信者の迫害という暴挙に出るのも、その弱さのなせる業だったのではないかと思うのです。

 中庵がインテリであったという証拠は、利休の茶会に招かれていることが示しています。利休ほどの人が大名というレッテルだけで茶会に招くはずはありません。
 大友家は名門とはいえ、京大坂から見れば九州の田舎大名です。中庵は招かれるのに値する教養を持った人物であったと見るべきです。
 大分市の歴史資料館には、中庵が源氏物語に親しんでいたことを示す史料もあるそうです。
 和歌や源氏や茶道に親しむことは当時の武将にとってあこがれであり、必須のものであったといいますが、誰もが志したわけではないし、やっても身体に馴染まない人がいます。秀吉などその典型でしょう。
 インテリジェンスを衣のように羽織っているだけではインテリとはいえない。インテリジェンスが充分に身体に馴染んで、初めてインテリと呼ばれるのです。

 中庵は武将としてはおおいなる失格者の一人ですが、心の葛藤、懊悩、相剋、ディレンマ……と、おそらくこの時代の誰もが併せ持っていなかった心のせめぎ合いと戦っていた。

 切支丹の父と神官の娘である母との間に生を受け、嫡男には自分より遙かに武将として相応しい子どもに恵まれてしまった。受け継いだ領国は切支丹に帰依した父が経営に熱意を失ってしまったため、明らかに衰勢に向かっている。
 中庵の置かれた環境は一日にたとえると、落日寸前であり、季節でいえば晩秋でした。

 当時の武将もそれなりの懊悩を抱え込んではいたでしょう。家を残すという名目で徳川方につき、父に弓引くことになった真田信幸など……。しかし中庵のように、二重三重の懊悩を抱えた人はいなかったのではないか。

 誾千代のような強い女性から見ると、なよなよと悩む中庵は母性本能をかき立てられる存在であったかもしれない、と想像してみるのですが……。 


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