桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

伊興寺町を歩く(1)

2012年09月02日 21時52分50秒 | 寺社散策

 東京都足立区に東伊興という地域があります。東武鉄道の竹ノ塚駅から歩くと、十三~二十分ぐらいかかるところです。地図を見ると、このあたりにたくさんの「卍」印があって、寺町が形成されていることを知りました。界隈の地図を見るキッカケとなったのは、竹ノ塚駅近くにある炎天寺という寺を「真夏」に訪ねようと企てたことがあったのを、先月下旬にふと思い出したからです。
 すでに真夏は過ぎていましたが、まだまだ残暑厳しき折です。なぜ暑い盛りを選んで行こうかと思ったというと、以下のような伏線があるからでした。

 炎天寺は
小林一茶が「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という句を詠んだことで有名な寺で、いまを去ること三十年以上も前に一度訪れたことがあります。そのときは春先だったので、一度名前の由来となった真夏に訪れてみなければ、と同行者と冗談混じりに話し合ったことがあったのです。
 同行者とは故・井本農一(1913年-98年)さん。お茶の水女子大の名誉教授で、松尾芭蕉研究の権威だったお方です。
 当時、私はある雑誌社に勤めていて、何人かの俳人や芭蕉の研究者たちにリレー形式で案内役を務めてもらいながら、「おくのほそ道」を歩くという企画を担当。その日は第一回で、井本さんに深川の芭蕉庵から千住まで同行してもらったあと、おまけのような形で炎天寺に寄ったのでした。
 千住宿に着いて取材を終えたとき、井本さんから真夏に云々という話が出て、「では、なるべく早く……」と約束してお別れしたのです。しかしその機会が訪れぬまま、いつしか三十年が経ってしまったというわけです。
 

 早朝は相変わらずの好天。今日も暑くなるゾ、と思わせました。ところが、弁当を用意して、そろそろ出かけるかと思った九時過ぎからわりと厚い雲が出始めました。インターネットで天気予報を見ると、晴ときどき曇、傘を持つ必要はありません、と出ていました。空を見上げると、雲に囲まれた狭い青空の中に、高々と伸びた積乱雲が見えましたが、青空が顔を覗かせていたのは束の間でした。

 落語の三題噺のようですが、炎天寺に行こうと思い立ったとき、インターネットの地図をプリントしておこうととして、わりと近くに薬師寺というお寺があるのを知りました。
 薬師寺と名がつくからには、本尊は薬師如来なのでしょう。どんなお寺なのかわかりませんが、近くへ行くついでに一度訪ねておいて、雰囲気のよいお寺であれば、薬師詣での候補の一つにしようと目論んだのです。
 そして
薬師寺と竹ノ塚駅の位置関係を知ろうと地図を縮小してみたら、毛長川という川の近くにたくさんの卍印があるのを知ったのでした。炎天寺を訪れるという長年の宿題を果たした上、薬師詣での下見とこれまで知らなかった寺町の探索ができると小躍りしながら出かけることとなりました。



 竹ノ塚駅は東口に出ました。電車を乗り換えた北千住方向へ戻る形で線路伝いにしばらく歩くと、左手はずっと竹ノ塚第二団地がつづくようになります。




 団地を抜けると、明らかにお寺と思わせる大きな屋根が見えたので、行ってみたら、西光院(真言宗豊山派)でした。



 境内にある大仏。真言宗のお寺なので大日如来です。




 西光院からものの数分で最初の目的地・炎天寺(真言宗豊山派)に着きました。
 竹ノ塚駅からは十五分。西光院に寄らず、直接きていたら十二~十三分というところでしょうか。

 創建は平安期末の天嘉四年(1056年)。炎天つづきだったその年の旧暦六月、奥州の安倍一族の反乱を鎮定せんと従く源頼義、義家父子の率いる軍勢がこのあたりで野武士と激しく戦うこととなり、きわめて苦戦となったが、京の岩清水八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができた。
 そこで寺の隣に八幡宮を建立、地名を六月村と改め、寺を幡勝山成就院炎天寺と名づけました。幡勝山とは源氏の白旗(幡)が勝ったので、成就院とは戦勝祈願が成就したので、炎天寺とは気候が炎天つづきだったので、というわけです。
「新編武蔵風土記」によると本尊は阿弥陀如来。弘法大師の作になるという薬師如来が祀られているということです。



 電車が竹ノ塚に近づくころに雲が切れ、炎天寺が間近になったころ、青空が顔を覗かせるようになったと思ったら、あっという間に猛暑となりました。



 山門をくぐると最初に目につくのが「蝉鳴くや 六月村の 炎天寺」という小林一茶の句碑です。



 池には大きな蛙と相撲をとる、やせ蛙のモニュメントがあります。



 あまりにも有名な「やせ蛙 まけるな一茶 是にあり」の句碑。




 小林一茶像。



 境内には到るところにカエルの置き物がありますが、極めつきは本堂前に鎮座するこの福蛙です。

 炎天寺までは東武線の東側を歩いてきましたが、ここからは東武線を越えて、西側を歩きます。



 東武線を越えたあと、最初に訪れたのは源正寺(真言宗豊山派)です。炎天寺から徒歩十六分。
 鎌倉時代、時宗の玄性寺として創建されましたが、天文二十年(1551年)になって、真言宗に改宗、寺名も源正寺と改められました。



 源正寺から九分で長勝寺。万治二年(1659年)の創建。日蓮宗の寺院です。



 福壽院(真言宗豊山派)。長勝寺から五分。開山開基とも資料散逸のため不詳。

 


 福壽院からすぐ。門前に一風変わった仁王様が鎮座する真言宗豊山派の實相院です。

 かつて一帯は沼地でいまでも地名を横沼というそうです。天平年間(729年-49年)、行基菩薩が諸国行脚のみぎり、此の地に錫を止めて池の中に浮かんでいた霊木を拾い上げ、みずから大悲の尊像を刻んで一寺を創立し、尊像を奉安した。

 その後、先に訪れた炎天寺と同じように、源頼義・義家父子が安倍貞任追討の朝命を奉して当地に陣し、朝敵降伏ならびに戦捷を祈願し、乱平定がなったとき、十有三町の地を寄進したということです。



 實相院本堂。



 實相院から八分ほどで薬師寺(曹洞宗)に着きました。境内には小さな林があって、なかなか佳い雰囲気です。
 肅州巌和尚が開山となり、万治二年(1659年)に創建。




 薬師寺本堂。
 これはこの日帰ってからのことです。
「新編武蔵風土記稿」には、本尊は行基菩薩が彫ったとされる薬師如来と記されているので、てっきりこの本堂に祀られているものと思って参拝しましたが、山門から本堂までの参道途中に小さな御堂があって、実際に前を通り過ぎたときはなんだろうと思いながら通ったのですが、庵に帰り着くころから、あれが薬師堂であったのではないかという疑念が湧くようになっていました。
 どのあたりであったか、帰りの電車に乗っているときに、ふと記憶にはないが、もしかしたらカメラに収めたかもしれないと思ってモニタを見返してみました。残念ながらカメラのシャッターは押していませんでした。



 我が宗派のお寺なので、歴住の墓所を訪ねて参拝しました。



 薬師寺から次の天龍寺までは六分。
 ここも曹洞宗のお寺です。天正九年(1581年)、氷見和尚という方が品川に創建しましたが、江戸城登城に不便だったので、慶長十五年(1610年)、湯島に移転、万治二年(1659年)、下谷坂本への再移転につづいて、明治以降当地へ移転。



 ここでも歴住の墓に参拝。〈つづく〉
この日の行程(竹ノ塚駅から天龍寺まで)。



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