今月の薬師詣ではどこにしようか? 前日まで逡巡していました。
順当なら、先月行こうと思いながら、事情が許さず、先延ばしにした、海源寺(本尊は薬師如来)のある茨城県美浦村です。
どんな景色に出会うのかわかりませんが、電車の時刻、バスの時刻をシミュレーションして、海源寺のほか、この地区では稀に見る規模といわれる木原城址、さらに木原漁港へ行って霞ケ浦を眺めたあとでも、本数の少ない帰りのバスには悠々間に合って、首尾は上々、これにて決定……と、スッキリしたあと、行程を見直していると、近くに永巖寺(えいがんじ)という我が曹洞宗の寺院があるのに気づいてしまったのです。近くにあるのに寄らずに帰ってしまうわけにはいきません。
再びシミュレーションのやり直しです。
するとしかし、バスの時刻をどうひっくり返してみても、永巖寺と霞ケ浦の両方を訪ねることは両立させられそうもない。このあたりにもう一度行く機会があるかどうか、と問うてみれば、まずそういう機会はない。すると、永巖寺への参拝を優先させるあまり霞ケ浦を眺めることを断念するのは忍びがたい、という気持ちになるのです。
歳を重ねて、朝、目覚める時刻は早くなりましたが、スクッと起き上がり、キビキビと動き出せるのかといえば、それは別の問題です。四時半とか五時過ぎという早い時間に目覚めても、台所の洗い物を済ませたり、朝食の準備をするという程度であれば身体は動きますが、遠出ができる、というレベルまで身体にエンジンがかかるのは、八時か九時ごろまで待たなければならないのです。
前日のうちに、準備万端整った、という状態にしておいたとしても、なんとか出発して、土浦駅に着けるのは早くて十時過ぎです。
土浦から美浦村へ行くバスは毎時一本しかありません。
出かける時間を変更すればなんとかなるのか、と時間を早めてみたり、巡る順序を入れ替えたり……と四苦八苦しましたが、どうにもやりくりがつかない!
前日にあたふたと考えるより、とりあえず今月は別のお寺を訪ねることにして……と再び目的地は変更され、同じ茨城県内でも、つくばみらい市に行くこととなりました。
北小金から常磐線で新松戸まで一駅、武蔵野線に乗り換えて南流山までまた一駅と乗って、つくばエクスプレスに乗り換えました。
南流山から七つ目のみどりの駅で降ります。
今回はバスを利用しないので、適当な時間に出発したのですが、新松戸で乗り換えるときの待ち時間はわずか二分、南流山では同四分という間合いのよさで、北小金から所要三十二分で着いてしまいました。
最初の目的地である大楽寺までは2・5キロあります。
土浦と水海道を結ぶ関東鉄道バスが走っていて、目的の大楽寺近くにバス停がありますが、私が訪れたのはちょうどバスの便のない時間帯でした。
若いころに較べれば、かなり速度が衰えたとはいえ、2・5キロなら三十分強あれば歩けるし、同様に体力が衰えたとはいえ、七月生まれの自分は夏に強いのだ、とバッグから取り出した麦茶のペットボトルを手に、気合を入れて歩き出しました。
しばらく歩くと、ここからつくばみらい市、との標識が目に飛び込んできました。下車したみどりの駅があるのは、つくばみらい市ではなく、つくば市だったようです。
我が地方は今月の二日から最高気温が30度以上という真夏日がつづいています。
梅雨明けはまだです。傘を持って歩かなくてもいいのはありがたいことですが、この日もどこが梅雨空か、というピーカン、それに伴う暑さです。
今回は寄るところがあまりないので、目に止まった小さな祠に寄ってみました。
八坂神社でした。由来を知るすべは何もないので、祠の画像を載せるのみです。
みどりの駅から歩き始めて、ここまで二十五分。
八坂神社から500メートルほど歩くと、集落が見えてきて、目的の大楽寺がありそうなバス停がありました。
しばし立ち止まって地図に目を落とすと、少し先(画像では左)に十字路があって、右手に大楽寺が見えるはずです。
関東鉄道の石下という駅から、私が降りたみどりの駅を経由して、土浦まで行くバス停の時刻表です。
右の灰色の部分が土日祝日。土曜日のこの日は七時台、八時台、十時台、そして最終の十四時台と一日に四本しかありません。
大楽寺に着きました。天台宗のお寺です。
扉が閉まっているので眺めることはできませんでしたが、本尊は阿弥陀如来坐像(茨城県指定有形文化財)と薬師如来坐像(つくばみらい市指定有形文化財)。
本堂前にはこのような説明板が建てられていて、由緒あるお寺とみえますが、お寺そのものの説明は何もありません。インターネットで調べてみましたが、お寺の由来を辿ることができる史料は得られず、いまのところ、詳細は何もわかりません。
つくばみらい市(2006年三月二十七日誕生)になる前、このあたりは谷和原村。市の誕生から十年も経っているのに、説明板の設置者は谷和原村教育委員会のまま。
薬師如来がお祀りされていたというのに、賽銭箱もなかったので、お賽銭はあげずに立ち去ることになりました。
本堂左に聳える、樹齢八百年(推定)とされるシイ(椎)の木です。
一本の木ではなく、根元から二本の幹が∨の字に分かれています。分かれたところをカメラに収めたいと思いましたが、工事車両がきていたので、近づけませんでした。
幹周りは7メートル、樹高29メートルとされていますが、幹周りとは恐らく二本合わせた太さだろうと思われます。
みどりの駅からこの大楽寺までちょうど三十分。
炎天下を歩いてきたので、上半身は本当に水をかぶったように汗みずくで、いくら気合を入れていたからといっても、息も上がっています。着ていた紺色の半袖シャツは、汗で脇の下のあたりの色が変わり、汗の染みたところは塩を噴いて白くなっています。
私はすこぶるつきの汗っかきです。
五年前、大腸ポリープの検査をした上、切除してもらったことがあります。検査室に入る前、乳酸リンゲル液の点滴をしてもらうのですが、ナースが私の左腕に針を刺そうとしても、噴き出してくる汗で、針を止めておくテープが剥がれてしまうのです。
その日がどんな天気だったか、すでに記憶にありませんが、七月の初めだったので、今日のように暑い日だったかもしれません。その病院までは、歩くと二十五分かかりますが、散策もかねて歩いて行くことにしていましたから、なおさら汗が止まらなかっただろうと思います。
ナースは四十年は看護婦をしてきたのではないかと思われる看護師でした。
その彼女が「こんなに汗をかく人は初めて見た」といい、「もし、汗かき選手権のようなものがあったら、かなり上位にランクされることが期待される」というようなことをいうので、二人で声を上げて笑ったことを思い出しました。
先のバス通りに戻って、さらに600メートルほど進むと、小貝川が流れていて、江戸時代につくられた福岡堰があります。
出発前は大楽寺に参拝したあと、そこへも行ってみるつもりでいましたが、携帯してきた地図を改めて眺めて見ると、600メートルとは、堰で取水された水が流れる用水までの距離で、小貝川はもっと先、堰があるのはさらに遥か先のようなのです。
暑さに息絶え絶えの状態では600メートル歩くのが関の山。その先まではとても行けそうもないので、取りやめにするか、としばし思案投げ首。
福岡堰は寛永二年(1625年)、関東郡代・伊奈忠治によって、灌漑用水として建設された山田沼堰が前身です。約百年後の享保七年(1722年)、現在地に改めて設けられました。
気息奄々ではあるが、折角近くまできているのだから……、と気を取り直してバス通りに戻り、さらに進むことにしました。
バス通りがこのあたりの商店街になっているようですが、店ほほとんどありません。
店は閉じられ、看板のたぐいもないので、何を商う店であったのかわかりませんが、避妊具の自販機がありました。
この集落に入ってから、若い人とは行き合っていませんが ― 若い人に限らず、そもそも人と行き合っていなかったのですが ― 若い人がゼロということはないでしょう。自販機は相当な時代物と見えますが、だから、いまだ現役のようです。
福岡堰の水門に着きました。
右(川通用水路)と左(台通用水路)に勢いよく流れ出る用水。
川通用水路はこの先15キロ、台通用水路は同20キロにわたって流れ、田畑を潤しています。
清冽な水が勢いよく流れるさまを見ると、心が洗われるようです。幸いにして空は曇り、微風も吹くようになって、気温もいささか低くなったように感じられました。
堤の桜並木です。この先1・8キロにわたって、五百五十本ものソメイヨシノ(染井吉野)が植えられ、桜の名所になっているそうです。
周辺の案内図がありました。
見ると、福岡堰までは1500メートルもありました。桜並木がつづいていて、幾分涼しいとしても、往復すると四十分弱かかります。
ここが最後で、あとは帰るだけというのであれば行ってみてもいいが、薬師如来をお祀りするお寺が近くにもう一つあるので、今日の目的は堰の見物ではなく、そちらに詣でることです。
少しだけ足を延ばして、取水門のあたりまで行ってみました。
中央に巾着状に見える水面が小貝川です。画像の右下あたりに取水門があります。
小貝川側から見た放水門を眺めたあと、みどりの駅へ戻ります。〈つづく〉
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