デジカメの撮影履歴を見ると熊本地震の頃の写真がたくさん残っている。
パソコンに転送して削除してしまえば良いものを、いまだにデジカメのカードの中に入っている。
写真を撮り、デジカメを開くたびにその映像が目に入る。
暗い思い出が頭に蘇り、気持ち的に落ち込んでしまう。
熊本地震から半年が過ぎ、あの頃の写真を改めて見直してみた。
最初の地震の時(確かNHKのニュースウォッチ9の番組中)にケータイの緊急速報が流れた。
その数秒後、ゆっくりとマンションが揺らいだ。
見ていた番組で「熊本地方でかなり強い地震があった模様です」とアナウンスが流れた。
しばらくしてテレビでは熊本市内の様子が出て、それからは地震の内容にニュースは変わった。
息子たちに連絡を入れるが連絡が取れなかった。
しばらくして娘から連絡があり無事が確認できた。
翌日は通常通り出勤して、夕方から熊本に向かうつもりでいた。
しかし息子たちから暗くなるので明朝から来るようにと言われ、そのまま眠りについた。
夜中の1時半頃、強い地震で眠りから飛び起きた。
すぐに息子たちに連絡を入れ、テレビをつけた。
やっと連絡が取れ無事を確認したが眠れなかった。
朝4時半頃だったかアパートを出て熊本に向かった。
博多の街は何もなかったような雰囲気でいつもの姿だった。
都市高速も九州自動車道も交通止めで国道を使って熊本に向かった。
熊本市内に近づくにつれクルマが多く、大渋滞だった。
自宅は外見からは異常がないように見えた。
室内は息子の嫁がきれいに片づけた後だった。
しかし2台あったテレビが倒れて液晶部分が壊れていた。
北熊本駅近くに地割れが走る。
断層は坪井川遊水公園を走りここへ。
さらに続く。
電気は開通していたが、水道とガスが止まっていた。
食料も飲料水もコンビニやスーパーにはほとんど無い状態だったので、その日は調達のためいったん福岡に戻った。
翌日も朝早くから調達した食料品や飲料水、家電(テレビやラジオ、懐中電灯)などを持って熊本に向かった。
余震が続いていた。
座っているとコップの水が常に揺れていた。
震度5程度の強い余震も何回かありそのたびに恐怖が募る。
それから1ヶ月間は休みのたびに帰省し、水や食料品を福岡から届けるのが私たちの役目のようなことになっていた。
地震から一週間後の熊本城。
熊本城や市内にカメラを持って出かけたが、光景を見るたび現実を重い知らされた。
しかし内心は淡々としていた。
「あっけないものだ」そんな感情だった。
現実を見せられても実感としてまだ把握できない状態だったのだろう。
両親を亡くした時のように、現実と向き合っているのだが感情がまだ追いついていない、そんな状況だった。
2ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎだんだんと事の大きさが実感としてわいてきた。
家は特に大きな被害はなかったが、グランドピアノが数センチ動いていた。
ピアノが動き、壁や柱をつぶしてしまう事を恐れていたが、そこまではなかった。
家の床下の潜ってみた。
コンクリートの土台の真ん中にあるはずの柱が、横にづれていた。
道路に面したブロックが一部剥げ落ちていた。
我が家の損害はその程度で済んだが多くは何かと被害が出ていた。
熊本城下の街は軒並み被害が出ていて、黄色の紙や赤い紙が張り出されていた。
昔事務所があった古町では断層が走ったところは全壊の家があったり、コンクリートの建物でも亀裂が走り、窓ガラスが粉々に飛び散っていたりしていた。
よく行っていた定食屋も建物自体が傾いて赤紙が張ってあった。
散散な光景だった。
そして救援に向かう全国からの消防車、救急車などの緊急車両の長い列を見たとき、事の大きさを実感したものだった。
あれから半年が過ぎた。
母の命日(3月29日)に福岡に引っ越した。
4月10日に私たちが住んでいた家に息子夫婦が引っ越してきた。
忘れられないその日は、それから数日後の事だった。
パソコンに転送して削除してしまえば良いものを、いまだにデジカメのカードの中に入っている。
写真を撮り、デジカメを開くたびにその映像が目に入る。
暗い思い出が頭に蘇り、気持ち的に落ち込んでしまう。
熊本地震から半年が過ぎ、あの頃の写真を改めて見直してみた。
最初の地震の時(確かNHKのニュースウォッチ9の番組中)にケータイの緊急速報が流れた。
その数秒後、ゆっくりとマンションが揺らいだ。
見ていた番組で「熊本地方でかなり強い地震があった模様です」とアナウンスが流れた。
しばらくしてテレビでは熊本市内の様子が出て、それからは地震の内容にニュースは変わった。
息子たちに連絡を入れるが連絡が取れなかった。
しばらくして娘から連絡があり無事が確認できた。
翌日は通常通り出勤して、夕方から熊本に向かうつもりでいた。
しかし息子たちから暗くなるので明朝から来るようにと言われ、そのまま眠りについた。
夜中の1時半頃、強い地震で眠りから飛び起きた。
すぐに息子たちに連絡を入れ、テレビをつけた。
やっと連絡が取れ無事を確認したが眠れなかった。
朝4時半頃だったかアパートを出て熊本に向かった。
博多の街は何もなかったような雰囲気でいつもの姿だった。
都市高速も九州自動車道も交通止めで国道を使って熊本に向かった。
熊本市内に近づくにつれクルマが多く、大渋滞だった。
自宅は外見からは異常がないように見えた。
室内は息子の嫁がきれいに片づけた後だった。
しかし2台あったテレビが倒れて液晶部分が壊れていた。
北熊本駅近くに地割れが走る。
断層は坪井川遊水公園を走りここへ。
さらに続く。
電気は開通していたが、水道とガスが止まっていた。
食料も飲料水もコンビニやスーパーにはほとんど無い状態だったので、その日は調達のためいったん福岡に戻った。
翌日も朝早くから調達した食料品や飲料水、家電(テレビやラジオ、懐中電灯)などを持って熊本に向かった。
余震が続いていた。
座っているとコップの水が常に揺れていた。
震度5程度の強い余震も何回かありそのたびに恐怖が募る。
それから1ヶ月間は休みのたびに帰省し、水や食料品を福岡から届けるのが私たちの役目のようなことになっていた。
地震から一週間後の熊本城。
熊本城や市内にカメラを持って出かけたが、光景を見るたび現実を重い知らされた。
しかし内心は淡々としていた。
「あっけないものだ」そんな感情だった。
現実を見せられても実感としてまだ把握できない状態だったのだろう。
両親を亡くした時のように、現実と向き合っているのだが感情がまだ追いついていない、そんな状況だった。
2ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎだんだんと事の大きさが実感としてわいてきた。
家は特に大きな被害はなかったが、グランドピアノが数センチ動いていた。
ピアノが動き、壁や柱をつぶしてしまう事を恐れていたが、そこまではなかった。
家の床下の潜ってみた。
コンクリートの土台の真ん中にあるはずの柱が、横にづれていた。
道路に面したブロックが一部剥げ落ちていた。
我が家の損害はその程度で済んだが多くは何かと被害が出ていた。
熊本城下の街は軒並み被害が出ていて、黄色の紙や赤い紙が張り出されていた。
昔事務所があった古町では断層が走ったところは全壊の家があったり、コンクリートの建物でも亀裂が走り、窓ガラスが粉々に飛び散っていたりしていた。
よく行っていた定食屋も建物自体が傾いて赤紙が張ってあった。
散散な光景だった。
そして救援に向かう全国からの消防車、救急車などの緊急車両の長い列を見たとき、事の大きさを実感したものだった。
あれから半年が過ぎた。
母の命日(3月29日)に福岡に引っ越した。
4月10日に私たちが住んでいた家に息子夫婦が引っ越してきた。
忘れられないその日は、それから数日後の事だった。