終戦記念日。
今年は戦争に関する番組が多いように感じるのだけど、気のせいだろうか。
今まで、知らなかったことを知ることが多い。
今日の終戦記念日を敗戦記念日ともいう考えもある。
終戦とはあまりにも美化されていると・・・。
ただ、どう呼ぼうと、たくさんの命が失われたことは事実である。
戦争に行って無念の死を遂げた若者たち。妻や子どももいた主たち。
空襲、原爆、攻撃を受けて、亡くなった一般の市民。
この前、知覧で見た「散華」とい言葉は嫌いだ。
虚しい。それこそ、美化しすぎている。
少なくとも「散華」ではない。悔しい、虚しい、悲しい死だ。
そして、今の私達はその方々の犠牲の上で生きている。
私達の生活があるのは、その方々の無念の死があるゆえだ。
私の母の前の夫も戦死だ。
教師をしていて、ルソン島だったか、マラリアで亡くなったと聞いているけど、真相はわからない・・・。
新婚当時か、赴任地の宮崎県の都城で一緒にテニスをしたという話も聞いたことがある。
母の気持ちを思うと、いたたまれない。
母は、多くを語らなった。
というか、話すには私たちが幼すぎたのか・・・。
生活するのに懸命だったのか・・・。
ただ、私が小学生のときか、戦争未亡人という言葉を聞いた気がする。
そういう組織か、そういう人に頼まれてか、はたまた、なにかしら役員をしていたのか、文章を書いていた気がする。
今も地域の公民館の慰霊碑に戦死した母の前夫の名前が刻まれている。その地域で亡くなられた方々と一緒に。
先日、帰省した時にみんなで手を合わせた。
生きていれば、教職者として、どんなに貢献しただろう。多くの子どもたちを立派に教育しただろうと思う。
30歳半ばで亡くなられたおじさま(私はどう呼べばいいのかいつも迷う)
今、その子どもである兄たちともお付き合いがあるけど、大事な父を失ったことでその兄たちの生き様も変わった。
もちろん、母の生き方も・・である。
私がそんな母の事情を知ったのは20歳のとき。
母の思いを今、想像する。
哀しみ、悲しみを乗り越えて、生きていかねばならなかっただろう。
戦死した夫を亡くした母は、その数年後に、妻を亡くした(病気だったという)父と再婚して、それから、幾年が巡り、私と妹が生まれた。
こう書くとき、私はいつも複雑な思いになる・・・。
運命と思えばいいのか・・・。
それだけに、自分の命のありがたさを思う。
今、実家にいる兄とは母が違う。
母は、再婚して、再び教職につき、地元の中学校に勤めた。
そこに中学生の兄がいたという。
もっと上に4人の姉たちもいた。
そこに私たちが生まれたのだ。
父に嫁いだ母の気持ち、再婚することを迷っていたということなどを、この前、鹿児島で会った叔母から聞いたことがある。
でも、私の知っている父と母はお互いを思いあったとてもいい夫婦だと思っている。
大きくなり、複雑な家庭環境のなかで、私は、父と母の長女として、いろんな経験をした・・・。
お互いを思いあったばかりに歯車が合わなかったんだろうと思うこともあった。
今、どちらの兄たちとも仲よくお付き合いさせてもらえていること、父と母に感謝だ。
不思議なことに、まったくの偶然だけど、おじさまの出た大学にわが子どもたち二人は進学したのだ。
その大学におじさまが進学したなんて知らなかった。
鹿児島に帰省したときに「S造さん(おじさま)の大学の記章だよ」と言われ、長女がもらった。
おまけに、その大学の建築物にのちに兄(おじさまの長男)が携わっていたというのも偶然ではない気がする。
ご縁、運命というものだろうか。
みんな、それぞれの人生がある。
ドラマがある。
戦争によって幾多の別れがあったことだろう。人の数ほどにドラマがある。
だからこそ、一人ひとりの命を尊び、大事に思う。
だから、戦争は絶対にしてはいけない。
どこの国であろうと、そこに市民のささやかな幸せがあるのだから。
ある方のブログに戦争のことを「忘れてはいけない」とあった。
本当にそう思う。
今の私達が少なくともできることは、体験者ではないけど(でも、私には、母を通して戦争が身近だという気がする・・・)「戦争」の酷さ、悲しみ、愚かさ、狂人と化すこと・・・さまざまな自分の感じたこと、知ったことを忘れずに、若者に、あとに続く人に伝えていくことだと思う。
せめて、それが無念の死をとげた人に対しての私たちのできる誠意だと思うのです。
お盆である。そして終戦記念日。
それぞれの思いを後世に・・・。
おやすみなさい。
今年は戦争に関する番組が多いように感じるのだけど、気のせいだろうか。
今まで、知らなかったことを知ることが多い。
今日の終戦記念日を敗戦記念日ともいう考えもある。
終戦とはあまりにも美化されていると・・・。
ただ、どう呼ぼうと、たくさんの命が失われたことは事実である。
戦争に行って無念の死を遂げた若者たち。妻や子どももいた主たち。
空襲、原爆、攻撃を受けて、亡くなった一般の市民。
この前、知覧で見た「散華」とい言葉は嫌いだ。
虚しい。それこそ、美化しすぎている。
少なくとも「散華」ではない。悔しい、虚しい、悲しい死だ。
そして、今の私達はその方々の犠牲の上で生きている。
私達の生活があるのは、その方々の無念の死があるゆえだ。
私の母の前の夫も戦死だ。
教師をしていて、ルソン島だったか、マラリアで亡くなったと聞いているけど、真相はわからない・・・。
新婚当時か、赴任地の宮崎県の都城で一緒にテニスをしたという話も聞いたことがある。
母の気持ちを思うと、いたたまれない。
母は、多くを語らなった。
というか、話すには私たちが幼すぎたのか・・・。
生活するのに懸命だったのか・・・。
ただ、私が小学生のときか、戦争未亡人という言葉を聞いた気がする。
そういう組織か、そういう人に頼まれてか、はたまた、なにかしら役員をしていたのか、文章を書いていた気がする。
今も地域の公民館の慰霊碑に戦死した母の前夫の名前が刻まれている。その地域で亡くなられた方々と一緒に。
先日、帰省した時にみんなで手を合わせた。
生きていれば、教職者として、どんなに貢献しただろう。多くの子どもたちを立派に教育しただろうと思う。
30歳半ばで亡くなられたおじさま(私はどう呼べばいいのかいつも迷う)
今、その子どもである兄たちともお付き合いがあるけど、大事な父を失ったことでその兄たちの生き様も変わった。
もちろん、母の生き方も・・である。
私がそんな母の事情を知ったのは20歳のとき。
母の思いを今、想像する。
哀しみ、悲しみを乗り越えて、生きていかねばならなかっただろう。
戦死した夫を亡くした母は、その数年後に、妻を亡くした(病気だったという)父と再婚して、それから、幾年が巡り、私と妹が生まれた。
こう書くとき、私はいつも複雑な思いになる・・・。
運命と思えばいいのか・・・。
それだけに、自分の命のありがたさを思う。
今、実家にいる兄とは母が違う。
母は、再婚して、再び教職につき、地元の中学校に勤めた。
そこに中学生の兄がいたという。
もっと上に4人の姉たちもいた。
そこに私たちが生まれたのだ。
父に嫁いだ母の気持ち、再婚することを迷っていたということなどを、この前、鹿児島で会った叔母から聞いたことがある。
でも、私の知っている父と母はお互いを思いあったとてもいい夫婦だと思っている。
大きくなり、複雑な家庭環境のなかで、私は、父と母の長女として、いろんな経験をした・・・。
お互いを思いあったばかりに歯車が合わなかったんだろうと思うこともあった。
今、どちらの兄たちとも仲よくお付き合いさせてもらえていること、父と母に感謝だ。
不思議なことに、まったくの偶然だけど、おじさまの出た大学にわが子どもたち二人は進学したのだ。
その大学におじさまが進学したなんて知らなかった。
鹿児島に帰省したときに「S造さん(おじさま)の大学の記章だよ」と言われ、長女がもらった。
おまけに、その大学の建築物にのちに兄(おじさまの長男)が携わっていたというのも偶然ではない気がする。
ご縁、運命というものだろうか。
みんな、それぞれの人生がある。
ドラマがある。
戦争によって幾多の別れがあったことだろう。人の数ほどにドラマがある。
だからこそ、一人ひとりの命を尊び、大事に思う。
だから、戦争は絶対にしてはいけない。
どこの国であろうと、そこに市民のささやかな幸せがあるのだから。
ある方のブログに戦争のことを「忘れてはいけない」とあった。
本当にそう思う。
今の私達が少なくともできることは、体験者ではないけど(でも、私には、母を通して戦争が身近だという気がする・・・)「戦争」の酷さ、悲しみ、愚かさ、狂人と化すこと・・・さまざまな自分の感じたこと、知ったことを忘れずに、若者に、あとに続く人に伝えていくことだと思う。
せめて、それが無念の死をとげた人に対しての私たちのできる誠意だと思うのです。
お盆である。そして終戦記念日。
それぞれの思いを後世に・・・。
おやすみなさい。