あじさい物語

七色の紫陽花のような日々の心模様
       

叔母さま、ありがとう

2022-02-06 22:47:01 | Weblog

今日は悲しい。

鹿児島の母の妹である叔母が亡くなった。

103歳である。

朝、従弟のTちゃんの電話で起こされた。

時計を見れば、叔母の逝去は20分位前である。

ああ~と思う。

叔母さま、頑張ったね。Tちゃん、よく看病したね。ありがとうの思いが出てくる。

そして、子どもたちや妹や兄や従妹たちに連絡する。

次女の「きっと、Mおばあちゃん(私の母の名前)が待っていてくれるね」の言葉を読んだとき、涙があふれてきた。

 

鹿児島に帰省するたびに、病院に行って会っていた。

子どもたちのことを喜び、孫たちをかわいがり、優しさをたくさんもらった。

西郷どんの家の近くの母の実家(K山どんと呼ばれていた)の話もたくさん聞いた。

薩英戦争の話も・・・。

きれいな文字でのお葉書もたくさんもらった。

病院で「100歳を超えた人がいるから、私も頑張るぞ!」と握り拳をあげて笑っていた叔母の姿が浮かぶ。

病室で「N子ちゃん、この大学ノートに書いてね」と言われ、何かしらメッセージを書いてきた。

母の9人兄弟の末っ子。母に似ていた。

淋しい。

帰省しても、もう会えないなんて。

 

従妹たちに連絡していると、思いがけないつながりを叔母のおかげで聞けて、叔母のプレゼントかと思った。

 

音楽教師をしていた函南に住む従妹は、叔母の家の近くのN先生のお宅にレッスンで行っていたという・・・。

N先生は、大学の実習生がわが小学校にきたときに、N先生が講演をするということで、母がバス停までお迎えに行った。

母とN先生の奥様は女子師範学校時代の友人だった。

叔母もそのことは勿論知っていた。いつぞや、N先生と奥さまの話をしたことがあった。

 

N先生の話が出たので、やはり音楽で有名なT田先生の話をすると・・・

私の学生時代の担任のT田先生宅へ、従妹の学生時代(私とはずいぶん年が離れているけど)泊ったという。

T田先生は、母が男子付属小のときに、いわゆる、教生で来られた。

私の学生時代に、これまた、偶然、それがわかり「お母さんはお元気?」と言われたものだ。

T田先生もN先生も鹿児島では知る人ぞ知る音楽の第一人者であった。

 

従妹と話しながら、つながりをあらためて感じ、叔母はどこまで私たちにプレゼントをしてくれるのだろうと思った。

(皆さまにはあまりわからないと思うけど、そのつながりが不思議で備忘録として書き留めておきたいの)

いろいろな思い出がめぐる。

夜に鹿児島の「ついでこん」を作りながら、叔母との思い出が次々に・・・。

 

 

ありがとう、叔母さま。

子どもたちも孫たちもそれぞれの地で感謝し、手を合わせました。

心からご冥福をお祈りいたします。

今頃、母たちとお話しているでしょうか。

 

 

 

 

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