昨日、YNUささらサロン「防災」が終わりました。盛況で、私を含む6名の登壇者(2名は土木事務室IMP Officeの女性職員、3名は都市基盤学科の男子2年生)がそれぞれ話題提供し、会場の皆さんと議論しました。非常に良かった、という声が多く、今後の様々な展開につながるサロンとなったかと思います。
なぜ「ささら」?
丸山真男が「日本の思想」の中で述べた、根元が哲学でしっかりと束ねられ、上部がそれぞれの個性で花開くささらのように、これからの日本の大学はささら型であるべきだ、という考えに基づいて、長谷部学長が名付けたサロンです。
IMP Officeの有馬 優さんが、素敵な素敵な文章をまとめて、第二話題提供者として朗読してくれました。
ここに、優さんの文章を紹介します。
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「ささらの森」
IMP Office 有馬 優
「正しさ」とは何か。私がずっと向き合っている問題です。当然、正解などありません。しかし私たちは、大小さまざまな決断を積み重ねながら生きなければならない。だからこそ、その判断基準となる「正しさ」について向き合い続けること、そして向き合い続ける姿勢を身に着けることが、大学教育の重要な役割だと考えています。
多様性が叫ばれる時代。確かに異なる文化を受け入れることは重要なのですが、それを踏まえた上で、それでも何かを「正しい」と言えるだけの思考訓練を、私たちはできているでしょうか。「受け入れる」ことに慣れてしまった私たちは、共同体としての結束力が弱まり、議論のない無秩序な社会へ向かっているような気がしてなりません。
もちろん、「正しさ」を考えるには、他者を知ることが最初の一歩です。人の数だけある「正しさ」に触れ、それまでの自分の思う「正しさ」と照合し、そしてまた「正しさ」をアップデートする。その営みの合間には様々なレベルの意思決定を迫られ、その都度最新の「正しさ」を基軸に選び取る。そうやって個々に「正しさ」を精査することは、人類に通底する「正しさ」を精査することにも繋がります。
そして「正しさ」を考える際に、見過ごしてはならないのが過去に生きた方々、つまり死者です。「土木史と文明」の講義の中でも、数多くの偉人、そして汗を流して文明を築いてきた名も無きエンジニアが数多く紹介されました。トンネル、ダム、橋、鉄道などといったインフラだけでなく、それを築き上げるために集結された人々の知識や経験は、私たちの街の中に生きています。私たちの文明社会を支えているのは、死者たちが選びとってきた「正しさ」なのです。
昨日、学内で開催された特別講演会「大地が示す地域の履歴」に参加してきました。研究者が地域に関わりながら取り扱う研究資料を、地域資源・地域資料と位置づけることで、専門分野の枠を超えた相互の対話を試みる企画です。昨年度末に退官された小長井先生と、教育学部の多和田先生が登壇されました。
興味深かったのはデータの扱い方です。地盤工学がご専門の小長井先生は、情報処理は、不要な情報を捨てることだと仰っていました。理系の分野は、収集するデータが膨大であることがその理由でした。一方で、歴史学がご専門の多和田先生は、古文書をくくっている紐にも価値があると考え、手がかりとなるものはなるべく残すようにしているそうです。
お二人に共通するのは、集めたデータを「正しく」評価していこうとする姿勢でした。歴史学の専門家が、古文書や古地図を利用しながら、過去の災害記録を紐解くこともあります。しかしその情報が本当に正しいのかを見極めるには、その分野を専門とする理系の先生との連携が必要だと、多和田先生は仰っていました。世の中は「予測」で動く潮流がありますが、その「予測」の源泉は、過去のデータです。過去の人々が蓄えてきた知識や、過去に起こった事象を掘り起こすことが、未来の判断基準、すなわち未来の「正しさ」を形作ることに繋がります。
「人は忘れる」。小長井先生はそう繰り返し仰っていました。その後個人的に頂いたメールには、こう綴られていました。「忘れることは人間が自分の体や心を過度な負担から守るために根源的に備わった神様からの授かりものなのかな、と感じます。私たちは、流れに逆らう鮭のような仕事をしているのかな」。
「人は忘れる」。どんなに忘れまいと決心しても。過去と向き合うことは、目を背けたいような事実ごと抱きしめるということです。そしてそこからの学びを、未来へと繋げていくことです。
では、どうするか?歴史を学ぶことはもちろん大切です。しかしそれだけなら、わざわざ大学に来る必要はありません。大学で学ぶのは知識だけではなく、その知識の背景にある死者たちの人生、そしてそれを伝えようとする教員たちの人生です。教室を含めた大学全体が、人生と人生が対面する、知的な遊び場であってほしいと願っています。事務室だって、そこに人が集えば、学び舎です。
また、大学のグローバル化は、過去の日本を思い出すきっかけになると、最近感じるようになりました。理系、特に土木の分野の留学生は、開発途上国の出身者がその大部分を占めます。彼らの研究への真剣さは目を見張るものがあり、その背景には、自分の学びが、母国の発展に寄与するという使命感があるように受け取れます。その様子は、明治時代、国策として海外へ送り出された日本人学生と重なります。留学生たちの母国が更に発展した時、それでも手本となるような何かを、日本は持っているでしょうか。私にとって彼らの存在は、「正しさ」を問いかけてくる”過去からの留学生”に映るのです。
多様な「正しさ」の中に、どんな共通点があるか。それを模索するうちに、人は曲がりなりにも「まっとう」な生き方に一歩ずつ近づけるのだと私は信じています。「受け入れる」だけでなく、「歩み寄る」ことで、同じ人間として高め合える点が見つかるのだと。
だからこそ、この「ささらサロン」のように、所属や立場を超えた議論の場を持つことは大変重要です。土木で頻繁に開催されている懇親会やお茶会も、部局内の「ささらサロン」のような役割を果たしています。そういう場で生まれた小さなアイディアが、大きな改革にひと役買うこともあります。つい最近では、若手教職員の会を開催し、同年代の教員と職員がざっくばらんに語らう時間を設けました。こうした、小さな「ささら」が点在する大学、縦割りや横割りだけでなく、今日のようにプロジェクトベースで色々な人が行き交う大学。そんな環境を、先生方の力をお借りしながら、作っていきたいと考えています。
第1回「ささらサロン」で長谷部先生がご紹介されていた『日本の思想』という本にはこうあります。「日本の総合大学は、今後は蛸壺型ではなく、分野の枠を超えて連携すると共に根底に哲学を持った発展が必要であり、ささら型の大学へ変わる必要がある」。
この、”根底に哲学を持つ”ということが、個人の枠組みを超えた、共同体としての「正しさ」を共に考えていくということと言えるでしょう。それは部署や学部内での哲学から始まり、横浜国立大学としての哲学、日本の大学としての哲学という横の広がりがまず一つ。そして、過去の人々が築いてきた哲学、現代の私たちが考える哲学、次世代に託すべき哲学という時間軸の繋がりにも、私たちは向き合っていかなければなりません。
私は、先生方、他の職員の方、そして学生さんたちがどんな人で、どんな「正しさ」を持っているのかを知りたい。そして、チームYNUとしての哲学を、共に築いていきたいと思っています。受け継いだ命の限り、「正しさ」の苗木を植え続けましょう。私たちが死者となったとき、大学のあちこちに、ささらの森が生い茂る未来を目指して。