細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(64)「歴史を学ぶこと」齋藤 佳奈 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 09:52:57 | 教育のこと

「歴史を学ぶこと」齋藤 佳奈

 私たちは小学校の頃から当たり前のように授業で歴史を学ぶ。授業で歴史を学ぶ時は教科書に従って先生から指導を受ける。その他の場所で私たちが歴史を学びたいと思ったら、おそらく本を利用することだろう。歴史の流れを伝えるこれらの本は主に元の書物をいくつか参考にしてまとめたものであろう。歴史を学びたい人の需要に応えるためである。では、この元となる書物は何のために書かれたのだろうか。記録のためであったり、自伝は自分の功績を自慢したいなどの目的があったのだと考える。でも、それだけでなく将来の人類が生き延びることを想って、忠告やアドバイスの意味があったのではないかと思う。例えば、地震がいつ起こったかという記録が残っていなければ、次の地震がいつ起きるかという予測ができていない。関東を襲う地震は、1293年の永仁関東地震から約200年周期で発生している。この記録が残っていなければ、200年周期とい法則は発見できてない。このように、歴史を本にまとめることはただの記述ではなく、将来に役立つことを信じてまとめられたものだと考える。

 それでは私たちは歴史をどのように学んでいったら良いのであろうか。授業でも幼い頃から歴史を学ぶということはそれだけ自分の住んでいる地域や国、世界を知ることが日常生きるために必要であるからである。何が起こってきたかを知らなければ、未来に何が起きるか予測をすることは出来ず、その際にどうやって行動したら良いか判断できない。また、人類が同じ過ちを繰り返さないようにという意味合いもあるのであろう。これに関しては正直、過去の人たちの意思に反した行動を取ってしまうことが多いのが人間である。どんなに犠牲を払ってでも戦争は何回も起きているし、大きな国が滅びていくところも何回も見ることとなる。それだけ大きな人の塊を統率することは難しいのだろう。

 だが、土木分野においては異なる。1度作られた偉大なものの記録は次の構造物を作る上で参考にされ、さらに素晴らしいものが構築されてきている。パナマ運河は1869年のスエズ運河の開通が成功したことを受けて、1914年に開通している。スエズ運河が水平式なのに対して、パナマ運河は閘門式である。相当長い距離の運河を構築する技術が受け継がれていることも素晴らしいが、パナマ運河ではさらに水面の高さを変えて船を通すことによって、掘削しなければいけない量を圧倒的に減らした。技術が引き継がれ、さらに発展させられる。また、反対にタコマナローズ橋のように失敗が教訓となり改善させられる。そして、それに関わった人の日記や自伝を読むことでその初めての試みがいかに困難を極め、どのような努力がなされたかを知ることが出来る。土木史を学ぶことは人類と社会の成長の軌跡を辿ることである。土木史を学べば、その時代の背景や土地柄など、様々な条件下において、その構造物が作られたことが分かってくる。土木は国家の一大プロジェクトであるため、国の統治を理解するには土木を知ることが必須であると私は考える。

 歴史を伝えることは口頭でもできる。でもそれがわざわざ書物として残されるようになったのはより正確に、大量の情報を将来に残しておきたかったからだろう。私たちは過去の失敗を繰り返さないように、そして偉業は見習い、さらに発展させていくことが望まれている。そのためには、ただ一般的な歴史だけでなく、違った側面からであったり、ひとつの事やひとりの人物にだけフォーカスして学ぶことも必要である。教科書だけでなく、時には、原本やひとつのことについて詳しく述べられた本を読むことが重要なのだろう。スマートフォンなどの機器が発達し、娯楽が増えた中でも定期的に本を読んでいきたいものである。

 


学生による論文(63)『あなたはどこから海を見るか』 河野 ひなた (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 09:51:31 | 教育のこと

『あなたはどこから海を見るか』 河野 ひなた

 私は迷っていた。横浜国立大学の願書を前に選択を迫られていた。

 一体何に悩んでいたのかというと、横浜国立大学のどの学部・学科を受験するかという問題であった。選択肢は二つあって、都市科学部の都市基盤学科と理工学部の海洋空間とシステムデザインEPだった。

 私は海が好きだった。港が好きだった。船が好きだった。

 そもそも横浜が好きだった。横浜生まれ横浜育ちの正真正銘のハマっ子の母に育てられたからか、横浜に対する地元愛を幼い頃から持っていて、横浜に住んでいることを誇りに思っていた。

 横浜が好きな理由は港にあった。

 シンボリックな建物、潮のにおいのする公園、人の絶えない繁華街は魅力的だった。みなとみらい21を中心とした臨海部では、横浜ランドマークタワーを中心としたスカイラインは見事であるし、大きな客船も出入りしていて、1日を始めるように汽笛が鳴る。また、162年前、横浜が開港した際に外国からたくさんのものが伝来した事によって横浜には日本で初めての発祥の地がたくさんあった。まちのあちこちに“発祥の地”という文字があるのが幼心にもなんだか嬉しかった。

 冒頭の話に戻ろう。私は1年浪人をして受験をしているのだが、実は現役時代の後期で理工学部を受けていた。

 最終的に都市基盤学科を受けた理由は大きく二つある。一つは、土木構造物の中でも橋が好きだったこと。もう一つは、港湾を有する横浜という“都市”が好きなのだと気付いたことだった。

 今でも海運は、多量の物資を少ない人間で輸送可能な運輸手段として多く利用されている。そういった中でも、パナマ運河やスエズ運河は世界の海運を飛躍的に上昇させた。太平洋と大西洋をつなぐそれぞれの運河は、大陸を大回りする航路と比べ、パナマ運河は60%、スエズ運河は24%もの航海距離を短縮した。

 また世界中では、シンガポール、ドバイ、上海、ロッテルダムなどの港がそれぞれの地域において最大規模の港湾であり、その港は貿易港としてその能力を存分に発揮している。上海港に関しては、その貿易機能を上げるために洋山深水港を埋め立てて建設したほどである。これらの港は特に海から見た時に便利であり、貿易に際して評価の高い港湾である。

 一方、横浜港は、日本の港湾の中では最大級であるが、今上げたような世界の貿易港には到底及ばない。京浜の港湾をすべて集めてもそれらの港湾の貿易量に届くのは難しい。しかし、私は横浜の港湾都市としてのポテンシャルはまだまだ計り知れないと考えている。

 横浜は人を呼び寄せる力を持っている。現在進行形で開発が進み、時代と共に移り変わる横浜は、開港当時の“変化を恐れない”風潮から変わらず横浜の地に根付いている。

 私は都市基盤学科で、都市から海を見ることにした。

参考文献:土木の話題 15「土木が縮めた世界」 | 草野作工株式会社 ~「かたち」は、人を想う、その先に。https://www.kusanosk.co.jp/trivia/column/civil/9501

 


学生による論文(62)「論ずること、あるいは人生」 落合 佑飛 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 09:01:00 | 教育のこと

「論ずること、あるいは人生」 落合 佑飛

 そもそもなぜ論じるのでしょうか。文章を書くことにはどのような効用があるのでしょうか。

 我々は似たような人生を歩んできました。みな小中と先生のいうことをよく聞いて、あるいは勉強ができるからと斜に構えて、過ごしてきたでしょう。そこではほとんど自分の考えというものは無価値扱いされてきました。算数にも英語にも物理にも国語にも模範解答があったからです。我々の考えは、模範回答か否かに峻別されてきました。模範解答以外の答えは日常業務や部活動支援、保護者対応などさまざまなお仕事で忙しい先生にとっては厄介極まりない物であり、そうしたじゃじゃ馬の調教術こそ授業の秩序を最小限の労力で保つためには必要なものでした。勉強が塾でもっと先の分野を勉強しているからという理由などで授業内容が分かるからと斜に構えている児童・生徒は確かに厄介ではあるものの、静かな優等生という印象さえ先生に与えておけば成績もよかったでしょう。学校なんてそんな程度のものだったと、今なら思えます。5の数やAの数に一喜一憂していても仕方ない、大切なものはほかにある、とこのように今は思えます。

 ただ、今回したいのは小中学校の批判ではありません。あるいはすでに受験のための通過点に堕している高校教育についでもありません。

 私が今回述べたいのは、論じることについてです。

 論じるとはどういうことか、既存の知恵に自分なりの考えを付与し、それを発表することです。自分の発言には責任を持ち、自分の誤りが明らかになればそれを正す、こうした営みをも包含する行為でなければ、本当に論じることにはなりません。匿名での罵詈雑言など、自分の発言に責任を持てないならそれは放言です。とるに足りません。

 自分の中で熟成させ、本当に考えて突き詰めて論じていけば、そこにはその人の価値観や人となりがあふれ出てきます。同じ内容を述べるにあたっても、どんな言葉を使うか、どんな例を用いるか、どんな参考文献を持ち出すのか、こうしたところに個性が出ます。これらは教養とも言って差し支えないでしょう。

 ただ、教養の一言では済ますことができません。教養は他人と比べた時には優劣の残る指標ですが、どのように記述するかは個性や人生の問題でどちらが正しいとかどちらが間違っているとか、あるいはどちらが望ましいという類のものでは無いからです。文章の端々に現れるのはその人のその人となりです。その人のそれまでの人生がそういう内容のことを書かせている。継続は力なり、と言いますが、人生の継続の結果に今の問題意識があり、この問題意識が私あるいはあなたという一個の人間に現在のこのような内容の論を書かせているのです。その点ですべての主張には下地があり、背景があります。そうしたことを考えてみれば、文章を書くということは誇張でなく自らの人生を開陳することなのです。文章に真摯に向き合っていればそういうことが分かるはずです。自らが価値あると思ったことを自分の時間を削り、自らの内面を抉り出して書いているのです。その点は小説でも論説でも学生が論じた文章でも変わりはありません。変わるのは技法と技量のみです。

 私に言わせれば、文章を読めばその人の考え方の癖やどこに問題意識を抱えているのか、何を大切に思っているのか、どんな価値をもって生きてきたのか、こうしたことがうっすらと分かるような気がしています。

 例えば、論文に毎回授業の内容から書いている人はこれまで優等生だったでしょう。課題=授業の内容から出されるモノ、という先入観がこの考えを規定していうと推察されます。一方で、授業の内容から全く関係ない文章を書く人は、自分に自信があるか、単に馬鹿なのか、あるいは本当にいろいろ考えてきた挙句あふれこぼれてしまったのか、こんなところではないでしょうか。もちろん、違う場合もあるでしょう。けれども当てはまっている部分もあるのではないでしょうか。たとえこれらの分析が頓珍漢だったとしても、少なくとも自分では分かるはずです。自分が道路のことばかり書いているなら、その人は道路が好きでしょう。GTPレースのことばかり考えているなら、その人は変わり者かもしれません。

 しかし、中にはまったく感情を感じない文章もあります。一般論の焼きまわしに終始した文章のことです。あるいは前提条件ばかりを述べたり、ありきたりな話をした挙句「だから私は○○になりたい」のような薄い感想でまとめて終わったりする文章です。またこれまでの議論の軌跡を集めただけ、という文もこれにあたります。こういった文章は私のかつての文章の特徴をそのままそっくり引いてきたものですから、昔の自分が未熟だったということですが、こうした話は読んでも「へ~そうなんだ」以外の感想が残らないものです。私(その文章を読む人からすれば、あなた)は何を言いたいのか、の部分が欠けている。私に言わせればこれらの文はそのテーマについて論じたことになりません。授業の要約や無意味な感想、議論の集積は感情を外には出しません。そして、私はかつての自分を振り返ると自らの文章は論じるという観点では今一歩足りないものだったととらえています。

 それはなぜか、それは文章を書くこと論じることが自分独自の新しい知見を加えた考えを他人に伝えるための営みだからです。これまでの蓄積から、あるいはその回の授業から何を感じ何を考えるのか、私自身の過去と将来、世界の過去と将来、我々はどんな将来を描くことで将来を拓いていけるのか、こうしたことを考えて文章にすることこそが必要だと考えます。そして、ここに設定した問題意識こそがその人の人となりを表すのです。根源的には悩みは個人に帰属するものです。なぜなら一般化された苦行やその他の経験もどれとして同じものは無いからです。そして唯一無二の経験を積み続けた我々、一人一人の人間が設定する問題は他のどの人とも一致しないものです。問うことは答えることですし、問うことは主張することですから、個人の持つ固有の考えは論じることを通じて滲み出るものなのです。

 またこの営みは自分をも救うことになります。私は何に悩み、どこに問題意識を持っていて、どこでつまずいていたのか、こうしたことを整理するには論じることが何よりの処方箋です。そして、こういう場合には書いてから日が経っていたとしても自らの心の底の叫びがすぐ耳元で聞こえるかのように震えるのです。

 さて、自らの考えが無い文章は論じるという観点からは今一歩足りないと述べているわけですが、仕方ない面もあります。その原因は小中高で自分の考えを聞いてもらえなかった点にもあるからです。あるいは日本語の語彙が足りなければ自分の感情や考えに形を与えることができず深い考察は不可能です。訓練と語彙が足りない我々若造には論じることは難しい作業です。

 このような課題は文章を書くことがこれまでなかった人や、本を読む機会が少ない人には特に顕著なのかもしれません。勘違いしないでいただきたい、私は本を読まない人間が悪いと言いたいわけでもなければ、自分が優秀だと言いたいわけでもありません。

 ただ、文章を読んだり、人の話を聞いたり、新しいものに触れたり、失望したり、感動したり、こうした経験をひとつずつ言葉にして行くことができれば私たちは人生をもっと豊かに語ることができます。自らの感情を深めることで自らを取り巻く世界をもっと色鮮やかに論じることができます。

 そして、文章を書くことは世界のためにも自らのためにもなる行為です。自らの考えを通じて世界に新しい価値を残すこと、将来の自分が振り返った時に自分の思考の軌跡が見えること、この二点は世界にとって私にとって有用でしょう。

 さてここまで、言いたいことは一つ。

 「私たちは責任をもって堂々と言いたいことを言えばよい。その一言一言がその人の生き様である。」

 論じることを考えるうえでは、このことを欠かすことはできないように思います。少なくとも私にとってはこう信じると決めた道でもあります。

追記
 当然私の今回のレポートにも背景となる事象がある。例えばそれは下に挙げた参考文献にたまたま出会ったことにある。例えばそれは学友のレポートを読んだことにある。これらはみな個性的で素晴らしいものである。そしてそこにはその人の考え方が隠されている。自覚的であれ、無自覚であれ、文章の表に裏に現れる自らの言葉こそが自らの骨肉とっているものである。
 また、この考え方の応用は本を読むときにも使える。文章を書いているすべての人間は人間である。だから個人的な人生を抱えており、そこにはひとかどの喜びと痛切な痛みを持った人間がいる。すべての文章はある目的と使命感によって書かれている。だから、我々はそこに一人の人間がいると、そこで叫んでいる人がいると、このように思って本を読むのである。つまり他人の言葉にも耳を傾けるのである。私のために、あなたのために、作者や話者のために。


参考文献
正しい本の読み方 橋爪大三郎


学生による論文(61)「『水の都』の認識できない情報量」 大橋 直輝 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 08:59:52 | 教育のこと

「『水の都』の認識できない情報量」 大橋 直輝

 イタリアの港町・ヴェネツィアには、S字に走る長さ3800m・幅100mほどのカナル・グランデ(Canal Grande)を中心に、無数の運河が網目・ネットワークのように走っている。その無数の運河に分けられた無数の小島が400藻の橋によって繋がれ、一つの都市として形成されている。「水の都」と呼ばれるようになる歴史や文化・風景もとても魅力的ですが、何より魅力的なのが歩行者都市でありつづけたことだ。

 都市の歴史を見ると、明らかに都市構造と計画が人間行動と都市性能に影響を及ぼしている。20世紀に増え続ける自動車交通に対処するために、利用できる都市の余地がすべて自動車の走行と駐車に割り当てられるようになった。多くの都市で空間が許す限りの自動車交通を受け入れ、より多くの道路と駐車場を建設することによって交通圧力を緩和しようとする試みが行われた。その結果、より多くの道路がより多くの交通を生む。これまで人が持つ情報の共有・交換が行われていた公共空間、歩行空間、そして都市の余地が果たしていた情報を持つ人々の出会いの場所が侵食されていった。徒歩が交通手段として利用される機会が減少し、都市の余地が文化面・社会面で果たしてきた役割が狭められてしまった。

 多くの古い都市は、つくられた当初は歩行者の街であった。地形のために自動車交通が利用できなかったり、経済と社会組織がいつまでも徒歩交通に依存したりしているところでは、当初の役割を果たし続けている街である。ヴェネツィアは道が狭いうえに運河を跨ぐ橋がたくさんあるため自動車が使えない。そのため1000年の歴史を通じてずっと歩行者都市であり続けた。これは今でも世界では数少ない歩行者都市のひとつであり、その中でも特別な存在である。この街は歩行を温かく誘引し、何世紀にもわたって都市の余地における人々の交流の場を提供し、今でも提供し続ける。このような都市はどこにでもありふれているわけではない。濃密な都市構造・短い歩行空間・用途の高度な混合・活気のある柔軟な建物と歩行空間の境界・素晴らしい建築・入念にデザインされた細部などあげたらきりがない。そしてこれらの要素が人間の感性から逸脱することなく、快適さを生みだし人々の生活を豊かにしている。

 そして、このような空間では1+1がすぐに3以上になる。大した変化ではないと感じる人もいるかもしれないが、人間の脳は本能的に物体を3までしか認識できず、それを超えると文化的な補助や指を折ることでしか数えられない。(※4までは数えられるとする研究もある(ロシア語文法はその傾向が見られる))例えば、漢数字は「一、二、三」の次は「四」。ローマ数字でも「Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ」の次は「Ⅳ」で表すことが多い。すぐに人間が瞬時に認識できない情報量が交換されていく。

 インフラにはストック効果がある。しかし負のストック効果もあるのではないだろうか。情報を持つ人が遠く離れた場所に瞬時に情報を伝達させることができる。このことは利点になる。しかし規制なしにインフラを設け交通を誘引した都市、すなわち生身の人間のための余地を残していない都市にヴェネツィアのようなすさまじい情報量の爆発を起こせないと見える。時間と生まれるべきだったアイディアは中長期的に失われてしまっていないだろうか。十分に機能できないインフラは逆に負のストック効果を生みだす。

 


学生による論文(60)「そこ」岩本 海人 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 08:58:16 | 教育のこと

「そこ」 岩本 海人

 今日の講義の中で紹介された数々の現地での写真、特に壁に手をあてた写真からインスピレーションを受けてこのレポートを作成するに至った。

 「そこ」に存在すること。現地へ赴くこと。五感で現場を感じること。
 それらの価値は、ネットネイティブ世代によって、かなり過小評価されているように感じる。

 その原因は、間違いなくインターネットであると考える。
 インターネットによって与えられた全知の錯覚により、未知を既知と錯覚する故、「そこ」に存在することの価値が過小評価されていくのだ。
 インターネットは、即時的に、世界の情報網にアクセスできる場である言えるだろう。世界中のインターネットにアクセス可能な人々が、そこに情報を提供し、また同時に、世界中のインターネットユーザーは、その情報にアクセスする。その情報網は、ユーザーの爆発的な増加、検索エンジンの急速な発展により、飛躍的に充足した。

 そんなインターネットが与える影響の大きなものの一つに、「全知感を私たちに与える。」ことが挙げられると私は考察する。手元にスマートフォンやパソコンがあり、インターネットへのアクセスがある状態において、一部の人間はその情報網が自分の頭に格納されているかのような錯覚を持つ。そして、その傾向は、幼い頃からインターネットを使用してきた世代に特に強いだろう。このことは、道具が身体の延長かのようにかんぜられてしまう現象に等しく、靴と足が同化したかのように振る舞うことなどに等しい。

 この全知感の問題は、決して私たちは全知ではないという点にある。

 次に、「そこ」に存在することの正当な評価について考えていきたい。

 以下に「そこ」に存在することの特徴的な価値を挙げる。
<豊かな体験>
 豊かな体験とは、「全体」に身をおくことであると私は考える。
 森の航空写真を見ることではなく、森を歩き、足で土を感じ、さえずりに耳を傾けることである。Google mapでストリートビューを見ることではなく、パン屋の匂いに誘われながら、通りすがりの人に肩をぶつけてしまったりすることである。そんな豊かな体験をするには、「そこ」に存在する必要がある。
<今を感じる>
 インターネット上の情報は一部例外を除き、全て過去のものである。しかし、どんなものも変わらないものはなく、四季や人の営み、自然の営みの中で絶えず姿を変えていく。そんなものの今を知るためには、「そこ」に存在することが必要である。
<愛着を持つ>
 「そこ」に存在することで、その空間は自分にとって、どんな形にせよ特別になりやすくなるだろう。広義の愛着を持ち、そのことは人生を豊かにする大きな鍵であり、大きな価値を持つ。

 私たちは、インターネット上のリサーチの容易さや、情報の膨大さに圧倒されて、しばし、「そこ」に存在することの価値を見失ってしまう。けれど、私たちは五感をもち、今を生き、何かを愛することができる。それらの力を使わずして生きるのは、非常に勿体無いことだ。

 


学生による論文(59)「青山士に学ぶ 技術者として成長するコツとは」伊藤 美輝(2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 08:56:39 | 教育のこと

「青山士に学ぶ 技術者として成長するコツとは」伊藤 美輝

 はじめに、途中キリスト教に言及する箇所があるが、私は宗教に関して全くの素人であるため、理解に誤りが含まれている可能性があることを断っておく。

 今回ビデオを見た青山士は、私も好きな技術者の一人だ。若くして海外に渡り、パナマ運河の建設という困難なプロジェクトに音を上げることなく取り組み昇進し、帰国後も日本の国土改善のため様々な事業に取り組んだその姿勢には、ただただ脱帽する。さて、以前の論文にも書いたが、とても私は青山のような偉業を成し遂げられるとは思えない。しかし、世の中に貢献したいという気持ちを持って都市基盤学科に入ったのだから、このような先輩に学ばずしては卒業できない。この論文では青山のような技術者に近づけるよう、青山士の人生を深堀りしたうえで、どのようなことを心がけるべきなのか考察してみようと思う。

 まず、青山士の偉業を軽くおさらいしよう。青山は第一高等学校から東京帝国大学に進学し、廣井勇などのもとで土木工学を学ぶ。その後、廣井の紹介でアメリカに旅立ち、鉄道事業で測量を学んだあと、20世紀最大の土木事業と呼ばれるパナマ運河建設に唯一の日本人として参加する。疫病の蔓延やジャングルの開拓といった厳しい条件の中測量技師から設計担当まで昇格する。これは当時日本人への待遇としては異例であり、それほど青山の能力が買われたのである。その後日本に帰国し、荒川放水路の建設や、大河津分水路改修、鬼怒川の改修など多くのプロジェクトに関わり、国民を安心して住まわせられる国土を作っていった。

 では、青山がこれだけの偉業を成し遂げられた理由を、自分なりに考え3つ挙げてみようと思う。

 まず、生涯を通じて師匠内村鑑三や恩師廣井勇の教えに基づいて行動していることだ。内村は「無教会主義」のキリスト教思想を持つ。無教会主義は内村鑑三が提唱を始めた日本流のキリスト教、といったところである。内村鑑三が日清戦争について、「中国の圧迫から朝鮮人を解放」する、「神が世界に正義と平和をもたらすため日本に特別の使命を授けた」戦争、すなわち義戦だと論じていること、これに反した結果となった日清戦争について「義戦が略奪戦に転じ」たと評価していること、そして平和主義と日本社会の道徳的腐敗を訴え続けたことから、無教会主義は道徳的行動により平和を求めていく思想だと推察できる。この思想に則った結果が、様々な土木プロジェクトへの参加に現れているのではないだろうか。また、岩淵水門工事では指揮の立場ながら自ら泥をかぶり作業をする姿勢にも表れている。そして、なにより日本海軍に爆破攻撃のためパナマ運河の詳細について聞かれた時に、「私は造ることは知っているが壊し方は知らない」と答え、戦争へ協力しない姿勢を見せたことは、内村鑑三の平和主義を受け継いでいることが濃く表れている。このように、師匠の教えが軸となり、青山の行動を導いているのではないだろうか。このように軸がなく、迷いがあると人生の分岐点では足踏みしてしまうことが多い。もちろん、技術者として設計や使用材料にはじっくり悩み検討することが大切だが、このような行動規範があれば人生の進め方に迷わずに、自分が発揮できる力を惜しみなく世に使っていけたのではないだろうか。

 次に、身近に自分を感化してくれる人がいること、そしてその人の声に素直に反応する力があったことだ。素直さ、というのは参考文献「fromDOBOKU」で著者有馬優さんも特筆していることだが、私もこれが青山を導いた要因だと思う。例えば、師匠廣井勇のパナマ運河事業の紹介に応じたこと。そして師匠の内村鑑三の門下生となったのも、高校時代のルームメイトの誘いに素直に応じて内村のもとを訪ねたからであった。このように、自分のもとに差し伸べられた導きをしっかり掴む勇気と、これを掴むための普段からの用意(時間の使い方や学力など)があれば、成長していけるのだろう。

 そして、一緒に行動する仲間がいなくても、一人で突き進んでいける勇気を持ち合わせていることである。青山はパナマ運河事業に向かう前、何人かに一緒に行かないかと声をかけたとされている。しかし断られてしまい、一人で異国の地に旅立った。知らない土地に旅立つのは、留学制度がしっかりしていて、その国の情報が入ってくる現代でも勇気がいることだが、青山は100年強前に成し遂げたのだ。なにか成し遂げるとき、常に身近に仲間がいるとは限らない。そんな中で何かを成し遂げるためには、このような一人で動ける「フッ軽さ」が大事なのかもしれない。

 以上のように、私は青山の人生から、世に自分の力を発揮していくには、尊敬し規範とできる師匠がいるもしくは思想があること、自分の成長のため差し伸べられた手を素直に取れること、一人で突き進む勇気があることの三つが必要だと考察した。

 それでは、最後に自分(たち)に青山の心構えをどのように生かせるかどうか考えていこうと思う。

 まず、内村鑑三のように自分の軸がはっきりしている師匠と出会える環境については、今も整っている。例えば横国の前川先生などは、講義で伝えたいことがはっきりしていて、このような師匠の一人なのだろう。さらに情報社会の現在では、旧帝大に進学できなくても優れた先輩・先生の知識は得ることができ、SNSや配信を通じて声を聴くこともできる。また、大学に行くための費用(学費対GNP比)は青山の時代より低くなっている。もちろん、最終的には対面でお会いする、言葉を密にかわすなどしなければ青山のようにプロジェクトを紹介してもらえるまでにはならないだろう。しかし偉人に会えるきっかけが身近になった現代では、青山の時代より低いハードルで分野のトップに関わることも可能なのではないだろうか。現代では学力よりも、師に近づこうとするアグレッシブな姿勢のほうが大事なのかもしれない。ついていきたいと思える師匠に出会えたならば、その先師匠の言葉を胸に進んでいけばよいのである。

 また、自分を感化してくれる人と出会い、誘いに乗る環境も整っている。まず、都市基盤にはある分野の知識に秀でている人、高い行動力を持ち合わせる人、深い思考ができる人など優秀な友人がたくさんいる。そして彼らと一緒に学校での休み時間など、話す内容が限られていない時間と空間の中話せる環境も、対面授業が行われている今はある。コロナ禍でもTwitterをコミュニティとして同じようなことが行われていた。そして、そんな話を通じて、一緒に街中の土木を見に行く、プロジェクトを立ち上げるなど行動をしている。また、学外の優秀な学生や先生、社会人の先輩ともSNSなどを通じて簡単に交流し、新しいことを始めていく機会がある。こう考えると、「これは自分を成長させてくれる導きなんだ」という意識さえ持てば、青山が生きていた時代よりももっと成長できる可能性を秘めているようにも感じる。

 そして最後に一人で突き進んでいく勇気だが、私はこれが急に引っ込んでしまうこともある。やはり一人で動くと考えると、失敗しても周りの誰も助けてくれないと思うと怖い。しかし勇気は、自分の中から湧いてくれさえすれば持つことができる成長への条件である。このことを意識し、不安を払しょくできるくらい、普段から自分を学力面等で成長させておくことや自分が生きる軸を用意しておくことが大事なのだろう。

 ここまでいろいろと述べてきたが、もちろん青山士のような人生以外の成長の仕方もあるだろう。他の土木偉人も見てみないと成長の本質にはたどり着けないだろうが、一人の先輩談として青山士の人生は心にとどめて技術者として成長していきたい。

~参考文献~
「青山士」in wikipedia
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%A3%AB>(2021年12月10日参照)
土木学会「青山士 年表」
<http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/aoyama/aoyama_nenpyo.pdf>(2021年12月10日参照)
土木学会「略歴及び著書・論文等」
<http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/aoyama/aoyama_profile.htm>(2021年12月10日参照)
カルロ・カルダローラ「無教会の平和主義」<https://ainogakuen.ed.jp/academy/bible/mukyokai/nonch.pacif.html>(2021年12月10日参照)
From DOBOKU(2021)「【青山士(前編)】たったひとりでパナマ運河建設に向かった青年〜土木スーパースター列伝 #03」
<https://from-doboku.jp/n/n6c695feaa435?magazine_key=mcec93331c5d8>(2021年12月10日参照)
お金のストーリー(2021)「【旧制高校・旧帝国大学】 戦前のエリートにかかる学費はいくら?」
<https://yuuponshow-price.com/m-t-s-educational-institution/>(2021年12月10日参照)


学生による論文(58)「未来への開港」飯田 理紗子 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 08:55:19 | 教育のこと

「未来への開港」飯田 理紗子

 港を開く―それは、東を太平洋、西を日本海に囲まれた日本にとって、他地域、他国との更なる交流や交易を図るということを意味するであろう。「開港」は、新たな時代を進んで切り開いていくような明るい響きを持ち、外部に対しオープンな姿勢で強い国家を築こうという前向きな言葉であるように感じる。また、「開港」と言えば、日米修好通商条約の締結によって幕末から明治の時代にかけて横浜・神戸・函館・新潟・長崎の5つの港が開かれ、そこでは貿易が行われたり外国人居留地が形成されたりした、という歴史的事実も思い出される。これらの都市は港湾都市としてその特色を活かしながら今日まで確かに発展を続けてきた。しかし、我が国が海外に対して交流を始めたのは最近になってからのことではない。多くの人々やもの、情報が行き交う現代の「港」のように、古い時代から大陸と長い間深い関係を築きながら様々な文化や技術が行き来してきたことが、現在の日本を形づくったということを忘れてはならない。以下では弥生~古墳時代の頃の日本と大陸の関わりに着目し、技術をいかに受け、いかに活かしてきたか、そして現在開かれている「港」について、どのようなことを目指しながら今後もあり続けていくべきかについて論じていきたい。

 弥生時代に普及した稲作は大陸から伝わったものであるし、この頃渡来人によって伝えられた鉄器や須恵器の生産、そして土木技術も日本の礎を築くきっかけとなった。米を作り人々に供給する食糧を増やそうと考えたとしても、ひとたび洪水に見舞われてしまえばそれはひとたまりも無くなってしまう。では、その後日本各地で米の生産高が伸びるようになり、国が徐々に繁栄の道をたどるようになったのはなぜだろうか。それは、人々が国全体の発展を願うことと同じくらい、それぞれの人々が自らの生活そのものがより良くなる術を考えていたからではないかと考える。危機から大切な財産を守ったり更に効率的に農業を行ったりすることのできるようなインフラを建設するために、他国に教わったノウハウを真摯に受け止め、活かしていくことができるか否かは、「人々自身がいかにそれを自分事として捉え、どのような生活を望んでいるかについて自らに問うことができるか」にかかっているのではないだろうか。

 人類ははるか昔から、技術が発展すれば発展するほど未来に大きな期待や祈りを抱いていた。乗り物一つとっても、「行きたい場所までもっと早く辿り着けたら良いのに」だとか「もっと遠くまで行ってみたい」、また「もっと大量に物を運べるようになってほしい」などというように、様々な望みを日々進歩する技術に託した人々が多くいたのかもしれない。もちろん、現代の我々のものさしだけで当時の人々の幸せや満足度を測ることはできないことは百も承知だが、誰かが社会のためになる何かを望んだり欲望を持ったりしないことには社会は前向きに進歩していかないことは確かだろう。

 国を強く勢いづけていくためには、それぞれの思い描く「社会の未来像」を明確にすることが一番の近道ではないだろうか。パナマ運河の建設に日本人としてただ一人で携わり、帰国後には荒川放水路工事に着手した青山士の人生のモットーは、 “I want to leave this world better than I was born.” であったという。このように、いつの時代にも向上心や野心、そして情熱を持って懸命に生き、後の世代を生きる我々に偉大な遺産を数多く残してくれた先人がいるのだということを忘れてはならない。また、「港」が外部に対して開かれている以上、より強固な繋がりを持った国家を目指すためには、人々やもの、情報がさかんに行き来する場を創出し、そこからまた新たな「港」が開かれていくことが必要であるだろう。それが「港」が果たすべき責務であり、先人たちの望んだ社会であるのではないかと私は考える。

参考文献:国土交通省「青山士~パナマ運河の技術を生かす~」https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000680371.pdf (閲覧日:2021年12月10日)

 


学生による論文(57)「港湾における日本船舶確保の重要性」天野 雄浩 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-17 08:51:21 | 教育のこと

「港湾における日本船舶確保の重要性」 天野 雄浩

 安定した物資の確保には、船舶輸送の存在が欠かせないだろう。国土交通省によると、日本の貿易量の99.6パーセントが船舶によるものであるという。また日本商船団は、日本の貿易のうち約66パーセントを占めている。このうち日本船舶は2割程度であり、そのほかは外国籍の船舶となる。日本船舶の確保は、諸外国の外航海運企業と対等な競争を行う環境づくりや経済安全保障上の観点で重要であろう。つまり、外国籍の船舶が多すぎる現状は、日本の港湾を考える上の課題の一つといえるだろう。

 日本の商船団の地位は相対的に下がってきている。世界の海運荷積み量が増加する中、日本の海運荷積み量は横ばいであるという。日本の海運大手3社の経営状況は厳しく、リーマンショックがきっかけで合併統合された。その後も2011年頃に顕著であった円高の影響もあり、中国や韓国といった周辺諸国との間で厳しい競争が見られた。世界的に見れば海運は成長産業であるから、港の再整備や日本船舶の海運輸送促進を今後も徹底して行うべきであると私は考える。

 日本船舶の海運は、日本国内の貿易や物資の輸送機能として重要な役割を持っている。安定的な国内船舶の確保によって、特に期待されている役割は次の2点である。

 1つ目は、日本船舶を軸とした港の運用をおこなうことで、緊急時でも国内の物資輸送機能を保つことが注目されている。海外船舶に頼った港の運営は、大規模な災害、戦争等によって港湾機能低下が起こり得るからだ。例えば、1989年のパナマ危機では、アメリカでパナマ船の寄港が禁止された関係で、日本に穀物が届かなくなった。1995年の阪神淡路大震災では、神戸港で岸壁沈下やクレーン倒壊が起こり、一時利用できなくなったことがきっかけで外国船社を諸外国の港にとられてしまった。2011年の東日本大震災では、原発事故による風評被害で発災後の2か月間に41隻の外国船社が京浜港への寄港を取りやめたという。非常時に安定した物資の輸送を支えるのは、日本の船舶であると私は考える。

 2つ目は、日本の貿易機能の活性化につながることが注目されている。日本船舶は、LNG船やコンテナ船等多くの種類の船舶において日本国内の造船所と密接にかかわっており、造船所にはさらに国内の多数の中小企業が関係している。こうした多くの企業では、船舶の造成に加えて新型船舶の研究や船舶改良の研究も行っている。造船業は日本の他に韓国や中国のシェアも大きくなってきており、現在日本は厳しい状況にある。日本船舶の需要を保つことで、国内の造船所やそれにかかわる多数の中小企業の機能を保つことにつながり、日本国内の貿易機能を維持することにもつながるだろう。

 このように日本船舶の存在は、国内貿易を支える重要な要素である。一方で、船舶を含む港湾施設というものは、日本船舶の重要性を認識させにくくする課題があると私は考える。

 港湾というものは、陸で生活をする私たちにとって普段から身の回りにありふれたインフラ施設とは言い難い側面があり、すなわち物流の恩恵を感じ取れる機会が非常に少ない。また、港湾施設の多くが関係者以外立入禁止で、内部の機能が外側から見えづらいことも要因であろう。大学で土木に触れている私でも、港湾についていえば、時々夜景の撮影地を目指して港に寄る機会があったときに、港湾道路は大量のトラックがひっきりなしに出入りしているという印象を持つ程度である。講義を受けながら、過去にインフラに詳しい私の先輩が高速道路とトラックと物流について語っていたのを思い出して、ようやく港湾の大切さに気づくことができる程度であった。専門の仕事をする方々にとって、私のような一般の方々の認識の甘さは、港湾施設や日本船舶の重要性を伝える上で大きな障壁となるだろう。

 日本船舶は1980年以降2008年まで減少を続ける中で、日本人船員もまた4万人近くから2000人程度にまで減少した。他のインフラ施設でも取り上げられる後継者問題が、港に関わる船員、造船の技術者などの方々においても同様に存在する。したがって港湾施設の方々を中心に、一般の方々に伝わりにくい港湾施設の重要性を発信しながら、「人材育成」をどのように行うのかということを考える必要があるだろう。日本の後継者問題が示唆するものは、「人材育成」の重要性なのかもしれない。

 日本船舶の数、日本人船員の数は2009年以降、前年までとは一転して増加傾向にある。これは、国が日本船舶の数を増やすための税遇措置をとり、制度を整え始めたからである。日本人船員の数も目標が掲げられて回復傾向を見せている。このように日本船舶を推進していく動きが、今後日本の港湾施設にとって必要不可欠なものであると私は考える。

参考文献
・港湾・海運を取り巻く状況の変化、国土交通省、2019-2-21、2021-12-10閲覧、https://www.mlit.go.jp/common/001274231.pdf
・外航海運の現状と取り組みについて、国土交通省、未詳、2021-12-10閲覧、https://www.mlit.go.jp/common/001235547.pdf
・外航海運の現状と課題、国土交通省、未詳、2021-12-10閲覧、https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001348307.pdf
・外航海運の現状と外航海運政策、国土交通省、未詳、2021-12-10閲覧、https://www.mlit.go.jp/common/001353024.pdf
・海事レポート2019について、国土交通省、未詳、2021-12-10閲覧、https://www.mlit.go.jp/maritime/maritime_tk1_000083.html



絵本「コンクリートってなに?」

2021-12-15 15:43:26 | 教育のこと

福音館書店から、「たくさんのふしぎ」シリーズの通巻442号として、「コンクリートってなに?」が出版されました。

文章は私が担当し、見ごたえのある絵を小輪瀬さんが描いてくれました。ぜひ、お手に取って読んでみてください!

以下は、絵本の内容が何となく想像できる紹介文章です(誰が書いたんでしょう。。。)

「絵本では,身の回りのコンクリートに目を向けることから始まり,コンクリート工学・コンクリート構造の基本的な知識や,工場の設備の詳細・建設機械の活躍が,精巧に描かれた絵により大変に分かりやすく説明されている。読み進めるうちに,技術開発された多様なコンクリートが様々なインフラに活用されていることが分かり,インフラが社会生活を支えていること,古代ローマの歴史,技術者のイノベーション,耐震補強や維持管理の重要性,環境負荷低減の重要性など広範なテーマに興味を誘う秀逸な構成となっている。」



国交省の品質確保の試行工事に関する講習会、動画公開

2021-12-15 13:09:35 | 研究のこと

11月26日に開催した、コンクリート構造物の品質確保の試行工事に関する講習会ですが、すべての講演の動画を公開しました。

講演資料もダウンロードできるよう、現在整備中です。

協働で努力を継続していきたいと思います。


学生による論文(56)「ローマの先人たちに学ぶ」秋田 修平 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-10 10:22:08 | 教育のこと

「ローマの先人たちに学ぶ」秋田 修平

 ローマ帝国の東西分裂から1600年以上のとても長い年月が経過した今、我々は改めて「ローマ帝国」という大帝国を築き上げた先人たちから多くのことを学ぶべきではなかろうか。恐らく、この日本という国の中で、ローマ帝国の歴史について詳細な知識を持ち合わせている人はそう多くはないであろう。もれなく、私もその一人である。しかしながら、歴史についての知識をあまり持ち合わせていない私のような人間であっても、当時のローマ人の考え方など、多くのことをローマの先人たちから学ぶことができるのではないかと思う。

 そこで今回は、ローマの先人たち(以下、ローマ人)から我々が学ぶべき「考え方」について、当時の土木事業(特に道路建設事業)などを基に考察したい。

 我々がローマ人から学ぶべき考え方の例として、私は2つの考え方について述べたいと思う。

 まず1点目であるが、「常に複数の選択肢をもつべきである。」という考えである。この考え方は、アッピア街道に代表されるローマ帝国時代に張り巡らされた複雑な道路網に窺うことができる。対して、現代の日本社会を目を向けると「複雑」なものはどうしても拒絶されがちであるように思われる。東京の地下鉄を例にとると分かりやすいであろう。東京の地下鉄網は、ローマ帝国の道路と同様に東京中に血管のように張り巡らされている。恐らく、地方や海外から来た人にとって、この複雑な地下鉄網はかなり厄介なものとして捉えられるだろう。では、この地下鉄網、近くを通る路線は全てまとめてしまえば良いのであろうか。少し日々の生活を思い返して欲しい。「振替輸送」という言葉を耳にしたことはあるだろうか。都市部で生活している人であれば、一度は耳にしたことがある言葉であるように思われる。ここで重要となるのが、「都市部」でよく耳にする言葉であるという点である。実は、鉄道による振替輸送は鉄道網が発達している都市部でこそ成せる業なのである。振替輸送とは、列車に運転見合わせ等が発生した場合に他の鉄道会社に依頼して、お客さまが使用されている振替輸送対象の乗車券で、運行不能区間を他の経路によりご利用いただくもの*1であり、「他の経路」が存在するからこそ利用できる制度なのである。つまり、一見複雑で利用しにくいように見える都市部の地下鉄(鉄道)網であるが、事故や設備のトラブルが発生し、一つの経路が断たれてしまった際には我々に大きな恩恵をもたらすものなのである。このように、平時には、複雑で時には無駄に捉えられてしまいがちな交通網であるが、非常時には大きな威力を発揮するのである。そして、ローマ人たちは複数の選択肢をもつべきだという考え方に基づいて、紀元前の時代に複雑な道路網を作り上げたのである。我々もこの考えを学び、非常時のことにも目を向けて複数の選択肢を用意できるようにしたいものである。

 2点目は、「正しい投資は十分に行うべきである。」という考えである。こちらの考えは、直線的な道路であるアッピア街道が銀貨も鋳造されていない時代につくられていたことに窺うことができる。決して平坦でない土地に、直線的な道路を通すには橋梁の建設など莫大な費用がかかるものである。しかし、このような道路建設をローマ人は銀貨をも鋳造さされていない時代に成し遂げたのである。このことから考えるに、やはりローマ人は講義で紹介された「インフラは経済力の向上のためにも必要なものであり、その建設費用への投資は十分に行うべきである。」という考えをもっていたと捉えてよいように思われる。つまり、「正しい投資」を行うことで、その投資を大きく凌駕するだけの利益を得ることが出来るというように考えており、その結果として歴史上に名を残すほどの国を作り上げることが出来たのではなかろうか。現在の日本社会を生きる我々は、このような「正しい投資」の重要性を再認識するべきなのではなかろうか。

 以上のように、ローマ帝国という1つの大きな国を作り上げたローマ人から、我々は多くのことを学ぶべきであるように思われる。

 ここからは、この論文を執筆するにあたり私が抱いたある種の感想になるが、土木には何百年、何千年前の人々の考え方を現在の人々に伝えるという歴史伝承的な役割があるのではないかと思った。万里の長城に代表されるように、土木工事によって作られた施設や構造物、土地の地形は、そのストック効果を存分に発揮し、我々の寿命よりも遥かに長い期間、その土地に存在することになる。そのため、その設計などから当時の人々が何を重視して、どんな目的を持って構造物を作ったのかという設計思想を後世に色濃く残す遺構ともなりうるように思われる。先人たちのご尽力によって作られた土木建築物をきちんと維持管理していくだけでなく、その建築物を分析して当時の思想や考え方を学ぶことにより、そのストック効果はさらに高めることができるのではなかろうか。

参考文献
*1 阪神電車 振替輸送のご案内
https://rail.hanshin.co.jp/guide/eigyou04.html
(2021年12月3日参照)


学生による論文(55)「難所との闘い」渡邊 瑛大 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-10 10:20:55 | 教育のこと

「難所との闘い」渡邊 瑛大

 日本は急峻な地形を切り開いて道路網を発展させてきた。特に、東海道(国道1号)の箱根峠や小夜の中山、鈴鹿峠や、上越国境の三国峠、中山道の碓氷峠は有名な交通の難所であり、古くから人々の交流を妨げる交通網の障壁となっていた。そして、自然による交通網の障壁を取り除くために日本人は土木技術を磨いてきた。そして、国家の大動脈を形成するために高速道路が建設され始めてからは、その難所さえも容易に通過できるようになり、やがてはその難所を克服したのである。こうした事例は日本には数多く存在するが、東北自動車道と北陸自動車道の整備は、特定の地域だけでなく、広範囲にわたってその効果をもたらした。

 まずは、東北自動車道の効果について述べる。この道路が開通する以前は、奥州街道(国道4号)が東北地方の主要な縦貫軸であったが、道の状況は常に良い状況ではなかった。また、奥州街道の県境には国見峠や奥中山峠などの険しい道もあり、県内で経済権を持っていたため、県境間の移動はそこまで活発ではなかった。しかし、東北自動車道が開通して以降、県境間の移動が大幅に増加し、地域間の交流が活発になった。より具体的には、福島―宮城間の交通量は約9倍に、宮城―岩手間の交通量は約11倍に、岩手―青森間の交通量は約5倍に増加した。これは、道路開通によって新鮮な農作物や魚介類などの輸送が可能になり、物流の輸送の大きな影響を受けた結果であると考えられる。こうして東北自動車道は、東北地方を支える唯一の軸としての役割を担い、北関東や東北の発展に大きく寄与した。

 次に、北陸自動車道について述べる。この道路が開通する以前から、福井、石川、富山からなる「北陸三県」は石川県を中心に強い結びつきがあり、昔から経済的にも文化的にも交流が盛んであった。しかし、北陸道(国道8号)には、倶利伽羅峠や親不知などの難所が存在し、一般道だけで移動するには相当な時間がかかることが長距離移動の大きなネックとなっていた。また、陸路で関西地方から東北方面へ向かう場合、これまでは東京を経由していく必要があり、遠回りになってしまうため、北陸地方はアクセスの悪い地域となってしまっていた。そのため、北陸自動車道の開通は北陸地方の活性化に大きく貢献した。例えば、金沢と新潟の移動時間は従来の移動と比較すると約4時間30分も短縮された。また、北陸自動車道は、関西地方から日本海側を通って東北方面へ向かう際の最短経路となるため、県内だけでなく県外の交流もこれまで以上に盛んになった。こうして北陸自動車道は、国土を開発していくための新たな大動脈として北陸エリアだけでなく、日本全体にとっても重要な道路になった。

 このようにして、高速道路は日本の全国各地の様々な効果をもたらした。移動の所要時間が大幅に短縮されたことで、市場が拡大し、多くの地域の経済が発展した。また、アクセスが向上したことで、観光客が増加したり、沿道への工場の誘致によってその地域に雇用機会が創出されたりして、地域の活性化につながったことも挙げられる。こうした恩恵が受けられるのは、交通の難所を精巧な土木技術で切り開くことで、国家の大動脈が形成されたことにある。したがって、我々は土木技術を究めた先人たちへの感謝を忘れてはならない。

参考文献(2021年12月3日閲覧)
NEXCO東日本「東北自動車道整備効果集【全体版】」
https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/agreeable/08a/tohoku_exp30.pdf
NEXCO東日本「北陸道の整備効果」
https://www.e-nexco.co.jp/activity/agreeable/hokuriku30/imp_effect.html

 


学生による論文(54)「全ての『道』は土木に通ず」 宮内 爽太 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-10 10:19:28 | 教育のこと

「全ての『道』は土木に通ず」 宮内 爽太

 本日の講義内で紹介された、塩野七生さんの『ローマ人の物語』では、ローマ人はインフラについて、「人間が人間らしい生活を送るためには必要な大事業」だという。すなわち、私たちが日々当たり前のように行っている日常生活は、インフラ、そして土木によって支えられているということだ。この考えは古代ローマの時代に限らず、現代の日本においても通用することだと考えられるが、それに気づくことができているのは国民のほんの一部だけだ。これまでの論文でも、この土木の重要性については何度も述べてきたが、今回もまたその重要性について、ありとあらゆる「道」を軸に論述する。

 ところで、現代においてその「人間らしい生活」とは何か。例を挙げるとするならば、衣食住が最低限揃っていることや風呂やトイレなどの衛生環境が整っていることなどであろうか。勿論、この「人間らしい生活」は人によって様々であり、人それぞれ生活に対するニーズも異なる。しかし、これらの「人間らしい生活」の本質には、いずれも土木が存在しているのだ。そこで、生活には常に土木が関与しているという事実の中でも、特にありとあらゆる「道」が基盤になって、私たちの生活を支えているということに気づいた。ここからは、その具体的な「道」の例を4つ挙げる。

 最初に思いつく「道」というと、やはり「道路」だろう。道路とは、車や人が通行するための道である。ひとえに道路と言っても様々な種類がある。高速道路や国道などの道路法の道路、都市計画道路、農道、私道など、数多くの種類が存在する。これらは紛れもなく土木の力によってつくられたインフラであり、私たちが家から一歩踏み出せば、そこはもう土木によってつくられた空間である。また、道路は私たちを国内の隅々にまで移動することを可能にしている。まるで人間の体内に張り巡らされた毛細血管のように、小さな道路が各家の目の前にまで延びている。これは当然のことなのかもしれないが、こういうところで本当に土木の凄さが感じられる。ただ、これが自動車を普及させてしまっている、モータリゼーション社会の原因なのかもしれないが、今回はそのことは議論しないでおこう。

 次に「線路」について。線路とは、電車が走るための「道」である。一見、「道」という字がはいっていないため、思い浮かばないかもしれないが、線路も立派な道である。前回の論文でも述べたように、鉄道は車と同様に生活に必須の移動手段であり、遠く離れた場所であったとしても、早く快適に移動することができる。また、災害時には道路と同様にリダンダンシーとして、道が多ければ多いほど、被災地への到達手段が増えることになるため、緊急時においても非常に重要な役割を果たしてくれるということについても、これまでに述べてきた通りだ。また、私は鉄道旅行が好きで、目的地のその街を歩くということまでを含めて好きなのだが、これこそ余暇活動という人間らしい生活である。この活動の中にも、鉄道や歩いている道路といった「道」が、私の生活を支えてくれている。

 そして「水道」について。水道とは、水の通り道であり、これまでとは打って変わって、私たちがその道を使って移動するということではない。ここでは、水道を上水道と下水道の大きく2つに分ける。水道水などの飲用水を供給する上水道は、川やダムなどの水源から浄水場を経由し、綺麗な状態になって私たちの各家庭や学校、オフィスなどへと送られてくる道である。一方で下水道は、生活排水や産業排水などの汚水を処理し、綺麗な水へと戻す道である。炊事をするためには水が必要であり、風呂やトイレを使う時にも水が必要である。そして、使われた綺麗な水は汚水となり、また綺麗な水へと変わる。このように、先に述べた人間らしい生活の例である衛生環境の充実には、土木の力が必須なのである。道路や線路とは異なり、家から一歩も出なくとも毎日使っている「道」であるから、道路以上に当たり前のものになってしまっていると懸念される。大切なことは飲水思源。水を飲むときには、水源・土木のことを思い出し、感謝して欲しいものだ。

 最後は「電線」について。電線とは、電気が伝送される道であり、インターネットや電話などの通信用電線も含まれており、今やこの情報化社会においては欠かせない「道」である。電線は、日常生活はもちろんのこと、今この時代には欠かせなくなってしまった、遠隔でのコミュニケーションをも可能にしている。また、電線は道路だけではなく、先に述べた鉄道においても、気動車でない限り、電車や新幹線が走る線路には電線がある。私たちが鉄道で移動することができるという議論の大前提には、この電線の存在を忘れてはいけない。さらに、この電線を繋げるためには、コンクリートで作られた電柱が必要である。電線という「道」は、やはり土木の支えがあって成り立っている。また、景観のために電線を地面に埋める「電線の地中化」にしても、まちづくりという観点から考えれば、やはり土木が関わっている。

 さて、ここまでしつこく「道」と土木の関わり合いについて述べてきたが、これらの他にも多くの「道」は存在する。総じて言えることは、ありとあらゆる「道」は、土木とは切っても切り離せない関係になっているということだ。さらに言えば、この「道」が途絶えてしまうと、私たちは真っ当な日常生活を送ることができなくなってしまうのだ。目の前にある「道」の存在を当然のこととは思わず、有難いものと考えて、人間らしい生活を送ろうではないか。

 ところで、私が考える土木の目的とは「強い国土を築き、国民の生活を豊かにすること」だと捉えている。この一つの目的に対して、目的を達成するための手段となる「道」は、上で述べたように様々であったとしても、目指す目的は同じである。まさに、「全ての道はローマに通ず」である。

 最後に、「千里の道も一歩から」ということわざがあるように、まずは私の身近にあるこの土木史と文明の講義で、先生から正しい知識を吸収し、そこで得られたものをこの論文を通して自分のものにし、このように土木の重要性を世に訴え続けたい。そして、将来的には、土木の力で国土に様々な「道」をつくり上げ、強い国土を築き、国民の生活を今以上に豊かにできるよう、土木の道を究めたい。ローマは一日にして成らず。さあ、始めよう。

 


学生による論文(53)「現代の日本人にとっての「生きやすさ」のあり方を、古代ローマの土木事業から考える」  松尾 祐輝 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-10 10:09:41 | 研究のこと

「現代の日本人にとっての「生きやすさ」のあり方を、古代ローマの土木事業から考える」  松尾 祐輝

 講義のスライドで紹介された「ローマ人の物語」第10巻では、古代ローマ人が確固たる思想のもとアッピア街道を作った話がつづられていた。私はこの古代ローマ人の思想を聞いて、生き方の本質をついているように感じ、現代の日本人や身の回りの人の思想とは大きく違うことに気づいて驚いた。レポートでは、古代ローマ人の作ったアッピア街道にまつわる話をまとめ、その後現代の日本人の思想の特徴を古代ローマと対比しながら考察し、現代の日本人にとっての「生きやすさ」のあり方について考えを述べる。

 アッピア街道は直線かつ勾配の少ない40数kmの部分をもつ街路であるが、古代の地勢や生活環境から見てそれを実現するのは相当の困難を伴うことが予想される。古代ローマ人は、道路や公共事業に対して「道路とは、可能な限り早く目的地に着くためのものである」「公共事業とは、堅固で長持ちし、機能性に優れ、それでいて美しいものである」という思想を持っていた。このような思想だけを見ると、頑固で柔軟性に欠けるものに思われるかもしれないが、実際の古代ローマ人は頭を柔軟に使って多様な状況に対応している、ということが事業の成熟度から容易に想像できる。むしろ、このような一本の思想は物事の本質を明確化しているように思える。この後古代ローマ帝国はメインテナンスの欠如という現象によって衰退に追い込まれるが、それでも敷設から800年経っても機能が維持されている。これだけの長期間にわたって道路が維持されているのは、当時の敷設者の相当の努力・思考と高い技術があったからであり、まさに上記の本質がなければなし得ないことである。また、メインテナンスの欠如について、本の著者である塩野七生氏は「それを担当していた組織が機能しなくなるから生ずる現象であり、国家が機能しなくなるということは個人にも影響を与えずにはすまない」と解釈しているが、これは後の現代の日本人における考察で重要な視点となる。

 では、現代の日本人の思想は、古代ローマ人の思想と比べてどのようなものであるか。まず、現代の日本は古代のローマに比べれば恵まれた環境にあることは間違いないだろう。当時よりも文明や産業が発展し、人口が増えて一人当たりの負担も減ったからである。しかし、この恵まれた環境は自立的思考にとっては罠であり、人を良くするように見えて、人をダメにする可能性を孕む。実際、現代の日本人の中で、古代ローマ人の道路や公共事業に対する考えのような確固たる思想を持つ人はどれくらいいるだろうか。電車の中で周りに配慮せずガヤガヤ騒ぐ高校生や、駅のホームでの案内放送を聞かずにスマホに没頭する大人などのふとした日常を見ていると、そう多くはいないだろうと思われる。電車内や駅のホームといった小さな社会ですら良くできない人がいるならば、現代の日本という大きな社会が良くなるとは思い難い。そして、上記のメインテナンスの欠如の解釈について、組織が機能しなくなり、個人も機能しなくなることのリスクを把握できている日本人はどれだけいるだろうか。そのリスク以前に、自身の組織の不機能を認知できていない可能性もあるのではないだろうか。特に、今の日本の政治家の中でそれに該当する人が全くいないとは思えず、そうなると現代の思想は古代ローマ人のような理想像とかけ離れたものになってしまう。確固たる思想を持つのは難しいにしても、恵まれた環境に甘えて楽をしすぎて、何かを自発的に学んだり考えたりして自立する力が衰えてしまうのは避けたい。

 生きやすい社会というものは人間が目指すべき一つの社会の姿ではあると思うが、その「生きやすさ」の意味には注意を要する。確かに手間を省いたり自動化したりして楽をすることは必要な技術であるが、それだけに終始して柔軟な思考力を衰えさせてはいけない。社会に生きる人の一人ひとりが柔軟かつ自発的な思考力をもつことで、社会はより良い方向に変わり、本当の持続可能な「生きやすさ」を得ることができるのである。そのためには、古代ローマ人のような熱い思想をはじめとする数々の歴史、そして過去を生きた人の生き様を学び、今の社会問題解決につなげていく積極性が必要である。その手間を惜しんでいる間は、豊かな社会とは程遠い。


学生による論文(52)「バンクーバーと日本は何が違うのか」 服部さやか (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-10 10:08:46 | 教育のこと

「バンクーバーと日本は何が違うのか」 服部さやか

 高校2年生の夏休みに、2週間ほどカナダのバンクーバーに語学研修に行ったことがあった。当時の私は土木という分野に関して大した知識もなく、興味があるとも言えないような人間だった。だが、都市計画というものに興味を抱き始めたのは確実にこの語学研修であると今は言える。それほどまでに、バンクーバーの街並みは整っていたのである。何がそんなに素晴らしかったのか。土木に関しては全くの素人であった私から見ても漠然と凄い、と思えるような都市とはどのようものなのか。今回はバンクーバーと日本の街並みを比較して、それに対する私の意見を論じていく。

 まず、当時の私が感じたバンクーバーの街並みの特徴を述べていく。私は、当時サレーというバンクーバーの中心市街地からは少し外れた場所に住むホストファミリーの自宅で暮らしていた。サレーはダウンタウンから伸びる鉄道の終点に位置する街であり、基本的にどこへ移動するにも車かバスを使用しなければならないような都市だった。幸いなことに私のホストファミリーは駅前に自宅を有しており、スーパーや少し買い物する程度の事は徒歩でも可能であった。このような環境で私が感じたのは、都市と自然が融合しているということである。自然が多い、では無い。都市と自然が融合しているのである。街の至る所に大きな公園が存在し、どこを見ても整備された大きな木が立っている。初めてバンクーバーの街並みを見たとき、なんだか空が広くて全てが大きい軽井沢のようなだなとも感じた。カナダにいる2週間の間、空が広いとずっと感じていた。カナダから帰ってきたあと、愛知県の長久手市に行った時に似たような感覚を覚えたが、基本的に日本は空が狭い。まあこの狭い国土に人口が集中しているのだから仕方の無いことなのかもしれない。また、小さな土地に多くを求める都市計画のあり方こそ日本の都市計画の特徴なのであるのかもしれない。それはさておき、とにかくバンクーバーは街が自然と融合し、美しい町であった。これが、無知ながらに私が感じたバンクーバーの特徴である。

 バンクーバーの街並みに衝撃を覚えた私は、大学に入って少しずつ専門的な知識を学びながら、何がバンクーバーをそこまで美しくしていたのかについて調べた。そこで私はバンクーバーが2020年まで行っていたサステナブルな取り組みについて知った。それは、Greenest city 2020というもので、2020年までにいくつかの分野において具体的な目標となる数値を打ち立て、政府、企業、市民が一体となって取り組みを進めていくというものであった。この取り組みの詳細を見て私は、あの美しさは努力で作られているものなのだと知り、強く納得した。例えば、Greenest city 2020の目標のひとつにもある、Access to nature。これは、日本語に直すと自然と融和した生活というもので、実際に私がバンクーバーで感じた街並みの特徴そのものであった。まさに都市計画の一環として進んでいた大きなプロジェクトが、市民や政府が協力することで成果として現れていたのである。私がバンクーバーを訪れたのが2018年の夏のことであることから、行われていた取り組みに対しての真剣さが伺える。

 ではバンクーバーは日本と何が一体違うのか。これは地理的な条件によって致し方のないことも生まれてきてしまうであろうが、まず確実に違うと私が言えるのは、政府と企業、市民の繋がりである。バンクーバーでは政府が打ち立てたプロジェクトを市民や企業がよく理解し、それに向かって積極的な姿勢を見せていた。これが日本には足りないのではないか。私たちはそもそも今日本でどのような政策が進められていて、それによってどのようなことをすべきなのかが全く理解していないように思える。これは政府側の問題なのか市民側の問題なのかははっきりとは言えないが、どちらにしろこの状況を作ってしまった要因が日本にはあるのだ。

 当たり前のことだが、どんな政策も打ち立てる側と取り組む側の協力がなければ成り立たない。もちろん国民性も違うし、バンクーバーにない日本だけの魅力もある。だが今私たちがバンクーバーから学べる事はあり、それを素直に受け入れる姿勢こそが前進の一歩だと私は感じる。