「論ずること、あるいは人生」 落合 佑飛
そもそもなぜ論じるのでしょうか。文章を書くことにはどのような効用があるのでしょうか。
我々は似たような人生を歩んできました。みな小中と先生のいうことをよく聞いて、あるいは勉強ができるからと斜に構えて、過ごしてきたでしょう。そこではほとんど自分の考えというものは無価値扱いされてきました。算数にも英語にも物理にも国語にも模範解答があったからです。我々の考えは、模範回答か否かに峻別されてきました。模範解答以外の答えは日常業務や部活動支援、保護者対応などさまざまなお仕事で忙しい先生にとっては厄介極まりない物であり、そうしたじゃじゃ馬の調教術こそ授業の秩序を最小限の労力で保つためには必要なものでした。勉強が塾でもっと先の分野を勉強しているからという理由などで授業内容が分かるからと斜に構えている児童・生徒は確かに厄介ではあるものの、静かな優等生という印象さえ先生に与えておけば成績もよかったでしょう。学校なんてそんな程度のものだったと、今なら思えます。5の数やAの数に一喜一憂していても仕方ない、大切なものはほかにある、とこのように今は思えます。
ただ、今回したいのは小中学校の批判ではありません。あるいはすでに受験のための通過点に堕している高校教育についでもありません。
私が今回述べたいのは、論じることについてです。
論じるとはどういうことか、既存の知恵に自分なりの考えを付与し、それを発表することです。自分の発言には責任を持ち、自分の誤りが明らかになればそれを正す、こうした営みをも包含する行為でなければ、本当に論じることにはなりません。匿名での罵詈雑言など、自分の発言に責任を持てないならそれは放言です。とるに足りません。
自分の中で熟成させ、本当に考えて突き詰めて論じていけば、そこにはその人の価値観や人となりがあふれ出てきます。同じ内容を述べるにあたっても、どんな言葉を使うか、どんな例を用いるか、どんな参考文献を持ち出すのか、こうしたところに個性が出ます。これらは教養とも言って差し支えないでしょう。
ただ、教養の一言では済ますことができません。教養は他人と比べた時には優劣の残る指標ですが、どのように記述するかは個性や人生の問題でどちらが正しいとかどちらが間違っているとか、あるいはどちらが望ましいという類のものでは無いからです。文章の端々に現れるのはその人のその人となりです。その人のそれまでの人生がそういう内容のことを書かせている。継続は力なり、と言いますが、人生の継続の結果に今の問題意識があり、この問題意識が私あるいはあなたという一個の人間に現在のこのような内容の論を書かせているのです。その点ですべての主張には下地があり、背景があります。そうしたことを考えてみれば、文章を書くということは誇張でなく自らの人生を開陳することなのです。文章に真摯に向き合っていればそういうことが分かるはずです。自らが価値あると思ったことを自分の時間を削り、自らの内面を抉り出して書いているのです。その点は小説でも論説でも学生が論じた文章でも変わりはありません。変わるのは技法と技量のみです。
私に言わせれば、文章を読めばその人の考え方の癖やどこに問題意識を抱えているのか、何を大切に思っているのか、どんな価値をもって生きてきたのか、こうしたことがうっすらと分かるような気がしています。
例えば、論文に毎回授業の内容から書いている人はこれまで優等生だったでしょう。課題=授業の内容から出されるモノ、という先入観がこの考えを規定していうと推察されます。一方で、授業の内容から全く関係ない文章を書く人は、自分に自信があるか、単に馬鹿なのか、あるいは本当にいろいろ考えてきた挙句あふれこぼれてしまったのか、こんなところではないでしょうか。もちろん、違う場合もあるでしょう。けれども当てはまっている部分もあるのではないでしょうか。たとえこれらの分析が頓珍漢だったとしても、少なくとも自分では分かるはずです。自分が道路のことばかり書いているなら、その人は道路が好きでしょう。GTPレースのことばかり考えているなら、その人は変わり者かもしれません。
しかし、中にはまったく感情を感じない文章もあります。一般論の焼きまわしに終始した文章のことです。あるいは前提条件ばかりを述べたり、ありきたりな話をした挙句「だから私は○○になりたい」のような薄い感想でまとめて終わったりする文章です。またこれまでの議論の軌跡を集めただけ、という文もこれにあたります。こういった文章は私のかつての文章の特徴をそのままそっくり引いてきたものですから、昔の自分が未熟だったということですが、こうした話は読んでも「へ~そうなんだ」以外の感想が残らないものです。私(その文章を読む人からすれば、あなた)は何を言いたいのか、の部分が欠けている。私に言わせればこれらの文はそのテーマについて論じたことになりません。授業の要約や無意味な感想、議論の集積は感情を外には出しません。そして、私はかつての自分を振り返ると自らの文章は論じるという観点では今一歩足りないものだったととらえています。
それはなぜか、それは文章を書くこと論じることが自分独自の新しい知見を加えた考えを他人に伝えるための営みだからです。これまでの蓄積から、あるいはその回の授業から何を感じ何を考えるのか、私自身の過去と将来、世界の過去と将来、我々はどんな将来を描くことで将来を拓いていけるのか、こうしたことを考えて文章にすることこそが必要だと考えます。そして、ここに設定した問題意識こそがその人の人となりを表すのです。根源的には悩みは個人に帰属するものです。なぜなら一般化された苦行やその他の経験もどれとして同じものは無いからです。そして唯一無二の経験を積み続けた我々、一人一人の人間が設定する問題は他のどの人とも一致しないものです。問うことは答えることですし、問うことは主張することですから、個人の持つ固有の考えは論じることを通じて滲み出るものなのです。
またこの営みは自分をも救うことになります。私は何に悩み、どこに問題意識を持っていて、どこでつまずいていたのか、こうしたことを整理するには論じることが何よりの処方箋です。そして、こういう場合には書いてから日が経っていたとしても自らの心の底の叫びがすぐ耳元で聞こえるかのように震えるのです。
さて、自らの考えが無い文章は論じるという観点からは今一歩足りないと述べているわけですが、仕方ない面もあります。その原因は小中高で自分の考えを聞いてもらえなかった点にもあるからです。あるいは日本語の語彙が足りなければ自分の感情や考えに形を与えることができず深い考察は不可能です。訓練と語彙が足りない我々若造には論じることは難しい作業です。
このような課題は文章を書くことがこれまでなかった人や、本を読む機会が少ない人には特に顕著なのかもしれません。勘違いしないでいただきたい、私は本を読まない人間が悪いと言いたいわけでもなければ、自分が優秀だと言いたいわけでもありません。
ただ、文章を読んだり、人の話を聞いたり、新しいものに触れたり、失望したり、感動したり、こうした経験をひとつずつ言葉にして行くことができれば私たちは人生をもっと豊かに語ることができます。自らの感情を深めることで自らを取り巻く世界をもっと色鮮やかに論じることができます。
そして、文章を書くことは世界のためにも自らのためにもなる行為です。自らの考えを通じて世界に新しい価値を残すこと、将来の自分が振り返った時に自分の思考の軌跡が見えること、この二点は世界にとって私にとって有用でしょう。
さてここまで、言いたいことは一つ。
「私たちは責任をもって堂々と言いたいことを言えばよい。その一言一言がその人の生き様である。」
論じることを考えるうえでは、このことを欠かすことはできないように思います。少なくとも私にとってはこう信じると決めた道でもあります。
追記
当然私の今回のレポートにも背景となる事象がある。例えばそれは下に挙げた参考文献にたまたま出会ったことにある。例えばそれは学友のレポートを読んだことにある。これらはみな個性的で素晴らしいものである。そしてそこにはその人の考え方が隠されている。自覚的であれ、無自覚であれ、文章の表に裏に現れる自らの言葉こそが自らの骨肉とっているものである。
また、この考え方の応用は本を読むときにも使える。文章を書いているすべての人間は人間である。だから個人的な人生を抱えており、そこにはひとかどの喜びと痛切な痛みを持った人間がいる。すべての文章はある目的と使命感によって書かれている。だから、我々はそこに一人の人間がいると、そこで叫んでいる人がいると、このように思って本を読むのである。つまり他人の言葉にも耳を傾けるのである。私のために、あなたのために、作者や話者のために。
参考文献
正しい本の読み方 橋爪大三郎