「批判批判論 ~GTPレースを題に~」 落合 佑飛
<目次>
私見と現実
至らなさの競争
君は役に立っているか
特権的批判
攻撃からの脱却
主張の流儀
私自身の問題
私見と現実
都市基盤学科の研究室選びのあり方に私は反対です。
この他にも、これまでも別の回のレポートなどで述べたように私自身が横浜国立大学に対して怒っている事象はほかにも大きく四つあります。
一つ、文学部がないこと。二つ、独自入試を実施しなかったこと。三つ、定まらないコロナ対策。そして最後が前述の都市基盤学科のGTPレースです。私はたった二年の在籍期間でこんなにたくさんのいやなところが目についてしまう横浜国立大学に辟易しています。失望しています。
しかし、大学はもはや義務教育ではありません。高校生や浪人生のように大学に行くためだけに勉強するわけでもありません。大学生は実質何をしていても自由です。大学生はもはや社会人であるといってもいいでしょう。実際多くの人がアルバイトやその他の関係を学校や家庭の外に見つけ出しています。多くの人が誰に言われるまでもなく皆が実行していることですが、大学生は与えられるのを待つのではなく、社会に対し労働や知財を与える側にもなっています。我々大学生は、もうすでに自らの希望達成に向けて自主的な努力を通じ自らの理想を勝ち取るべき存在です。そう考えた時に、上の四点の大学批判に意味があるのでしょうか。家の一室あるいは教室の片隅で大学の授業を受けながら、私がしている批判はどんな意味を持つのでしょう。
そもそも、私自身こうした四つの批判を通じて大学をどのように変えたいのかのビジョンが明確ではありません。ただビジョンや対案が無い批判は文句と同じではないでしょうか。私は大学の授業があることを前提にしたうえで大学を論じ、時に難じています。ただ、このことは大学というモラトリアム期間に最大限甘えつつ文句を垂れているだけです。私は私自身生み出何もさない存在であるにも関わらず、これまで卒業生やその他の形で価値を社会に提供してきている大学を批判することは許されるのでしょうか。
このように、何も生み出していない人間である私が、社会的承認を得て、実際に成果も残している横浜国立大学の制度に対して何か述べることにどれだけの価値、意味、正当性が残るのか、私には自信がなくなってきたわけです。
ただ、もちろん私も根拠なくただただ文句を言いたいわけではありません。また日々のうっぷんを晴らすために横浜国立大学をやり玉に挙げているわけでもありません。私にあるのは自分が学ぶ環境の好転を祈る気持ちです。そのような気持ちの中で制度を見つめていくと様々な納得できない点が発見できるのです。例えば都市基盤学科のGTPレースには多くの点で時代錯誤や大学の存在意義の認識の誤謬、学生の人間関係や精神状況、場合によっては生活まで壊しかねないリスクを抱えています。この制度は様々な点で至らないものだと私には思えます。ただ、この至らないことを指摘し続けるレポートや私の立場にどんな意義や正当性があるのだろうか、ということを問題にしたいのです。
至らなさの競争
100歩譲ってこのGTPレースが不当だとしてみましょう。それでも私はGTPレースは不当なものだから無くして欲しい、と主張することに正当性が無い可能性があります。
・そんなに大学の制度が嫌なら別の大学に行けば?
・文句言ってないで勉強しなよ。
・成果を出してからいいなよ。
今あげた三つの言いぐさはすべて実際に言われうるものでしょう。大学の制度は変わらなければならない、と声高に主張しても「そこら辺の適当な若者が自分を棚に上げてえらそうなこと言ってるよ」という評価を私はおそらく受けるでしょう。
大学の制度は確かに至らないとしても、それを主張する学生はもっと至らないと判断されることもあるでしょう。一般に学生の本分は勉学です。特に大学は任意の機関ですし、大学決定前には当時受験生だった学生に選択権があったので大学生は大学のそうした制度を理解したうえで、こういう大学だと分かったうえで入学しているべきだ、という指摘もあるでしょう。大学の制度をよく理解せず、いざ入ってみたら勉強すらしないで文句ばかり言っている私に相手を難じる資格はあるのか、このように考える人がいても不思議はありません。これがこの章のテーマでまさにこれこそが”至らなさの競争”です。大学の制度の欠陥の方が重症なのか、はたまた学生たる私の努力不足こそが最大の問題なのか、ここが至らなさの競争、下方へ延びる競争です。
実はこの議論、私が大学を批判する時以外にもよく見かけるものです。例えば会社の労働環境が最悪で、それを是正しようと声を上げた人がいたとします。この時、確かに会社側の制度には不備があるのかもしれません。しかしその他の大多数の社員、これまでにその境遇を乗り越えてきた上司たち、この人たちが今でも無事に会社に勤め続けているという点からみると、声を上げようとした人個人の能力ややる気の問題と矮小化されてしまうことがあります。あるいは、そんなにいやならその会社辞めればいいじゃん、という一言で一蹴されてしまうかもしれません。あるいは、世の中には働きたくても働けない人がいるのだから今ある境遇に感謝すべきだという指摘が入るかもしれません。こうした議論はすべて内向的、下降思考でしょう。本来このように声を上げられる人は会社にとってはイノベーションや働き方の改善に伴う従業員の就業意欲向上によって得られる増産につながる可能性もあると言えます。この下方への思考回路は今ある凋落の連続線から上昇に転ずるために必要な考えを排除してしまっているかもしれないのです。ですから、至らなさの競争は望ましい結果をもたらさないことが多いのでしょう。万一先の例のような問題提起があった場合には、頭ごなしに否定したり先に上げたような内向的かつ下降的な思考を採ったりするのではなく、提起者の提起に至るまでの道のりを聞き取り、より多くの従業員が幸せに就労でき、かつ顧客の満足を得られる方法を模索するべきでしょう。
そうはいってもやはりこの議論だけでは不十分でしょう。この議論は問題提起を受ける側のあり方に着目しているものですが、問題を提起する側が意識するべき問題もあると考えるためです。
君は役に立っているか
続いて紹介するのが私自身が、社会の役に立っていないにも関わらずすでに社会で認められている大学を批判することが許されるのか、についてです。
私は学生として大学に通っています。大学に通いながら大学の批判をすることは大学生という特権を振りかざしつつその親たる大学に牙をむくということです。この特権的批判の次の項で触れます。
これ以外にもこの項目を判断する材料として考えられるのが、私は学費を払っている、という考え方です。私は大学にお金を払っているのだから大学は私に最良なサービスを施すべきだろう、だから客たる私の意見に耳を傾け誠心誠意改善するべきだろう、という意見です。私はこれには明確に反対しておきたいと思います。まず一つ目、そもそも大学側も大学が望んだために”私”を客にしているわけではない点が挙げられます。続いて二つ目、大学とはそもそもサービスを提供する場ではなく教育機関であるから、店員と客のような関係は望ましくなく、大学では尊敬できる師やともに高め合える仲間を見つけるための場である。その点で学費は他の価値で吸収されており、大きな不便不自由が多くの学生に架かっている場合など特殊な例を除けば、大学にお金を払っていること自体がサービスの改善を強要する理由にはならないでしょう。最後に三つ目、サービスを受けるという姿勢そのものが望ましくなく、こういった思考に至ってしまうのは勉強不足だと考えられます。我々は社会を担っていく人間として、社会的エリートの責任を果たす必要があります。この考えは積極的に地域等のコモンスペースの負担や責任を負っていける人間になるべきだ、という考えに依拠しています。
以上、私たちが役立っているか否かやあるいはサービスの享受者として意見を述べることが許されるのかの考察でした。
特権的批判
アラブ世界の盟主として長く君臨していた国にシリア・アラブ共和国があります。2010年以降、この国でもアラブの春のあおりを受けて民主化の動きが活発になりました。ただシリアの場合はこの民主化の動きが局所的なものに限られたのが特徴でした。シリアは他の国とは違い、アラブ地域の盟主としてアラブ地域一帯の絶妙なバランスをシリアの力で保っていました。具体的には平和も戦争もない、という微妙な均衡を作り出していました。そしてこのアラブの環境は欧米諸国にとってもありがたい情勢であったため、確かにシリアは欧米諸国の価値とは合わない政治体制でしたが、その存続は欧米諸国の利益だったのです。こうした他のアラブの春とは異なる事情のため民主化が完全に進行することはありませんでした。こうした事情から次第に泥沼化していくシリア革命ですが、その最初に登場したのがこの項目で述べたい”特権的な批判”を繰り返す革命家でした。シリア革命のために他国から国民を扇動する役割を担ったのがいわゆるホテル革命家と呼ばれる人たちで、欧米諸国の後ろ盾を得た特権階級の人たちが自らは安全な他国に亡命しながらも市民に対し革命をするよう仕向けようとしたのです。当然この目論見は完全に失敗に終わりました。そもそも、彼らが欧米からの白羽の矢を立てられたのは彼らがシリア革命以前からいくらかの資産家であり、財力と影響力とを持っていたからでしょう。そうでなければ多くの国民からこうした人を選び出す必要もないですし、そもそも亡命に必要な資金も調達できなかったでしょう。ホテル革命家はかつては自らもアサド政権の特権的なあり方の恩恵を多少なりとも受けたおかげで今の地位を築いたにも関わらず、いざ革命がはじまると一目散に安全なところに逃げ込んでその特権の批判をしているのです。ホテル革命家は自らが特権の中にありながらもこうした特権を攻撃しています。自らの特権を大事に抱えつつもその特権を批判するというのは自分で自分を殴っているようなもので、いよいよ不可思議な行為と言えるでしょう。その特権が嫌なら自分では放棄したうえで戦えばいいのです。
そして私は今、大学の批判をしています。しかし私はその大学に属する学生です。そこまで大学が嫌いであるならば、不満があるならば出ていけばいいのではないですか?シリア革命時のホテル革命家たちのような怯懦で卑怯なあり方に自らを貶める必要はありません。大学が嫌いなのであれば辞めればいい、大学生というあるいはモラトリアムという最大の特権を捨ててからその特権を提供している大学にモノを申すのでなければフェアではないのではないでしょうか。
特権の中にありながらその特権に対し批判的に述べることはもはや批判ではなく攻撃です。
攻撃からの脱却
しかし、私は弱い。私はこの特権を放棄して大学ののど元に刃を向けることができるほど肝は据わっていないし、そうしたことができるだけの能力もない。そんな私が単なる大学攻撃から建設的な議論へと自らの論を昇華させるにはどのようにしたらいいのでしょうか。
それに対する答えは対案を出すこと、なのでしょうか。現在の問題に対して自分は問題意識を抱えているとします。こうした場合、現在の問題に対して攻撃以外の方法で意見を表明することができるのは対案があるときか前項でも述べた自らがその特権から離れた時だけなのでしょうか。確かに対案は批判したい事物があった時にそれを批判する根拠を与えるものです。対案のない批判は「なんとなくいやだ」といった領域を出ない可能性があり、これはもはや批判ではなく攻撃です。その点、対案があれば「現行の制度に対して私の対案はここが優れている。だから私は現行制度が望ましくないものだと考える」といった方向で議論を誘導できるので対案を出すことは一つ有効な手段だと言えます。
しかし、私は大学のGTPレースがもし廃止になったとしても、自分の対案がこれから先の多くの学生に対して素晴らしい物にできる自信はありません。対案の提供には一つにその制度やその周辺の事柄について詳しくなくてはならないことも多く、対案の提供に高い専門性と責任が求められる例も少なくないと言えます。
けれども究極的には人は何かに依拠しなくては意見を発表することはできません。この点で人々はそれぞれ特権的であり、その人固有の利害やこだわりで意見を述べています。つまり、多くの場合私たちは批判を攻撃ととられないための意見表示の方法が必要であり、つまり対案の提示が必要なのです。もちろん議論の重さやどれだけ特権を得ているかによって対案が必要ない場合もあるという指摘もあるでしょう。ただ対案の提示を批判とワンセットで考えると、批判が攻撃ではなくあくまでも批判であることを担保するものになります。
実は、私自身なるべく対案を示せるように心がけてこうしたレポートに取り組んでいました。ずっと述べているように大学という特権の中にありながら何か意見を述べるということは世間知らずな攻撃であるように思えるからです。
しかし、対案を産むことができないときもあります。さて、対案を示せない批判はすべてゴミくずなのでしょうか。
対案の尽きた先にある意地
意見を言いたい。しかし自分の実力では対案を示すことができない。こうした事態に陥っているのが例えば私の主張するGTPレースの不完全さの指摘です。私の能力では学科の授業の望ましいあり方を構築し披露して改善していく、という対案の提示の過程を踏むことができません。一方でこれまでの議論で対案のない批判はもはや攻撃であると述べてきました。これまでの議論では残念ながら対案を生み出すだけの能力を持たない人が出す意見は攻撃か文句のレッテルを貼られても仕方がないと言わざるを得ない状況となりました。けれども実際問題多くの人は対案の提示まではできないのではないでしょうか。我々に分かることはせいぜい目の前の生活をしていく中で自分が何に困っているのかを明らかにすることくらいではないでしょうか。対案が無い考えが単なる文句に過ぎないのなら、高度な問題に至った時には手も足も出ないことになっていまします。
では私は対案を出せないけれども批判をしたいとき自分に意見があるときにはどうしたらいいのでしょうか。こういったことは許されないのでしょうか。
私の考えでは、対案が無くともどうして自分の考えていることが実現していないのかを十分に考察していれば、対案がある批判よりは劣るものの文句としてではなく意見として届けられると考えます。
例えばGTPレースのどこが悪いのか、を紹介するにあたって、自らが考える理想の大学を構想するのが難しいのであれば、どうして今までGTPレースが存続できていたのかに注目することで自分の意見が単なる思い付きではないことを少しは示せるのではないでしょうか。すなわち、相手の主張にも耳を傾けることが大切だということです。意見の違う他者も敵ではないことも多いでしょう。私たちはむしろそれぞれの意見の違いを洗い出し、それぞれを認め合い、その中で納得できる落としどころを探っていくことが求められるでしょう。
別の例を引けば、新幹線建設が全国に必要だと考えたとしても、現状では建設や延伸はしていません。この事実に対してもし対案が無ければ逆にどうして新幹線が造られないのかを作らない側の立場に立って考えることが大切だと考えます。新幹線を造らない理由が技術面の課題にあるのか、財政的な問題にあるのか、はたまたすでに代替手段によって問題が解決しているためなのか、こうしたことの検討はむしろ新幹線を造りたいと考える側の人間こそするべきでしょう。
こうして考えていくと、対案を示すことができない場合でも、相手の立場を想像することによって「どうして自分の思い通りに物事が進まないのか」という問題でも解決の糸口を見出すことができるかもしれません。
これはもはや意地です。私の能力は足りていないけれどもどうしても伝えたいことがある場合の手段です。本来は対案を示せるほうがいいでしょう。けれどもそれができなかったときのための次善策として発想を転換することから議論を進めることも認めようよ、というのが私の意見です。
主張の流儀
以上、私自身の意見の主張の方法を検討するところから敷衍して望ましい反論方法についての検討をしてきました。批判をただの文句や攻撃のレベルに貶めることなく、自らの伝えたいことを適当に伝えるにはどうしたらいいのかを述べてきました。
最後に触れたいのはプロフェッショナルはいない、ということです。日本の教育制度は学生に対し、間違うことの恐怖心を浸み込ませています。自分が相手から間違っていると思われることは怖いことですし、実際間違いが多い人から大学受験に失敗します。
けれども、そんな中だからこそ私はこの世にプロフェッショナルはいない、と言いたい。すべての人間が様々な局面で判断を誤ります。そしてそれを正そうとするのが批判の営みでしょう。確かに一方的な攻撃は望ましくありません。避けるべきです。けれども、先に上げたようなある所定の条件を踏んでいるのならむしろ積極的に批判を繰り広げるべきだと思うのです。批判によって新たな考えを知り、物事を新たな地平へと到達させる力があると信じます。
勇気をもって一つ発信するところから世界をよくすることができるのであれば、素晴らしいことです。誰もが間違っているのだ、という前提に立って少しずつ自らが正しいのでは?と感じることを主張できると素晴らしいだろうと感じます。
私自身の問題
ここまでいろいろと述べてきました。けれども私のGTPレース批判にどれだけの正当性があるのかはやはり難しい問題が残ります。私がこの生意気なレポートを先生に投げることができるのは私自身が先生方に甘えているからだ、という点は見逃せません。先生に甘え、特権を掴み、それでも批判してしまう私がいます。せめて批判が攻撃にならないよう、自ら自らに目を光らせておく必要があるでしょう。
また、私はこのGTPレースの批判について、どこへでも行って説明するぞ、という覚悟を私の良心のために決めておこうと思います。
参考文献
『シリア情勢 ー終わらない人道危機』 青山弘文
『岐路の前にいる君たちに 式辞集』 鷲田清一