関ヶ原鍾乳洞の前には
入り口付近には
「玉倉部の清水」(日本武尊居醒清水)と呼ばれる湧き水が…
「古事記」によると、2000年ほど前、日本武尊が伊吹山に荒神がいると聞き、退治しようと山に出掛けたところ、荒神が降らせた氷雨の毒気にあたり、高熱に病まれて山を下りていたそのとき、この清水が湧き出ていたのをみつけ、それを飲んだらたちまち回復したとか…
日本武尊が飲んだからといって、あれから2000年も経っているので、さすがに飲みたいとは思いませんでしたが…笑
だって、「岐阜の情報GIFU NET」には
※生水の飲用は自己責任で行ってください。飲用にあたり問題が生じましても一切の責任を負いかねます。
なんて記されているしね…
で、さらにここからほんの1~2分の徒歩圏内
「関ヶ原鍾乳洞」に向かう道の途中でみつけたのが
負の遺跡である「旧日本陸軍の火薬庫跡」
正式名称
「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」跡
東洋一の火薬庫とも呼ばれていた、この「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」
日本武尊に始まって「壬申の乱」や「関ヶ原の戦い」など、歴史でも、なんども舞台となったこの地は、山に囲まれた盆地であり、交通至便、その割に住民が住んでいるのが少なくて、なにか不慮の事故が遭った場合でも、被害が最小限で防げることもあってか、陸軍が玉村の土地を買収して、弾薬庫は1914年に開設したとのこと…
「名古屋陸軍兵器補給廠関ヶ原分廠」
は、山腹を掘った洞窟式倉庫がいくつか残っているようで、弾薬に使用する火薬を大量に備蓄していたとのこと…
その倉庫が、「関ヶ原鍾乳洞」に向かう道の途中に残っている…
一つ目の火薬庫はシャッターが降りてて、扉が固く閉ざされていました…
シャッターは、当時のものではないことはすぐわかる!!
でも、もう一つの火薬庫は、シャッターなぞなく、中が覗けるような感じになっていて
雪の中、進む!進む!!
でも、一応ここまでで、入っていけないように柵が
もちろん、入りたくない!!入りたくない!!
きっと、こいつが潜んでいるに違いない…
こいつが、羽ばたいたら、タマラナイ!!
でも、カメラを望遠にして…カメラを望遠にして…
覗き込む!!覗き込む!!
おお、真っ暗で、なにもみえないじゃないか!!
でも、でも、ぜったいに…こいつらはいるはず!!
まあ、埃っぽいのに、こんなのが一斉に羽ばたいたらタマラナイ!!
手前にあったのが立哨台(りっしょうだい)
ここで戦時中、火薬庫内の監視、警戒にあたる歩哨(兵士)が、昼夜交代で立っていた電話ボックスのよーな建物
これで、見張れば、すぐに敵も発見でき、戦争に、あっしょうだい!!(圧勝だい!!)と思って造られたのでしょうか
いやあ、こんな狭くて、かつ夜風の冷たさが身に沁みるこの関ヶ原の気候の中で、まっ暗な夜中にも立ち続けて、見張ってるなんて…こんな雪が深々と降る中でも、暖をとらずに立っていたのでしょう??だって、薪をすれば人の気配でばれちゃうし…
もう狭くて中には、人が一人しか立てないようなほどの狭さで…
いやあ、世界中の戦争をしたがってる国のお偉いさんが、ここで3日間立ち続ければ、誰一人として、そんな気持ちはなくなると思うのに…
私は、20秒で、この中にいるのがイヤになりました!
きっとそのことがりっしょう(立証)できるから、りっしょう台(立哨台)???
なんて、しょーもないオヤジギャグを思いつきながら、この過ちが2度と繰り返されないことを願いつつ
ここら辺を散策すれば、まだまだ火薬庫が他にもあるようだし、案内看板をみたら、すぐ近くの小山の方には、日本武尊が腰かけたと言われる「腰掛石」もあるようですが…
雪が…御覧のように…
また雪解けの頃に、行くことにしようと思いながら
立哨台(りっしょうだい)を後に
きっとこれを造った時、日本軍は、りっしょうだい…もとい…ひっしょうだい(必勝だい)…と思っていたでしょうし、あっしょうだい(圧勝だい)と思っていたのでしょう…
火薬庫のチョットした事故で、りっしょうだい…もとい…ふしょうだい!(負傷だい!)と叫んだ兵士もいたことでしょう
心から、今後このような出来事が再現されることは、りっしょうだい…もとい…まっしょうだい(抹消だい)!!!
最後に、このオチがしまらないこのブログこそ
りっしょうだい…もとい…しっしょう(失笑)だーい!!