寺山修司著『啄木を読む』は一冊の本にまとめられているが、
実際は、他に、「太宰・中也を読む」や、「鏡花を読む」
「乱歩・織田作之助・夢野久作を読む」「江戸を読む」も
収録されていて、一冊丸ごと啄木論ではない。
そういう、嘘つきなところも含めて、寺山らしいと言える。
この本の中で、一人の歌人で一つの時代の青春を
代表させることができたのは啄木までだった、と説き、そうした意味では、
啄木は「最後の歌人」であり、以降、啄木以上に歌人らしい
歌人は出現しなかったと、寺山は言う。
少年時代の啄木は、「ふるさとを愛しながら、ふるさとにいることが
できない」という矛盾に悩まされていた、と寺山は言う。
その点では「誰か故郷を思わざる」を書いた寺山も同じだった。
都会に出て、改めて思い出す、故郷とはそういうもの、という
寺山の強烈な家出論に通じるふるさと観である。
啄木の「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば
指のあいだより落つ」という歌を挙げて、故郷の柱時計と、
故郷を出てさ迷っている自分の砂時計の対比を連想している。
「大いなる彼の身体が憎かりき その前にゆきて物を言う時」という歌の
大いなる彼の身体とは、やがて来る次の時代を指していると彼は言う。
「われ泣きぬれて 蟹とたわむる」情景を詠んだ啄木は、
自分の悲しみを愛していた。その啄木を、憧れを隠しつつ、寺山は見ていた。
恋人にわれは昭和の啄木と胸張って言う寺山の自負
実際は、他に、「太宰・中也を読む」や、「鏡花を読む」
「乱歩・織田作之助・夢野久作を読む」「江戸を読む」も
収録されていて、一冊丸ごと啄木論ではない。
そういう、嘘つきなところも含めて、寺山らしいと言える。
この本の中で、一人の歌人で一つの時代の青春を
代表させることができたのは啄木までだった、と説き、そうした意味では、
啄木は「最後の歌人」であり、以降、啄木以上に歌人らしい
歌人は出現しなかったと、寺山は言う。
少年時代の啄木は、「ふるさとを愛しながら、ふるさとにいることが
できない」という矛盾に悩まされていた、と寺山は言う。
その点では「誰か故郷を思わざる」を書いた寺山も同じだった。
都会に出て、改めて思い出す、故郷とはそういうもの、という
寺山の強烈な家出論に通じるふるさと観である。
啄木の「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば
指のあいだより落つ」という歌を挙げて、故郷の柱時計と、
故郷を出てさ迷っている自分の砂時計の対比を連想している。
「大いなる彼の身体が憎かりき その前にゆきて物を言う時」という歌の
大いなる彼の身体とは、やがて来る次の時代を指していると彼は言う。
「われ泣きぬれて 蟹とたわむる」情景を詠んだ啄木は、
自分の悲しみを愛していた。その啄木を、憧れを隠しつつ、寺山は見ていた。
恋人にわれは昭和の啄木と胸張って言う寺山の自負