10月11日(土)
谷川岳に登った翌日、道の駅「水上町水紀行館」での朝。
▲ 昨日とはうってかわって、雲一つない晴天だ。
さあもう一度、谷川岳のふもとへ行こう。
きのう気づいたのだが、谷川岳へ行く国道291号の途中に音楽が流れるメロディーラインの個所があった。
道路を走ると芹洋子の「四季の歌」が流れてくるのだ。
尾瀬に行ったときは、「夏の思い出」の道路だった。
♪夏が来れば思い出す・・は当然として、谷川岳はなぜ「四季の歌」なのだろう。
それは、四季折々の自然豊かで情緒あふれるところ、だからだそうだ。(水上町HP)
なるほど。
ちなみにこの四季の歌、秋の歌詞のところは、
秋を愛する人は、心深き人
愛を語るハイネのような ぼくの恋人 ♪
いいねー。
追想は70年代へ ・・・
さあ、今日はどうするべ。
今日はトマ、オキの耳の頂上はパノラマの展望がまちがいなく開けている。
見たいが、だからといってまた登るというのはキリがないというか、満足することを知らないというか
抵抗がある。それに、リフト代だってタダではないのだよ、とか考えて今日は次のコースにしよう。
▲ 昨日は図の左端のロープウェイに乗って、天神平から天神尾根を右に登って、トマの耳、オキの耳へ行った。
そして、何も見えずに(涙)同じ道を戻ってベースプラザまで下りてきた。(谷川岳山頂登山コース)
今日は、山のふもとを歩いて行ってあの有名な一ノ倉沢の岩壁を見てくるのはどうだ。
(一ノ倉沢岩壁トレッキンングコース) 赤線
これなら、昨日の体験と重複せずに今日のスーパー晴天を楽しめる!!
決まり!
8時半ごろに、ベースプラザ前の舗装道路を少し上にあがったところから出発!
▲ ここからは、車両は通行禁止だ。
今日は雨の心配はないし、なによりも平地のトレッキングだけだ。
ポールも置いてきた。一番小さいリュックの中は、ペットボトル3本とレーズンクッキー3個だけしか入ってない。
昼前に戻ってくるだろうから弁当も持ってない。
身も心も軽やかスタートだ。
▲ 小さい子供もお母さんに連れられて歩いていく。
朝の木漏れ日がいっぱいの道だ。
▲ 天気が悪くても登山はそれなりの楽しみ方があるという。そうだとも思う。
しかし、アウトドアはやはり天気が良いと、全てが光輝いてきて、全てが良くなるのも事実だ。
そう、今日の日みたいに。
今感じるこの軽やかさ、解放感も、自分が今健康で自分の足で歩けるからだ、と思うと目頭があつくなってくる。
ハイキング道の右側は、ふかーい谷になっている。湯桧曽(ゆびそ)川が流れている。
▲ そして谷をはさんだ向こうには山並みが広がる。
真ん中の頂上に切れ目が入ったように見えるのが白毛門(しらがもん)1720mだ。
出発から30分ほどすると最初の沢に出会う。
▲ マチガ沢だ。この辺りには、昔数軒の宿があった。越後から清水峠を越えて夕暮れ時に疲れて降りて来たとき、灯火を目にして「ああ、町が見える」と喜んで発した言葉が、マチガ沢の由来だとか。
▲ 電気バスがきた。愛称 "倉ちゃん”。一ノ倉沢までは倉ちゃんバスが1時間毎に1本走っている。
ただし歩行が困難な方のため走らせているので、健常者は乗れない。
あ、何かが見えてきた。
▲ 一ノ倉沢だろうか。
▲ おおーつ! 一ノ倉沢だ。
ここの掲示板には次のように書かれていた。
「当地方の方言で岩や岩壁のことを『クラ』と呼んでいますが、この岩場は、世界でも最も登攀の困難な岩壁の一つに数えられ(グレード6級)、日本アルプスの剣岳、穂高岳とともに日本三大岩場として知られており、谷川連峰随一の岩場であることから『一ノ倉』と名付けられています。」
▲ もっと近づいて見てみよう。見るだけならいいだろう(笑)。
この正面の大きく切り立った岩壁をズームすると、
▲ この岩壁は、衝立岩(ついたていわ)正面壁だ。ロッククライミングするには「超」級の難所。
ここで1960年に滑落事故発生。遺体のままこの岩壁にザイルロープで宙吊りになっているのが発見された。しかし二次遭難の危険が高くて宙吊り遺体を下ろすことができず。自衛隊の狙撃部隊が1300発の銃弾をザイルの接地岩に打ち込んでザイルを切断、遺体を収容したという。
もう一つ一ノ倉沢で有名な遭難事故は、1943年の9月に二人が遭難したが死体が行方不明に。30年後の1973年に偶然登山者が白骨体を岩場で発見。ポケットの10銭硬貨から1943年の遭難者と判明。
ここは恐いのです。
けれど、恐いものみたさでもう少し近づいてみよう・・・
▲ 危険と書いてあった看板を無視して、沢の方へ一人上がっていく。
▲ 上部の方は、ナメ状の川と小さな滝が交互に続いているようだ。
さらにもう少し登って、少しでも雪渓のところまで行きたいと思ったが、岩場を滑り落ちると川に落ちる。
水深も1m以上はありそう。立ちはだかるのは大きな岩。身をささえる足場がなくドボンの危険あり。
で、止めた。オレは沢登りに来たわけではない。(できない)
▲ これが一番沢に近づいたショット。でもあの雪渓のところまで行きたかったな。
▲ 一ノ倉沢出合い近くの岩壁には遭難者を悼むレリーフが何枚か貼ってある。
▲ 青いヘルメット
白いヘルメット
いつか逢わん あのテラス
桐生の山岳会が28歳と26歳の仲間を悼んでだ (S43)
一ノ倉沢を後にして、さらに進むともう一つの沢に出合う。
▲ 幽の沢 だ。
「ゆう」とは、岩穴のことだ。このあたりには岩穴が多いようだ。
ここにもレリーフがいくつか岩壁に埋め込まれていた。
▲ 両君の青春は永遠なり か・・
24歳と17歳か。みんな早く青春の途中で逝ってしまったんだ。
一ノ倉沢とか幽ノ沢での遭難はその典型なのだが、実は谷川岳全体で遭難事故数はとてつもなく多いのだ。
1931年(昭和18年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2012年までに805名の死者が出ている。この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定されている。
谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しいため遭難者の数が多くなるらしい。
実は(小さい声で)、谷川岳は「魔の山」「人喰い山」「死の山」とも呼ばれる。
それでも首都圏から近いから、春夏秋冬、皆さん登りにくるのだよなー。
(今日の朝なんか土曜日だからベースプラザで乗車券売り場は何重もの列ができてたよ)
当初は、一ノ沢倉までと思っていたのだが、幽ノ沢まで足を運んでしまった。
掲示板を見ると、次の「芝倉沢では、深山幽谷の絶景が待っています。」なんて書いてあるじゃないか。
こんなのを見ると行かなくては。
▲ 進むとこんな掲示がぶら下がっている。道が崩壊している?
いいじゃないか、じゃあ崩壊手前まで行ってみよう。
この山道は、実は国道なのだ。水上町を通ってここまで続いている国道291号の延長にある。
地図上では、国道といっても舗装整備されていないから点線表記になっている。
この点線表記国道は、馬蹄形の形をした谷川岳連峰の馬蹄形の頂上部の清水峠を越えて、新潟県入りして六日町の方面に続く。
昔は、291号点線国道をちゃんとした道にする計画もあったらしいが、土合(群馬側)と土樽(新潟側)を※JR清水トンネルができて(1931年)、自動車用関越トンネルもできて(1985年)、苗場を通る三国街道も整備されると、点線291号国道は忘れ去られた存在になってしまった。
※「国境の長いトンネルを越えるとそこは・・」(「雪国」1935年)はこのJR清水トンネルのことだ。
▲ 点線291号を歩み進むと、山側に石垣が出てくる。点線国道を崩壊から守るための試みの跡だ。昭和44年(1969年)完成の標柱があった。
さあ、着いた。
▲ 芝倉沢 標高1000m。
ここまで来ると点線国道は完全に消滅。けもの道になっていた。
▲ 沢には小さい堰止め滝があった。
その上に、もう一つの滝がある↓。
▲ 堰止めの上部はコンクリートの平面になっていて、そこから水が柔らかく滑り落ちていた。
左端で、登山者が一人たたずんでいた。
さあ、ここを今回の沢めぐりトレッキングの終点としよう。
ここでUターンしてベースプラザまで戻る。
戻る途中で、一ノ倉沢手前から湯桧曽川沿いに降りる。
往路を旧道とするなら、川沿いの道は新道とされている。
▲ 新道と言っても舗装されているわけでもなく、旧道崩壊リスクに備えてもう一つ山道を並行して作っただけだろう。
▲ 新道のすぐ横が湯桧曽川・河川敷だ。
こんなところにテント張ってキャンプでもいいなあ、と思ったがおとっとー。
この谷川も実は「魔の谷川」なのだ。
だいぶ前になるが、ここでキャンプをした子供たちが集団で流されてしまったのだ。
上流で雨が降ると、鉄砲水という形で突然この川に瞬時に大量の水流が押し寄せるのだ。
今日は大丈夫だろうが・・。
▲ 新道の様子もわかったので、マチガ沢の手前で再度旧道に上がった。
700mから800mへの標高差だ。今日はこれっぽっちの登りで楽だ。
帰り道、正面の山は白毛門。左端の三角状の山は、朝日岳か笠ヶ岳。
▲ ベースプラザ正面に午後1時半過ぎに戻ってきた。
何も食べてない。歩いている道すがら戻ったら、カツカレー大盛りを食べたいと思っていた。
しかし、ここのレストランはうどんとそば2品しかなかった!(涙)
じゃ、帰りサービスエリアで食べよう。
となると、撤収は早い。
▲ プラザ1階の屋外駐車場。さあ、帰ろう。
▲ 上里SAで、念願のカツカレー大盛りを食べる。
陽がもう傾いている。
気持ちの良い日だったよな。
自宅へは午後6時過ぎに無事到着。
総走行距離 325 km
了
谷川岳に登った翌日、道の駅「水上町水紀行館」での朝。
▲ 昨日とはうってかわって、雲一つない晴天だ。
さあもう一度、谷川岳のふもとへ行こう。
きのう気づいたのだが、谷川岳へ行く国道291号の途中に音楽が流れるメロディーラインの個所があった。
道路を走ると芹洋子の「四季の歌」が流れてくるのだ。
尾瀬に行ったときは、「夏の思い出」の道路だった。
♪夏が来れば思い出す・・は当然として、谷川岳はなぜ「四季の歌」なのだろう。
それは、四季折々の自然豊かで情緒あふれるところ、だからだそうだ。(水上町HP)
なるほど。
ちなみにこの四季の歌、秋の歌詞のところは、
秋を愛する人は、心深き人
愛を語るハイネのような ぼくの恋人 ♪
いいねー。
追想は70年代へ ・・・
さあ、今日はどうするべ。
今日はトマ、オキの耳の頂上はパノラマの展望がまちがいなく開けている。
見たいが、だからといってまた登るというのはキリがないというか、満足することを知らないというか
抵抗がある。それに、リフト代だってタダではないのだよ、とか考えて今日は次のコースにしよう。
▲ 昨日は図の左端のロープウェイに乗って、天神平から天神尾根を右に登って、トマの耳、オキの耳へ行った。
そして、何も見えずに(涙)同じ道を戻ってベースプラザまで下りてきた。(谷川岳山頂登山コース)
今日は、山のふもとを歩いて行ってあの有名な一ノ倉沢の岩壁を見てくるのはどうだ。
(一ノ倉沢岩壁トレッキンングコース) 赤線
これなら、昨日の体験と重複せずに今日のスーパー晴天を楽しめる!!
決まり!
8時半ごろに、ベースプラザ前の舗装道路を少し上にあがったところから出発!
▲ ここからは、車両は通行禁止だ。
今日は雨の心配はないし、なによりも平地のトレッキングだけだ。
ポールも置いてきた。一番小さいリュックの中は、ペットボトル3本とレーズンクッキー3個だけしか入ってない。
昼前に戻ってくるだろうから弁当も持ってない。
身も心も軽やかスタートだ。
▲ 小さい子供もお母さんに連れられて歩いていく。
朝の木漏れ日がいっぱいの道だ。
▲ 天気が悪くても登山はそれなりの楽しみ方があるという。そうだとも思う。
しかし、アウトドアはやはり天気が良いと、全てが光輝いてきて、全てが良くなるのも事実だ。
そう、今日の日みたいに。
今感じるこの軽やかさ、解放感も、自分が今健康で自分の足で歩けるからだ、と思うと目頭があつくなってくる。
ハイキング道の右側は、ふかーい谷になっている。湯桧曽(ゆびそ)川が流れている。
▲ そして谷をはさんだ向こうには山並みが広がる。
真ん中の頂上に切れ目が入ったように見えるのが白毛門(しらがもん)1720mだ。
出発から30分ほどすると最初の沢に出会う。
▲ マチガ沢だ。この辺りには、昔数軒の宿があった。越後から清水峠を越えて夕暮れ時に疲れて降りて来たとき、灯火を目にして「ああ、町が見える」と喜んで発した言葉が、マチガ沢の由来だとか。
▲ 電気バスがきた。愛称 "倉ちゃん”。一ノ倉沢までは倉ちゃんバスが1時間毎に1本走っている。
ただし歩行が困難な方のため走らせているので、健常者は乗れない。
あ、何かが見えてきた。
▲ 一ノ倉沢だろうか。
▲ おおーつ! 一ノ倉沢だ。
ここの掲示板には次のように書かれていた。
「当地方の方言で岩や岩壁のことを『クラ』と呼んでいますが、この岩場は、世界でも最も登攀の困難な岩壁の一つに数えられ(グレード6級)、日本アルプスの剣岳、穂高岳とともに日本三大岩場として知られており、谷川連峰随一の岩場であることから『一ノ倉』と名付けられています。」
▲ もっと近づいて見てみよう。見るだけならいいだろう(笑)。
この正面の大きく切り立った岩壁をズームすると、
▲ この岩壁は、衝立岩(ついたていわ)正面壁だ。ロッククライミングするには「超」級の難所。
ここで1960年に滑落事故発生。遺体のままこの岩壁にザイルロープで宙吊りになっているのが発見された。しかし二次遭難の危険が高くて宙吊り遺体を下ろすことができず。自衛隊の狙撃部隊が1300発の銃弾をザイルの接地岩に打ち込んでザイルを切断、遺体を収容したという。
もう一つ一ノ倉沢で有名な遭難事故は、1943年の9月に二人が遭難したが死体が行方不明に。30年後の1973年に偶然登山者が白骨体を岩場で発見。ポケットの10銭硬貨から1943年の遭難者と判明。
ここは恐いのです。
けれど、恐いものみたさでもう少し近づいてみよう・・・
▲ 危険と書いてあった看板を無視して、沢の方へ一人上がっていく。
▲ 上部の方は、ナメ状の川と小さな滝が交互に続いているようだ。
さらにもう少し登って、少しでも雪渓のところまで行きたいと思ったが、岩場を滑り落ちると川に落ちる。
水深も1m以上はありそう。立ちはだかるのは大きな岩。身をささえる足場がなくドボンの危険あり。
で、止めた。オレは沢登りに来たわけではない。(できない)
▲ これが一番沢に近づいたショット。でもあの雪渓のところまで行きたかったな。
▲ 一ノ倉沢出合い近くの岩壁には遭難者を悼むレリーフが何枚か貼ってある。
▲ 青いヘルメット
白いヘルメット
いつか逢わん あのテラス
桐生の山岳会が28歳と26歳の仲間を悼んでだ (S43)
一ノ倉沢を後にして、さらに進むともう一つの沢に出合う。
▲ 幽の沢 だ。
「ゆう」とは、岩穴のことだ。このあたりには岩穴が多いようだ。
ここにもレリーフがいくつか岩壁に埋め込まれていた。
▲ 両君の青春は永遠なり か・・
24歳と17歳か。みんな早く青春の途中で逝ってしまったんだ。
一ノ倉沢とか幽ノ沢での遭難はその典型なのだが、実は谷川岳全体で遭難事故数はとてつもなく多いのだ。
1931年(昭和18年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2012年までに805名の死者が出ている。この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定されている。
谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しいため遭難者の数が多くなるらしい。
実は(小さい声で)、谷川岳は「魔の山」「人喰い山」「死の山」とも呼ばれる。
それでも首都圏から近いから、春夏秋冬、皆さん登りにくるのだよなー。
(今日の朝なんか土曜日だからベースプラザで乗車券売り場は何重もの列ができてたよ)
当初は、一ノ沢倉までと思っていたのだが、幽ノ沢まで足を運んでしまった。
掲示板を見ると、次の「芝倉沢では、深山幽谷の絶景が待っています。」なんて書いてあるじゃないか。
こんなのを見ると行かなくては。
▲ 進むとこんな掲示がぶら下がっている。道が崩壊している?
いいじゃないか、じゃあ崩壊手前まで行ってみよう。
この山道は、実は国道なのだ。水上町を通ってここまで続いている国道291号の延長にある。
地図上では、国道といっても舗装整備されていないから点線表記になっている。
この点線表記国道は、馬蹄形の形をした谷川岳連峰の馬蹄形の頂上部の清水峠を越えて、新潟県入りして六日町の方面に続く。
昔は、291号点線国道をちゃんとした道にする計画もあったらしいが、土合(群馬側)と土樽(新潟側)を※JR清水トンネルができて(1931年)、自動車用関越トンネルもできて(1985年)、苗場を通る三国街道も整備されると、点線291号国道は忘れ去られた存在になってしまった。
※「国境の長いトンネルを越えるとそこは・・」(「雪国」1935年)はこのJR清水トンネルのことだ。
▲ 点線291号を歩み進むと、山側に石垣が出てくる。点線国道を崩壊から守るための試みの跡だ。昭和44年(1969年)完成の標柱があった。
さあ、着いた。
▲ 芝倉沢 標高1000m。
ここまで来ると点線国道は完全に消滅。けもの道になっていた。
▲ 沢には小さい堰止め滝があった。
その上に、もう一つの滝がある↓。
▲ 堰止めの上部はコンクリートの平面になっていて、そこから水が柔らかく滑り落ちていた。
左端で、登山者が一人たたずんでいた。
さあ、ここを今回の沢めぐりトレッキングの終点としよう。
ここでUターンしてベースプラザまで戻る。
戻る途中で、一ノ倉沢手前から湯桧曽川沿いに降りる。
往路を旧道とするなら、川沿いの道は新道とされている。
▲ 新道と言っても舗装されているわけでもなく、旧道崩壊リスクに備えてもう一つ山道を並行して作っただけだろう。
▲ 新道のすぐ横が湯桧曽川・河川敷だ。
こんなところにテント張ってキャンプでもいいなあ、と思ったがおとっとー。
この谷川も実は「魔の谷川」なのだ。
だいぶ前になるが、ここでキャンプをした子供たちが集団で流されてしまったのだ。
上流で雨が降ると、鉄砲水という形で突然この川に瞬時に大量の水流が押し寄せるのだ。
今日は大丈夫だろうが・・。
▲ 新道の様子もわかったので、マチガ沢の手前で再度旧道に上がった。
700mから800mへの標高差だ。今日はこれっぽっちの登りで楽だ。
帰り道、正面の山は白毛門。左端の三角状の山は、朝日岳か笠ヶ岳。
▲ ベースプラザ正面に午後1時半過ぎに戻ってきた。
何も食べてない。歩いている道すがら戻ったら、カツカレー大盛りを食べたいと思っていた。
しかし、ここのレストランはうどんとそば2品しかなかった!(涙)
じゃ、帰りサービスエリアで食べよう。
となると、撤収は早い。
▲ プラザ1階の屋外駐車場。さあ、帰ろう。
▲ 上里SAで、念願のカツカレー大盛りを食べる。
陽がもう傾いている。
気持ちの良い日だったよな。
自宅へは午後6時過ぎに無事到着。
総走行距離 325 km
了