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コロナの哲学 ~ コロナとは闘い?共生?共存?

2020年05月16日 17時31分00秒 | 新型コロナ

5月16日(土)

コロナとの闘いは「長丁場になる」とか、「第二波、第三波がこれから来る」とか、だから「新たな日常の行動様式」が必要だとか、つまりこのコロナ感染は簡単には終息しそうにはないという共通認識ができてきた

じゃあ、コロナは結局どうなるの、これは克服できるのという基本的な疑問を普通の人なら持つだろう。ボクもその一人で、コロナを考える見方とか、背景にある思想を考えてみた。雨で、ウッドデッキ作業もできないので(笑)。

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2月にコロナは中国武漢を席捲していたにも関わらず、インフルエンザの類と同じで時期がくれば収束すると米国と英国のリーダーは信じていた。

以下、NHKの BS1「世界が苦闘した4か月」から、当初「集団感染論」を実行した英国の事例を抜粋。

3月3日

英国のジョンソン首相は、定例記者会見で

「私は握手してますよ。先日病院を訪問した時は、

コロナウイルス患者もいたようですが全員と握手しました。これからも握手はやめませんよ。」

と、言い放ってコロナを警戒する素振りは見せなかった。この前々日の英国のコロナ感染者数は36人で、イタリアの50分の1だった。

3月12日に、初めてコロナ防衛の方針が発表された。

「あらゆる段階で我々は科学に基づいており 正しい時に正しいことをしていく」というだけで、外出制限とかの厳しい措置は無く、「コロナの症状がある人は家にいてください」というだけであった。

このジョンソン首相のコロナ思想そして政策を裏付けていたのは、バランスという首席科学顧問だった。ジョンソン首相のあとにバランスは専門家として補足説明をした。

「全ての人を感染から守るのは不可能ですし理想的でもありません。なぜなら(国民の多くが感染し)免疫をつける必要があるからです。このウイルスから自分たちを守るために免疫が必要なのです。」

と、集団免疫論をぶったのだ。この日の英国のコロナ感染者数は594名。

 

3月13日

さらに翌日、バランス首席科学顧問はBBC記者のインタビューで

「集団免疫獲得には国民の約60%が感染する必要がある」と発言し、記者からの「その場合あなたがいうように死亡率が0.5%から1%だとしたら、この国はとんでもなく多くの人が亡くなるということになるが」という質問に対して、

 

「もちろんそういう覚悟をしなければならない。それが現実だ」

と「科学的」に応えた。

この発言は当然大きな波紋を呼んで、501名の英国科学者が連名で発言撤回を求めた。世界最高峰の英インペリアルカレッジは、(集団免疫論を実行すれば)「医療体制の崩壊を招き25万人が死亡する可能性がある」と指摘をした。

3月16日には

ジョンソン首相は先の方針を撤回し、公立学校の一斉休校、パブ・レストランの閉鎖を要請し

3月23日には

不要不急の外出を禁止し、違反者には罰金を課すと宣言、極めて深刻な面持ちで ”YOU MUST STAY HOME" と英国民に訴えた。

この日の英国コロナ感染者数は5687名。10日間で10倍になっていた。

3月27日には

ジョンソン首相自らがコロナ感染者になった。

 

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しかし、3月当初には日本でもコロナを軽視・安心感があった。これはあるブロガーさんの記事から無断転用させていただく。

3月11日に、アベちゃんのアドバイザー「専門家会議」の尾身さんの説明

尾身さんは、さすがに「集団感染」が必要などとは言わないが、「この状況は年を越すかもしれない」と長期戦になることを示唆。

しかし、あるブロガーさんの受け取り方は

・来年になればコロナも普通のインフルエンザと同じ扱いになるとも言われてるいるし、致死率もインフルより少し多いくらいだから、そんな神経質にならなくてもいいか?

という軽い感想を述べておられる。

実際政治家でも、橋本徹はコロナの致死率は自動車事故死ぐらいだから

「感染症に強くなるためには、みんなが免疫を持つこと」とし、「元気な人たちが感染して抗体を持てば、集団免疫を持って落ち着く」と展開。そして、「重症化する人は守らなきゃいけないけど、元気な人は皆感染してもいいんじゃないの?」と持論を述べたのだ。3月5日

ご本人も3月24日に発熱されて、2週間「自宅隔離」されていたのは記憶に新しい。結局コロナだったかは不明。多分症状からして軽症コロナだった可能性が高いとボクはみる。その「発症」後は、さすがにナイーブな集団感染論はぶたなくなって、もっぱら政府の経済・救済策の不備を突くことに専念されておられるようだ。

あとは、トランプ大統領だな。彼も当初、「インフルエンザと同じだ」と楽観視して大感染を招き、中途から「これは戦争だ」と勇ましく転じたが、今も一人だけマスクをせずに諸会合に出ている。おそらく次は彼が一番危ない。

わがアベちゃん? 彼は給食用マスクを常にしているから大丈夫(笑)。

集団感染論をとりたがるリーダーは、精神的マッチョを気取るというか、強いリーダーを理想ていうか、ウリにする共通の精神構造を持っているように思う。

集団感染論は、これからも底流のごとくコロナ対策思想に表れてくるだろう。それは仕方がない。

しかし、やっかいなのは「コロナと共生」を説くしたり顔の共生論者だ。集団感染論をベースにしながらも、もっともらしい別の思想まで振りまくから面倒だ。

 

以下は、NHK ニュースウオッチ9の 5月8日から

 

山本太郎教授の論点は

1.過去の20年間を振り返ると、SARS、MERS、そして今回の新型コロナウイルスのように(ウイルス感染が)3回も出て来た。これは少し度を超えた頻度だ。

2.生態系への人間の無秩序な進出、地球温暖化による熱帯雨林の縮小、それによる野生動物の生息域の縮小によって、人と野生動物の距離が縮まってきた。それによって、野生動物が本来持っていたウイルスが、人に感染するようになってきた。それが、ウイルスが人間の社会に出て来た原因だろう。そうしたウイルスが出てきたところに、グローバル化があって、人口の増加、都市の出現で、人の移動が加わって、世界同時パンデミックに至ったと考えている。

3.個人的には、発展を至上とした価値観というのは、変わる時期に来ていたのかなという気がしている。必ずしも発展ということではなくて、環境の中において、我々が変わりながら常にそこに適応するというか、経済的な拡大とは違う価値観であるべきなんだろうという気がしています。

4.私たちが自然の中の一員である限り、感染症は必ず存在する。全面的な戦争をすることではなくて、人的被害を最小化しつつ、ウイルスと共生していくこと我々はウイルスの被害を最小化したいんですけども、ウイルスを我々の社会の中に取り込んで社会全体が免疫を持つことによって、社会自体が強固になっていく。そんな視点が必要なのかなと思う。

5.回避しなくてはならないことというのは人的被害をもたらすこと、あるいは、社会機能の破綻をもたらすことであって、感染症そのものが存在することではない。社会機能を破綻させなければ、我々はうまくつきあっていける可能性があるわけです。そのために、いまある知識あるいは技術を使っていくことが大切だろうと思っています。

共生論の「雰囲気」を知ってもらうために、少し長く引用した。

要は、動物の生態系を破壊したためウイルスとも共生せざるを得なくなった。よって、いまある知識、技術を用いて社会機能を破綻させないよう、うまくウイルスと付き合う必要がある。端的に言えばうまく集団感染することだ。

疑問点は

1.いわゆる自然破壊との因果関係を論じるのは必要か。武漢のウイルス研究所の管理が悪かっただけ? ゲテモノ食いを改めれば済むだけ? ではないか。

2.コロナとうまく付き合うという抽象的表現の具体的な行動が不明。3密を避ける?外出自粛?(笑)

3.「共生」とまで言う必要があるか。医療現場での治療薬・ワクチン開発の意欲をそぐ結果、大衆の行動変容せねばという意欲をそぐだけの結果にならないか。「共生」と表現することによって、過酷な集団感染論をオブラートに包もうとしているのではないか。さもなくば、グリーンピース的な自然保護を主張したいだけではないのか。

ああ、言っちゃった。3番が一番ひっかかるところ。

そもそも、この「共生」というワードが、「ふれあい」と同じく、ボクにはなぜか非常に胡散(うさん)臭く聞こえるのだ。コロナと「ふれあい」の「共生」・・最悪だな(笑)

で、ウイキペディアで「共生」を調べてみた。

「共生とは、複数種の生物が相互関係を持ちながら同所的に生活する現象。共に生きること。」

もとは生物学の言葉だ。共生には、利害の有無をメルクマールにして

相利共生、片利共生、片害共生、寄生の4タイプがある。共生の例としてよく紹介される魚のクマノミとイソギンチャクの関係は、クマノミはイソギンチャクに守ってもらいイソギンチャクはクマノミの食べ残しにあずかることから相利共生。人間とウイルスの関係は寄生だろう。従来、異種生物間の関係は、捕食ー被捕食関係か競争関係と捉えるのが主流で、共生関係は稀な関係ととらえがちであった。しかし、生物学が進むにしたがって、共生はもっとよくみられる現象として理解されてきた。それと同時に「共生」という種間関係は相利共生や寄生といった関係をすべて含む上位概念として生物学では今使っている。その意味では寄生ウイルスも「共生」と呼ぶのは正しい。実際、体内に潜むウイルス、病原体、細菌等、も人間が元気な時は何も害を与えないが、免疫力を弱めると途端に牙をむき、狂暴な「寄生」者に変貌して重篤な病状を引き起こす、このような関係を「共生」と呼ぶのは適切だろう。

しかし一般社会ではふつう、お互いが利益を得ているような関係をイメージして「共生」という言葉を使っている。殺伐とした現代にあって人々は「共生」という言葉を多方面に使い始めている。「多文化共生」「男女共生」「地域共生」等々。建築家の黒川紀章は、最晩年に「共生新党」なるものを結成して政界への進出を試みた(笑)。これ「ふれあい」の流行と同じ当時の文化的文脈だ。

「共生」という言葉のまとう理想的、ユートピア的なイメージに幻惑されないほうがいい。「コロナとの共生」アホか。

山本太郎教授は、文化的なイメージでのコロナ「共生」を言っているのではなかろう。人体に入り込んだコロナという意味だけで生物学的な意味で「共生」という概念用語を使ったのだと信じたい。だったら、理想的なイメージをまとってしまう「共生」というワードより「共存」という言葉を使ったらいいのでは、と思い至った。

したら、したらである。山中教授がもう使っていた!

これまた他のブロガーさんが、ウイルスとの「平和的共存」ということで山中先生の説を紹介していた。

 

「“闘い”ではなく“共存”へ」

ノーベル賞受賞者・京都大学山中伸弥教授

4月23日 NHK「 おはよう日本」 桑子真帆キャスターのインタビューで

「僕も最初は“ウイルスとの闘い”という表現を使っていたんですが、いまはもう使っていないんです。“ウイルスとの平和的共存”だと思っています。このウイルスを完全に世の中からなくすことは不可能ですので、いかに人間社会が受け入れるかが求められています。 この数か月できるだけ人と人の接触を避けると。こういう努力を数か月続けて上手に上手にウイルスに入り込んできてもらえれば、大きな被害を受けずに共存できるんじゃないかと思います。その後も全く昔のように自由というわけにはしばらくはいかなくて、ある程度の我慢、ある程度の工夫が必要です。それははおそらく1年、もしかしたら1年以上続くかもしれません。」

彼も集団免疫のソフトランディングを目指している。先の山本教授が、「共生」タームを用いて自然保護的な主張も意図したのとは違って、山中先生の意図は、あまり「ウイルスとの闘い」と強調しすぎると院内感染を防ぎ切れなかった医療従事者へ過度の批判が募り、逆に医療崩壊を招くのではという懸念から「共存」タームで大衆の忍耐の気構えを促したようだ。

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今後の展望

コロナに対する治療薬、そしてワクチンが開発されれば問題はない。集団免疫も必要はない。しかし開発に時間はかかりそうだし、エイズ同様にワクチンは不可かもしれない。

開発に遅延が続いたときの懸念

1.むき出しの集団感染必要論の台頭

⇒ 大衆の自粛行動放棄→感染スパイラルの発生→医療崩壊

2.抗体保持者と非保持者の2極分断・差別の発生

今後抗体検査が進み、人々の抗体保持・非保持が明確になる

抗体保持者 ⇒ 行動・経済制限の撤廃を要求

非保持者 ⇒ 抗体獲得のためにあえて3密行動へ

社会分野での感染リスクのない抗体保持者の重用。少数者となった非保持者の切り捨て。

 

今日のBBCから

今、英国では介護施設の感染者の広がりが問題になっている。この男性は介護施設から認知症の母を一時的に引き取った。

「私はコロナ患者でしたが回復して抗体もあるので、安心して母を守れると思い引き取りました」 コロナ事情はここまで来ている。コロナ感染が続けば続くほど、抗体保有者は社会的に優位者になっていく。

 

ボクの考えすぎで終わればよいが・・

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最後にコロナ標語余話を

英国首相がメッセージを放送するときは、壇上の上にコロナ標語がいつも掲げられていたが・・

STAY HOME ⇒ PROTECT NHS (医療体制を守ろう)⇒ SAVE LIVES

 

5月10日の外出制限を段階緩和するとの発表時には

STAY ALERT (警戒を解くな)と

CONTROL THE VIRUS (コロナをコントロールしよう)に標語が変更されていた。

コロナとの戦争でもないし闘いでもなくて・・とにかく警戒しよう、そしてコロナをコントロールしていこうの長期戦、 長丁場を見据えた標語に変更された。

横文字がお好きな小池都知事も、早速、東京アラートと昨日はメディアで連呼していた

ちなみにボクの好きなコロナ標語は、NEW NORMAL だ(笑)。いろんな諸制限の中でも、リスクバランスを考慮して、自分ができることを追求していくのだ。

さあ、明日は晴れ。

ウッドデッキ作成に戻るか。