生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
22.法華寺(国分尼寺)
法華寺は、天平時代に国分尼寺として創建され、律令期には繁栄しましたが、平安末期からは、動乱によって、次第に寺勢が衰えました。
寛永2年(1625)に現在の引地山に移転しました。
法華寺というのは法華滅罪寺の略した称号です。
創建当初は、現在の小学校校庭の西南隅にあったと言われ、そこには、多くの布目瓦と礎石が埋まっているということです。
法華寺は、真言律宗(真言宗西大寺派)で本尊は十一面観音像であります。(阿弥陀仏座像は、市指定有形文化財)
既存の報告書を参照願います。
久し振りに、小中学校(隣接している)の裏にあるお寺山に行ってみました。
生家の菩提寺でもあります。
この石段はここ十数年に出来たものです。
子供の頃にはありませんでした。
その頃はこちらに石段があったのですが、今は坂になっています。
一時期、こちらから踏切を渡って車を通す為に改造したものらしいです。
山上に新しい道路ができた今は、踏切に車が進入できないようにポールが立っています。
子供の頃、このお寺山に呼び出し、呼び出されて、時々喧嘩をしました。
この境内が少年の「決闘」の場でした。
当時は薄暗くて、誰も来なくて、学校から近くて、決闘に便利な場所でした。
「放課後お寺山に来い!」が決まり文句でした。
本堂が立て替えられて、庭も随分綺麗になっています。
何より、日差しが差し込んで随分明るい。
お寺山を下りて帰ろうとしたら、踏切の向こうにこんな看板がありました。
「伊予国分尼寺塔跡(県指定史跡)
奈良、天平時代に建てられた国分尼寺(法華寺)境内の東南隅にあたる。
因みに、創建当時の法華寺は今の桜井小・中学校を中心に広大な寺域を誇っていたが、江戸時代の初めに、現在地に移った。」
そこが既報ー20の場所です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
22.法華寺(国分尼寺)
法華寺は、天平時代に国分尼寺として創建され、律令期には繁栄しましたが、平安末期からは、動乱によって、次第に寺勢が衰えました。
寛永2年(1625)に現在の引地山に移転しました。
法華寺というのは法華滅罪寺の略した称号です。
創建当初は、現在の小学校校庭の西南隅にあったと言われ、そこには、多くの布目瓦と礎石が埋まっているということです。
法華寺は、真言律宗(真言宗西大寺派)で本尊は十一面観音像であります。(阿弥陀仏座像は、市指定有形文化財)
既存の報告書を参照願います。
久し振りに、小中学校(隣接している)の裏にあるお寺山に行ってみました。
生家の菩提寺でもあります。
この石段はここ十数年に出来たものです。
子供の頃にはありませんでした。
その頃はこちらに石段があったのですが、今は坂になっています。
一時期、こちらから踏切を渡って車を通す為に改造したものらしいです。
山上に新しい道路ができた今は、踏切に車が進入できないようにポールが立っています。
子供の頃、このお寺山に呼び出し、呼び出されて、時々喧嘩をしました。
この境内が少年の「決闘」の場でした。
当時は薄暗くて、誰も来なくて、学校から近くて、決闘に便利な場所でした。
「放課後お寺山に来い!」が決まり文句でした。
本堂が立て替えられて、庭も随分綺麗になっています。
何より、日差しが差し込んで随分明るい。
お寺山を下りて帰ろうとしたら、踏切の向こうにこんな看板がありました。
「伊予国分尼寺塔跡(県指定史跡)
奈良、天平時代に建てられた国分尼寺(法華寺)境内の東南隅にあたる。
因みに、創建当時の法華寺は今の桜井小・中学校を中心に広大な寺域を誇っていたが、江戸時代の初めに、現在地に移った。」
そこが既報ー20の場所です。