生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。

20.伊予国分尼寺跡
桜井駅の近くに、ほぼ正方形で92平方mの基壇が水田の中に残り、その上に、花崗岩の礎石6個が、各2m前後の間隔で配列されています。
国分尼寺は、聖武天皇の時、方一町の地域に国分寺の残材で建立されたものと伝わるが、今、尼寺跡といわれている附近からは、尼寺創建当時より古い、飛鳥時代の瓦が出土しており、ホノギ等からも、国分尼寺は現在の桜井小学校付近で、この地は他の廃寺跡であろうといわれています。
<筆者>
たったこれだけの記述なので、既報の資料を抜粋して、写真を加えて報告します。
<史跡 国分尼寺跡>

聖武天皇の勅願(天平13年・741年)により、天下諸国に国分寺国分尼寺の造立が命ぜられた。当時国分寺(北約2km)建立と共に、国分尼寺を建てられた。
国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、尼僧10人を置き、妙法蓮華経を奉じ、民の憂苦疫病、飢餓を救い国家の鎮護と国民の平和を祈ったといわれている。

方形の敷地に、巨大な花崗岩の自然石が6個約2mの間隔に並び、赤土石灰土を底から固めて礎石をすえてある。石には柱口の加工はしていないが、整然と間隔をおいて並んでいる。なお付近から布目瓦の破片などが出土している。
昭和31年1月3日 指定 愛媛県教育委員会」

へえー!知りませんでした。
今から約1,280年前、大化の改新から約100年後、平安京遷都の約50年前、万葉集編纂の約30年前、鑑真和上来日の12年前、東大寺大仏造立の11年前、僧行基が貧民救済に活躍した時代の事です(これを機に日本史を調べてみました)。
こんな凄いものがあったの!?
成る程、表面が平らな石が並んでいます。

更に「史跡伊予国分尼寺塔跡地」の石碑が立っており、その裏には「昭和24年10月建立」と書かれています。

またまた、へー!知りませんでした。
私が生まれる前から石碑が建っていたのです。

線路脇の小道が通学路だったので、9年間通った道路のすぐ近くです。
「あそこに何か在るな」とは思っていましたが、道草大好き少年でしたが、ここに来た事はありませんでした。


私って、結構凄い所で生まれ育っていたのですね。
無為に過ごしてしまって、勿体ない!
この冊子に書かれた現場を訪ねています。

20.伊予国分尼寺跡
桜井駅の近くに、ほぼ正方形で92平方mの基壇が水田の中に残り、その上に、花崗岩の礎石6個が、各2m前後の間隔で配列されています。
国分尼寺は、聖武天皇の時、方一町の地域に国分寺の残材で建立されたものと伝わるが、今、尼寺跡といわれている附近からは、尼寺創建当時より古い、飛鳥時代の瓦が出土しており、ホノギ等からも、国分尼寺は現在の桜井小学校付近で、この地は他の廃寺跡であろうといわれています。
<筆者>
たったこれだけの記述なので、既報の資料を抜粋して、写真を加えて報告します。
<史跡 国分尼寺跡>

聖武天皇の勅願(天平13年・741年)により、天下諸国に国分寺国分尼寺の造立が命ぜられた。当時国分寺(北約2km)建立と共に、国分尼寺を建てられた。
国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、尼僧10人を置き、妙法蓮華経を奉じ、民の憂苦疫病、飢餓を救い国家の鎮護と国民の平和を祈ったといわれている。

方形の敷地に、巨大な花崗岩の自然石が6個約2mの間隔に並び、赤土石灰土を底から固めて礎石をすえてある。石には柱口の加工はしていないが、整然と間隔をおいて並んでいる。なお付近から布目瓦の破片などが出土している。
昭和31年1月3日 指定 愛媛県教育委員会」

へえー!知りませんでした。
今から約1,280年前、大化の改新から約100年後、平安京遷都の約50年前、万葉集編纂の約30年前、鑑真和上来日の12年前、東大寺大仏造立の11年前、僧行基が貧民救済に活躍した時代の事です(これを機に日本史を調べてみました)。
こんな凄いものがあったの!?
成る程、表面が平らな石が並んでいます。

更に「史跡伊予国分尼寺塔跡地」の石碑が立っており、その裏には「昭和24年10月建立」と書かれています。

またまた、へー!知りませんでした。
私が生まれる前から石碑が建っていたのです。

線路脇の小道が通学路だったので、9年間通った道路のすぐ近くです。
「あそこに何か在るな」とは思っていましたが、道草大好き少年でしたが、ここに来た事はありませんでした。


私って、結構凄い所で生まれ育っていたのですね。
無為に過ごしてしまって、勿体ない!