姫様、そのままそのまま。
それを見て、「こっちも撮らんかい!」とSHINGodzilla。
故郷古国分に初代及び3代・4代今治藩主の墓地を訪問した時に、2代目と5代目以降の墓は何処にあるのだろう、との疑問を持ちました。そんな折の2年前、生家にあった資料で今治藩主の墓が深川の霊厳寺に在ると知って、近所でもあるので訪ねました。ちょうど掃除をしていた寺男(?)に尋ねたのですが、彼も分からないとのことで探索の手段が途切れて諦めていました。
そうしたら先日、今治在住の方が私のブログにコメントを頂き、私が掲載していた墓石の一つがそうである、と教えて頂き再度やって来ました。
深緑の霊厳寺です。元は、霊厳上人によって「霊岸島」に拓かれた浄土真宗の寺院ですが、明暦の大火で焼失しました。これを機会に、幕府は武家屋敷を広げる為に寺社仏閣の多くを郊外に移転させました。寺社仏閣の移転に供なって門前町の人々も移転しました。こうして江戸の中心地に武家屋敷のスペースを造ったようです。もっとも、この界隈も武家屋敷が多くあって、古地図によると、「松平家」の幾つかもここにありました。
近くには大阪城の内堀を埋めさせて徳川家康の天下取りに貢献した「阿茶の局」の墓もあります。ここ霊厳寺は広大な寺領だったのですが大正11年の関東大震災で壊滅し、復旧時に現在の規模に縮小されましたが、周辺には元霊厳寺の「院」が数院残っています。
霊厳寺といえば、「寛政の改革」(現在では「失政」との評価ですが、中学の歴史で習いました)の断行者「松平定信」(8代将軍徳川吉宗の孫)の墓所で有名です。
その隣の敷地に古い墓地があります。
前回訪問時に「殿様墓」だと教えられた墓地です。今治在住の方に教えられた「今治藩主の墓」がこの中央にあります。
久松家の星梅鉢の家紋があります。
2代定時の戒名です。
久松家は代々「定」の字を名前に付けています。私が奨学金を貰った当時の県知事は久松定武氏という松山藩主(初代松山藩主と初代今治藩主は兄弟です。久松家は徳川家康の異父弟の家系)の子孫です。久松家は一時松平家の養子となっていました。従って、上述の「松平定信」にあるように「定」の字を引き継いだのかも知れません。
2代定時は江戸城の城代家老を務めて江戸で死んでここ霊厳寺に葬られ、以後江戸で死んだ5代以降がここに祀られて、上記関東大震災で寺領を縮小する際にこの2代の墓に合祀されたようです。
明治維新まで10代続き、現在もその子孫がこの墓をお守りしているようです。花入れが新しいです。
ちなみに、現当主も「定」が付く名前だそうです。
墓石の側面には「豫州今治城主」の文字が読めます。
裏側は先ほど訪問した「松平定信」の墓所です。
久松家の墓の左右は松平家と徳川の譜代大名の墓です。
徳川四天王の「榊原家」と「本多家」の墓があります。
こうして切れたと思っていた糸が繋がって、今治藩主の墓を訪ねることができました。
今治の投稿者の方に感謝致します。