生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
37.沖浦菖蒲谷遺跡
市内では、唯一の大規模な縄文遺跡が菖蒲谷にある。
出土品は、縄文後期から晩期(3000年位前)に至るもので、土器には、深鉢や浅鉢、その外、土錘、石錘、石さじ、石鍬など数千点にものぼり、附近からは、弥生式土器も出土し、古墳もあるので、原始時代の複合遺跡ではないかと言われている。
<筆者>
孫兵衛作から沖浦に抜ける峠をちょっと過ぎた場所です。
近所の老人に聞いても「遺跡の存在を知らない、菖蒲谷も聞いた事がない」との事なので、本書の地図と「谷」から推察して、ここだと思います。
ただ、そんな重要な遺跡がある雰囲気ではありません。
忘れ去られた遺跡でしょうか?
父の三回忌と耕作放棄地の草刈りで帰省中です。雨の少ない故郷は梅雨に入って田植えをします。従ってこの時期に草を苅って他所の田んぼの水路を確保したり、隣の迷惑にならないよう耕作放棄地の草刈りが必要なのです。
私のタブレットでは投稿ができません。写真が真っ黒になるのです。auショップへ行ったらgooブログの設定の問題だと言われ、gooブログに設定の変更を依頼したけど解決していません。数年前まではスイスイとタブレットで投稿できたのに・・・
そういった訳で、帰省中は数年前に取り貯めておいたシリーズものを投稿します。文章は原文どおりです。
生家の本棚にこんな冊子がありました。著者は未だに不明です。
この冊子に書かれた現場を訪ねています。
36.国分寺
聖武天皇は、大変仏教を信仰されていた。
その当時、日本中に悪い病気が流行し、又飢饉で苦しんでいた。
その国民の苦しみを救い、日本の国が平和に治まりますようにと仏様にご祈願された。
そして、天平13年(741)、都に東大寺、諸国に国分寺、国分尼寺を建立するよう命令を出された。
そこで、伊予桜井にも国分寺、国分尼寺を建立することになった。
国分寺は、金光明四天護王国之寺といい、壮大な七伽藍が備わり大きな七重の塔が建ち、20人の僧が勤務した。
現在の国分寺は四国霊場五十九番札所、金光国分寺という。
寺地の選定については、「其れ造塔之寺は、兼ねて国華たり、必ず好処を択で実に長久たるべし。
人に近ければ薫臭の及ぶをおえる。
人(里)に遠ければ衆人は参集を厭うであろう。」と、かくて伊予には寺伝によると奈良の都から、本性上人が下向され、国司と共に適した土地を探し現在の塔礎のある桜井郷半田里の一角(字国分)を寺域と定めて奏問しました。
ここは、国府から十町余りを距だて、三方に山を廻らせて、南に開けた真に創建の詔にかなう勝地であり、検分も終わって直ちに七重層塔建造の準備にとりかかりました。
規模は、七重の塔を中心に金堂、講堂、経蔵、鐘楼、僧房、中門、南大門等いわゆる七堂伽藍を廻廊によって囲むという大したものでした。(図参照)
<筆者注:図の添付無し、図を付けようとして忘れたのか、図を書くつもりだったが何らかの理由で完成・発行を急いだものと思います。誤字脱字が多いことや対象によってはたった一行で終わっているものがあったりして完成度が低いので、後者だと推測します。>
(国分寺炎上)
〇藤原純友の乱の時、炎上(989)
〇源平の戦の時、額(奴可)入道のため、炎上(1181)
〇室町幕府、第二代将軍義詮と執事細川清氏がうまくいかず、清氏は南朝に帰順しましたが、討死しました。その時、清氏追討を命じられていたのが細川頼之と伊予の河野善恵でしたが、河野が秘そかに清氏と通牒していて兵を送らなかったという風聞のあることを理由に、頼之は、この際一挙に伊予を攻略しようと進撃してきました。この時、河野方は世田城にて防戦しましたが、急のことで防備も整わず敗れました。その残兵は府中(筆者注:伊予の国には、道前・府中・道後の平野があります)に退き、国分寺を根拠に抗戦しました。この戦で国分寺は12月頼之の為焼かれました。
その時、法華寺も焼かれたとの事です。(1361)
〇豊臣秀吉の四国征伐の際、伊予の守護は河野氏でしたが、天正13年7月(1585)、小早川隆景は、3万余騎をもって一手は新居郡宇高に、又、一軍は桜井浜に上陸して国府城、石井山城、老曾城、鷹取城を攻略し、進んで野間郡、風早郡に侵入しました。国分寺は、この時か、前年の長曾我部元親の侵略の時、炎上したといわれています。