店頭の商品がずいぶん無くなりました。
いつもこれくらい売れてたら、と思います。
もうすぐ閉店です。
・・・寂しいです。
東京で最もコロナ禍の影響を受けた場所の一つだと思います。
上野動物園に双子のパンダが生まれたとき、これで客足が増えると期待していた商店街です。パンダはスクスクと育っていますが、客足はスクスクとは育ちません。
現在のアメ横です。特に、年末の賑わいを知っている者に取っては、目を疑う光景です。
店頭に黒だかりができていた「チョコレートたたき売り」の店の現状です。
アメ横の中央部に入って行きます。
蟹の有名店です。閑散としています。蟹が無いからだけじゃ無いです。人出が無いもの。
どの店も手持ちぶさたの様子です。呼び込みの声に張りがありません。
更に行きます。肩をぶつけ合いながら歩いた路地です。自転車を押していて怒られました。今日は乗っても大丈夫です。
ガード下飲食店街へ行ってみます。
唯一行列ができていたのはラーメン屋でした。「鴨to葱」人気店のようです。
隣の路地です。
店が潰れるとアメ横の文化が消失します。年末迄に人出が戻らないと大変なことになります。
根津は八重垣の商店街はお洒落で高級感のある店が多いです。そういう需要が有る街なのでしょうね。その中でも特に高級な魚屋が工事中です。有名な店ですが、改装中でしょうか? それとも、コロナ禍の影響で店じまいでしょうか? けっこう庶民から掛け離れた商売だったし、、、改装なら良いけど。
営業中の様子はこちらの末尾です。
すっかり秋の風情です。真夏の濃い景色では無くなりました。この風情も好いです。私はずっとスマホを持って仁王立ちしたままです。写真中央の人は、池を覗きながらゆっくりとあそこまで移動しました。もう少しで人が居ない写真が撮れます。
今にも降りそうな天気なのに、いつもの人通りです。池を覗いている人はあそこまで移動しました。もう少しです。後は人通りが切れる瞬間を待てば良いのです。
あの人は居なくなったのですが、新たな人が池を覗き込んでいます。そして、人通りが絶えません。
人通りが絶えません。
覗いている人が手前に移動して、尚も覗き込んでいます。池に何があるのだろう?と気になります。気が散ってきました。
隣では、犬のトイレの始末をしています。
トイレを済ませた犬と飼い主が透かし塀の向こうに消えましたが、正面奥の、森鴎外が寄付した水呑場脇の石に人が座ったままです。背後から人が来ます。
えい、今日はダメだ! 諦めて最後のシャッターを押しました。
陸橋の向こうはJR王子駅です。こんなスペースが在りました。
石碑は古いものですが、その他の物は新しそうです。大河ドラマに合わせて整備したのでしょうか?
私、渋沢栄一をただの商人だと思っていました。板橋で「療養所跡」の碑を見て興味を持ち調べてみたら、凄い人ですね! まさに偉人です。もっと評価しても良い人物です。いや、今度新一万円札になるのだから世間は相応の評価をしているわけで、私の認識が浅かったってことでしょう。
元々ここにあった説明碑です。昭和28年に建てられたものです。先ほど新しい説明板を読んだのでパスします。
さて、このスペースには渋沢栄一が初めて日本で造った製紙工場の説明が書かれています。
後の「日本製紙」です。場所柄、「王子製紙」かと思いました。
飛鳥山も登場します。すぐそこですものね。
なるほど、王子一丁目です。
さて、私は王子駅前から都電を追います。
昨日朝の伊勢ヶ濱部屋です。場所前ですが、普段と変わった様子はありません。
ただ、玄関前が変わりました。この場所はよく変わります。休憩所になったり、自転車置場だったり、柑橘類の木があったり、蝸牛の置物があったり、、、今は盆栽が並んでいます。師匠は盆栽を始めたのでしょうか? 先日還暦を迎えたらしいです。照ノ富士が横綱になったのと合わせて、心境の変化があったのでしょうか? いや、違いますね。大事な盆栽はこんな場所に置かないですね。まだまだ弟子を鍛えますね。
部屋の裏側です。1階が稽古場です。中から力士の稽古する音と声が聞こえます。場所を明日に控えて意気が上がります。この部屋はよく稽古すると言われています。いつもより長い稽古時間のように思います。
私はずっとこの部屋を応援してきました。小さな体格で努力する日馬富士の時も応援しましたが、特に、照ノ富士が1回目の大関になったとき、すぐに横綱になると思っていました。それくらい、他を圧倒する体格と実力と勢いがありました。ところが、膝を怪我して、糖尿病になって、番付が序二段まで落ちて、私はもう駄目だと思っていました。何度も引退させてくれと師匠に訴えて、何度も拒否され励まされて、そんな照ノ富士の話を聞いて、辛抱を重ねて復活を図る彼の姿と、指導する師匠の愛情に感動して応援してきました。ずっと、大関に復帰するよう、大関になったら、ここまで来たら横綱になってくれ、と願っていました。やんちゃだった若者が、言動が謙虚になりました。試練を経て成長しました。横綱に相応しいと思います。あれだけ努力する姿に勝負の神の加護を願いました。縁もゆかりもない他人をこんなに応援したことはありません。横綱になってくれて、もう、私は満足です。
・・・でも、横綱でも優勝してもらいたいです。そして将来、彼の親方姿も応援したいです。日本に帰化して付けた名前の名字「杉野森」は師匠からの頂きものです。
近くの公園に、1本だけ白い彼岸花が満開でした。今年の初物です。
白星みたいで験がいいです。これから沢山咲きます。
部屋の隣のビルにいつも出ている応援です。照ノ富士も頑張れ!
昨日の国技館前です。毎年この時期に、ここの銀杏は色が変わります。東京の中でも早く色づいて、秋の到来を教えます。いつもと違うのは、街が閑散としています。今場所もコロナ禍で力士の入り待ちを禁止されています。
華やかに幟が上がりました。大相撲の始まりです。
櫓には番付表が出ています。
天気は、スカッとした秋の空ではありません。秋雨の季節です。
ここにはいつも日本相撲協会の幟を頭に、番付順に力士の幟が並びます。白鵬が部屋のコロナ感染で休場したので、筆頭は新横綱照ノ富士です。そして、これが初めての「横綱」の幟です。
以下正代等の幟には肩書がありません。「横綱」とは、もう変わることの無い地位なのです。
正面入り口横のポスターです。「看板力士」です。
コロナ禍が続いても、販売する切符は有りません。相撲人気に衰えはありません。
両国駅前に新しい横綱像ができました。台座にはまだ何も有りません。新しい歴史を刻みます。
こちら、歴史を紡いできた横綱像です。
新横綱照ノ富士の活躍を期待します。
菊地武男靴工房の道を行きます。周囲はお洒落な高級住宅街です。石畳の道は、自転車は走りにくいけど、好い雰囲気です。ちょっとレトロな建物が在りました。北区役所です。
石畳の正面に鳥居と杜が見えます。
王子神社です。行ってみます。
王子神社は「東京十社」の一社らしいです。境内にその旨の記載が有りました。
信心深く無いけど、寺社仏閣には、出合えば行くことにしています。
お参りします。祭壇奥に大きな鏡があって、私の姿が映っています。
振り向くと、残暑の町です。
分かれ道が在って石碑が立っていました。
「音無渓谷」の説明板です。「石神井川は、東京都小金井市花小金井南町付近を源とし北区内で隅田川に合流するまでの延長25.2kmの河川です。 一般には、石神井川の水源としては、石神井公園内の三宝寺ヶ池が有名ですが、周辺の市街化により涌水が減少したため水源は、一般家庭からの排水も少なくありません。 石神井川は大部分を台地上を流れているため、ゆるやかな流れの区間が多いのですが、板橋区加賀から下流になると渓谷状となり、水流もかなり急になります。そのため、昔はこの一帯の石神井川は滝野川とその名を変えて呼ばれ、飛鳥山のあたりでは、この地を愛した徳川吉宗のふるさとにちなみ、音無川とさらに名を変えて呼ばれていました。 ごうごうとと音をたて、流れる川を音無川と呼んだところに、この地と将軍吉宗との深い関係が読み取れます。 吉宗は『春は花、秋は紅葉』の例えにならい、飛鳥山に桜を植えさせる一方で、石神井川の両岸に紅葉を植えさせました。 文化文政の頃には、滝野川の紅葉は江戸中に知られ、江戸名所図絵にも『楓樹の名所として其の名遠近に高し』と述べられています。
この紅葉は維新のころ、薪にして売られるところでしたが、羽鳥了浦という人がたまたま来あわせ、これを惜しんで残らず買い取り、そのまま保存することになり、明治大正にかけても滝野川の地は東京市民の避暑の地として賑わいました。 現在でも、この音無さくら緑地では、当時の音無渓谷の姿をかいま見ることができます。 この場所に緑の吊橋が初めて掛けられたのは、昭和29年のことでした。その後台風で崩壊し、昭和55年に新橋に変わりましたが、平成6年には緑地と調和した現在の吊橋となりました。」
なるほど、行ってみます。・・・この橋、けっこう揺れます!
橋から、揺られながら見る音無渓谷の入り口です。今日は行きません。案内板に従うわけではありませんが、紅葉の季節に再来しましょう。
後ろは石神井川の土手です。
石神井川に上がりました。説明板のとおりけっこうな渓谷です。両岸は、現在は桜の名所です。徳川吉宗の名残は、先ほどの音無渓谷に残っています。
あれ!? よく見ると、あそこに「菊地武男の靴」と書いています! 行ってみます。
紅葉橋を渡ってやって来ました。石畳の道です。
好い感じの店です。靴と一緒で好い感じです。
私、靴好きです。菊地武男はよく知っているし、持ってもいます。
ここが、靴工房でしたか! 石神井川の傍に在ったとは驚きです。
ああ、好いなあ!
店内を覗いてみようとしたら、生憎今日は定休日でした。
今日は残念だけど、場所が分かったのでまた来られます。でもねえ、こういった靴を履く機会がめっきり減っています。更に、コロナ禍で人に会わないし・・・。
でも欲しいなあ!
最近、日曜日の夕方は松重豊さんの「孤独のグルメ」を見ることが多くなりました。競馬番組が終わって、今日も終わってしまうなあ、と思う時間です。今晩のご飯は何かなと考える時間でもあります。
あの番組は何より、とても美味しそうに沢山食べるのが好いです。店のメニュー紹介を兼ねての大食いなのでしょうね。それはそれで大変だと思いますが、、
さて、「一人すき焼き」の店「しゃぶ辰」です。先の日曜日の番組を見てやって来ました。・・・閉まっています。
TVで見た絵です。
間違いありません。放送では、常連のサラリーマン達が安い定食を食べているなかで、例によって「一見さん」の主人公が、「一人すき焼き」を食べます。「上州牛すき焼き定食」2600円です。昼食にしては高いです。夜の食事かと思うほどのボリュームでもあります。ご飯に、〆のうどんまであります。絶対ビールが欲しいです。私なら、ご飯を止してビールにする場面です。でも、主人公はビジネスマンです。気の毒に、などと思ってみていました。
2日間の「臨時休業」です?! 往々にして、TVで放送した途端に行列を成して客が集まります。ウイルスなんて、密なんて、関係無く集まります。食材の「上州牛」の在庫が無くなったのでしょうか? 接客疲れでしょうか?
主人公が満足して帰る路地です。西巣鴨駅に通じます。
ほとぼりが冷めたら覗いてみます。
やって来ました。砂町文化センター2階に在る「石田波郷記念館」です。
ここには石田波郷の生涯や作品、遺品等が展示されています。そして、中央の丸い柱には、彼の俳句と彼が撮った写真が展示されています。彼が生きた時代の砂町風景です。そこには庶民の暮らしがあります。「秋雨や減りに減りたる荷馬車馬」 「寒の水筏もろとも挽きやめず」 「河岸も狭に海苔網干せりうららかに」 「舟端にこぼるる酒や浜祭」
「風もなく乗る渡舟なり猫柳」 「釣針打って六十年や今年竹」 「額髪に春の風の蓮根掘り」 「春の日や篭り燻る弘法灸」 「珠算塾横顔五十日脚伸ぶ」 「むしろすがし汗の少年ガラス工」等々
「手をついて絵馬あやまちし寒さかな」
そして、ここでも駅に出逢いました。「小名木川駅春の上潮曇るなり」
これも石田波郷の作品です。ここが前回紹介した現在のショッピングプラザでしょうか?
句集「惜命」は、図らずも同郷の先達正岡子規と同じく、闘病俳句の傑作と言われています。「今生は病む生なりき烏頭」
そしてやって来ました。小名木川駅が在った、現商業施設のすぐ傍です。
現在はカネセン商事の敷地です。
そして、何故かここに埋葬されなかった、住居跡の隣にある妙久寺の石碑です。
「繁縷や焦土の色の雀ども 波郷」 石田波郷の命日は「はこべら忌」と呼びます。
江東区に「小名木川駅前」の交差点が在ります。
こんな上り坂の交差点です。ここには鉄道も駅も在りません。
駅が在った場所は大きな商業施設になっています。数年前迄は操車場でしたが、その時にも駅は在りませんでした。それでも「小名木川駅」の名前を残しています。地域の人には特別な思いがある駅なのでしょう。
先ほどの交差点から坂を上がると、川の土手に句碑が立っています。
「砂町を愛した俳人 石田波郷生誕百年記念碑」の文字が見えます。
「石田波郷(はきょう)は大正二年(1913)松山市に生まれ戦後の昭和二十一年から十二年間、砂町にある妻あきの実家に住んで、『江東歳時記』や『惜命』に下町の風情や闘病中の句を詠みました。平成二十五年(2013)三月十八日建立」
小名木川は徳川家康が造った運河ですが、石田波郷が愛した川でもあります。
界隈は戦前戦後を通じての工場地帯で、地下水を大量に汲み上げた為このように周囲が地盤沈下し、小名木川が高くなりました。「小名木川駅前交差点」方面です。
「雪敷ける町より高し小名木川」
工場廃水で汚れた小名木川は、現在はしゅんせつされ護岸が整備されて、随分綺麗な川に変わっています。江東区はカヌーが盛んです。因みに、この川の水はしょっぱい汽水です。
小名木川の土手を行くと、ここにも石田波郷の句碑が有ります。「小名木川駅春の上潮曇るなり」
そして、隣に彼の活動とその当時の小名木川駅の写真が有ります。再び石田波郷と小名木川駅が繋がりました。
近くに、「稲荷通り商店街」が在ります。
「治兵衛稲荷」が在る商店街です。
その向かいに、「石田波郷記念館」の案内が有ります。
行ってみます。
樋口一葉の井戸がある石段の上です。
上空が気になります。
私は、ここは昔の下宿屋ではないかと思っています。その根拠を見ます。
三階の部屋です。
小さい部屋が列んでいます。
1階(樋口一葉の井戸からは2階)の玄関(入り口)です。
こちらが下宿部屋に続く入り口でしょうか?
下宿屋の前の路地は鐙坂に出ます。
樋口一葉の井戸に続く石段です。
見上げると、下宿部屋の窓です。
最上階3階の窓です。
小さな空が秋の風情です。
前回訪問時に工事中でした。樋口一葉の井戸への入り口が広くなりました。
広く明るくなった路地を入って行きます。恐らく、家を新築したときに、消火対策とかでセットバックしたものと思います。
この辺まで入ってやっと以前の景色です。
樋口一葉の井戸と奥の石段です。昔の本郷の景色が残っている一角です。
いつものように石段を上がります。
木造三階建てを見上げながら上がります。
木戸です。
木戸の先は突き当たりです。
いつものように振り返ります。
樋口一葉が暮らした路地です。
石段を下ります。
こちらからこの井戸を撮ったのは初めてのように思います。
入って来た路地です。
すっかり景色が変わった本郷4丁目です。
これ以上変わらないで欲しいのですが、、、
この景色が良かった・・・。