作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

2009年01月17日 | 芸術・文化

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

もう1月も半ばを過ぎて、お正月気分ももうどこかへ消えかかっているが、お正月休みの時、テレビ番組も低俗でマンネリ化していてつまらないので、久しぶりにDVDで今は亡き成瀬巳喜男監督の「浮雲」という古い作品を取り出して見た。

浮雲
http://www.geocities.jp/yurikoariki/ukigumo.html

主演女優は高峰秀子、男優は森雅之である。こうした一昔前の俳優は今の人にはすでに忘れられて知らない人も多いかもしれない。成瀬巳喜男の監督した作品は芸術として事実を淡々と描写して行くだけで、社会批判や理屈をとくに大上段に振り上げているわけではない。しかし、この「浮雲」のなかで高峰秀子さんが演じていた「ゆき子」も、太平洋戦争の日本の敗戦の過程でみずからの運命を大きく変えられ、薄幸のうちに亡くなった一人の無名の女性だった。現代国家の運命は女性や子供も含めて国民ひとりひとりの運命に直結している。

映画の発端となる舞台は太平洋戦争で、日本軍が仏領インドネシアに進駐するに従って農林省の技官であった富岡(森雅之)も日本から出張してくる。その時に事務所にタイピストとして働きに来ていたのが、ゆき子(高峰秀子)だった。そこでふたりは知り合うが、富岡は現地に単身で赴任してきており、日本に妻を残していた。だから、ふたりの関係はいわば不倫の関係であった。そして当時のすべての日本人がそうであったように、敗戦によってふたりの運命は暗転する。

映画「浮雲」の批評そのものはまた別の機会に語りたいと思うけれども、要するに、主人公の「ゆき子」は、空襲によって荒廃した日本に終戦にともなって帰国したものの、すでに妻のいた富岡との復縁もかなうことはなく、それでとうとう食い詰めてオンリー(進駐軍兵士専門の娼婦)に身を落としてしまう。敗戦後も間もなく流行した「星の流れに」という歌の中にも、「こんな女に誰がした」という歌詞があったが、主人公ゆき子のような境遇の事例は数多くあったのだと思う。実際にも多くの日本人女性が戦争花嫁としてアメリカなどに渡っていった。ゆき子のつらく悲しい生涯に戦後の日本が象徴されている。

日本の敗戦によって威信や信用を失ったのは、だれよりも旧大日本帝国軍の軍人たちだった。実際どのような国においても、敗戦国の軍人や男性が信頼や価値を失うのはやむをえないといえる。とくに戦前の日本はかならずしも民主化が十分に進んでおらず、封建時代の名残もあって軍隊には階級意識や権威主義、事大主義が濃厚で、偉ぶっていた軍人も事実として多かった。だから、敗戦をきっかけに旧日本国軍や軍人たちが国民の信用を大きく失うことになったのもやむをえない面があったといえる。

それに輪を掛けたのがGHQなどの占領軍の手によって行われた占領政策だった。日本をアメリカに二度と対抗できない国にするための戦後教育を受けて育った女性たちには、旧日本国軍人についてとりわけ悪印象を植え付けられている。彼女たちの多くが兵士について抱いているイメージと言えば、売春宿の入口で眼の色かえて「順番待ち」をしている脂ぎって汚れた兵士たちの顔であったり、二等兵をいじめている醜い顔の軍曹であったりする。

こうした軍人観がとくに戦後の日本女性の多くの中に戦後教育や映画などを通じて刷り込まれているために、軍隊や軍人たちに対して、さらにはそこから父や兄弟など男性そのものに対して尊敬心など持てなくなってしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも潜在意識の中ではその傾向にあるといえる。とくに法政大学教授の田島陽子女史や東京大学の上野千鶴子教授など教育を受けたインテリ女性ににその傾向が顕著に見られるように思える。

しかし、国家と国民の身体、生命、財産の安全を、みずからの命を呈して守ろうとする軍隊や軍人に対して尊敬の念を持てないでいる国民は不幸で哀れだ。アメリカやイギリスなど、かって大きな敗戦をこうむったことのない国民の間では軍隊や軍人ははるかに尊敬されているし憧れられてもいる。日本の自衛隊のように、たんに占領時代に制定された憲法上ばかりでなく、これほどに多くの国民から白眼視されている「軍隊」の存在も他国には例を見ないだろうと思う。

映画「浮雲」の女性主人公ゆき子に象徴されているように、戦争では多くの女性が薄幸の運命を担わされた。満州からの避難民や広島、長崎の原爆、東京大空襲のような悲惨な体験をした日本の女性の多くに軍隊や軍人に対する嫌悪や忌避の傾向の強いのも仕方がないと思う。また、戦後の日本の教育をになった教師などに共産主義者も多かったから、彼らは自分たちの階級闘争史観から戦前の旧大日本国帝国軍隊や軍人を全否定する教育を行ってきた。

その教育宣伝による意識形成の典型が先の田島陽子女史やノーベル賞作家の大江健三郎氏なのだと思う。彼らの軍隊観、軍人観には肯定的な要素はまったく見られない。自国の軍隊や軍人の道義性に対する信頼やその意義についての認識が完全に失われているのである。しかし、このような国が日本以外にあるのだろうかと思う。占領統治が終わって戦後60数年も経った現在もなお軍人、軍隊に対するコンプレックスを克服しえていない現状には、日本国民の資質に、とくに主体的な民主化能力に欠陥があるというしかない。そのコンプレックスは今なお、茶髪や一重まぶたの整形手術にも現れている。

評論家の櫻井よし子さんは、戦後の女性の変化に触れ、次のように述べておられる。
「手本となる先人に思いを馳せその学びを新しい年に生かしたい」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/03/


>>
「戦後の日本でいちばん大きく深刻に変わったのが女性ではないかと、私は感じている。家庭のあり方が妻や母たる女性の価値観や姿勢で決定づけられるように、戦後の日本社会の変化は、男性よりも、女性によってなおいっそう促されたと思う。だからこそ、かつて世界の人びとを感嘆させた日本人と日本社会のすばらしさの原点が、控えめながらも芯の強い、公の意識を持った女性たちであった面を思い起こし、その実例を知ってほしいのだ。」
>>


女性解放が声高に叫ばれる現代においても、とくに「女性解放」の遅れていると言われる日本では、確かに女性はいまだ社会の表面では表だって目立つ存在でないかもしれない。しかし、社会のあり方を決める上で女性の存在のあり方が決定的に重要であることは、「女性解放」などという安っぽいスローガンが叫ばれる以前に、封建時代と言われる江戸時代においても現代においても変わりがない。

とくにわたしたちの話すことばが母語とも言われるように、人は誰でも、まず母親から感化されるのである。民族の文化はとくに母親を通じて受け継がれてゆく。ユダヤ人社会でも、母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人になる。父親がユダヤ人であるだけではユダヤ人とは見なされないのである。

だから、母親の受け継いでいる伝統文化や倫理が歪められ損ねられた民族は崩壊してゆくだけである。もし明治期に優れた人物を多く輩出したとするなら、その背景には彼らを生み育てた明治の立派な母親たちの存在を抜きにしては考えられない。その母親たちは、たしかに田島女史や上野女史のように社会的にも有名にもならず歴史に名も残さずひっそりと消えていったかもしれない。しかし、その誰にも知られない生涯の価値は決して見過ごされてよいものではない。女性はその国家、民族の気質、伝統を守り育てる母胎である。

だから、ある国家、民族を崩壊させようと思えば、その女性の気質を破壊すればいいのである。そのために田島陽子女史のようなもっとも亡国的なウマシカ女性を無数に作り出せばよいのである。

さらに、日本の軍隊や軍人に対する忌避や軽べつの感情の根源には、日本の敗戦のために、日本軍人による過失や戦争犯罪を、日本軍自身の手による軍法会議などによって自律的に裁く機会を持ち得なかったということもある。日本の敗戦のために、日本の将兵たちの過失や戦争犯罪を旧日本国軍みずからの軍法会議で裁くことができず、それらをすべてこの戦争の勝者である連合国占領軍の手にゆだねざるをえなかった。

そのために軍人政治家から参謀本部の指導者、末端の将兵にいたるまで、日本軍人の過失や戦争犯罪を日本の軍法会議や司法の権限で裁きにかけることができなかった。そのことも、日本軍人に対する国民の信用をさらに大きく失墜させることになった。

日本軍兵士たちが戦争の混乱にまぎれて非戦闘員である女性や子供たちに対して犯した戦争犯罪や軍規違反、またインパール作戦のなどの戦略上の重大過失を、日本軍の軍法会議や一般司法裁判所で自律的に糾弾し処断することができていれば、もう少しは日本軍人たちの名誉も信用も権威も保つことができたかもしれない。

敗戦によって一切の権威と権力を失っていた旧日本軍には、みずからの軍法会議と司法によって、戦争の混乱のどさくさにまぎれて行われた日本軍の将兵たちの戦争犯罪を、旧日本軍自身がみずからの手で主体的に厳しく断罪することはできなかった。

もし旧日本国軍がそれだけの自浄能力を備えていれば、後世幾世代にもわたって同じ日本国民から、とくに日本女性たち自身から、彼女たちの祖父や父や兄弟に当たる旧日本国軍人に対する、あることないこと一切合切の軽べつの罵詈雑言その他の言辞を投げつけられるような哀れな状況を避けることができたかもしれない。

 

 

 

 
 
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短歌と哲学(4)

2008年10月23日 | 芸術・文化

短歌と哲学(4)


ここで古典作品の二三を検討することで、短歌における芸術と哲学の関係について考察してみたい。

まず『伊勢物語』の中からいくつかの作品を取りあげてみる。

第九十七段  四十の賀の歌

むかし、堀川のおほいもうち君と申す、いまそかりけり。四十の賀、九条の家にてせられける日、中将なりける翁、

櫻花ちりかひ曇れ老ひらくの来むというなる道まがうがに

この和歌の中にも多くの事柄が語られている。「堀川のおほいもうち君」という人物が、「むかし」という言葉によって、歴史的に存在した人物として記録されている。この太政大臣が藤原基経であること、そして、基経の四十歳の誕生を祝う祝賀会が九条通にあった基経の屋敷で開かれていた事実も歴史的な背景を探ることによって明らかになっている。しかし、和歌、短歌としては、そうした個別具体的な歴史的な真実についての知識や認識を和歌の鑑賞の必須要件としているわけではない。

確かにこの和歌には、「太政大臣」という平安時代の官職制度や、中将という地位にあった在原業平とおぼしき人物など、これらが短歌の背景であり舞台となった歴史的な事実も記録されているし、またこの短歌を手がかりにさまざまな歴史的な真実を探ることもできる。

しかし、言うまでもなく和歌によって詠われている主題は、そうした個別具体的な事実を超越したところに成立する。それは観念的に昇華された普遍的な真実であり、そこに芸術としての意義もある。この短歌においても、桜花の散り舞い落ちる道という具体的な美的な形象のうちに「老い」への道程を断ち切ることを願う人間的な真実が詠い込まれている。

一個の独立した芸術ジャンルとしての短歌は、三十一文字の裡に言い現された美と真実の統合のうちに、そのとき歌人が揺り動かされた心への実存的な共感に、その価値を見出すのだろう。もちろん、それが時代と個人のその歴史的な記録性としての価値をもつとしても、それは従属的な副次的なものである。

次の歌は、儀礼的な環境で詠まれた先の四十の賀の歌よりは、真率な感情が詠われている。

第百二十五段(伊勢物語)

むかし 男わづらいて 心地死ぬべくおぼえければ

つひに行く道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

ここでは、人間にとって絶対的な制約である死が歌の主題になっており、それがひとりの人間に対してどのように臨んだかを和歌の詠唱という形式において明らかにされている。哲学が散文的に概念的に死の意義を論じるのに対して、短歌においては直観的に感覚的に訴える点において、そこから受ける印象は哲学以上に強烈であるといえ、また概念的ではないだけ大衆的でもある。

この歌には死が何らかの具体的な表象において描かれてはおらず、もっぱら死という普遍的な人間の真実に「きのうけふ」直面した人間の心情が率直に詠われているだけである。
業平はもちろん自然発生的な感情に駆り立てられてこの和歌を詠ったのであって、現代的な意味で死を哲学的な自覚において作歌したとは考えられない。

しかし、もし「死」が植物、動物をはじめあらゆる生命として存在の、したがって同時に人間としての究極的な原理の一つで絶対的な限界であるとするなら、業平によって詠まれたとされるこの短歌の主題は、まぎれもなく哲学と共通している。

死は確かに個別具体的な「事実」ではあるけれども、その事実も、またその際に人間にもたらす精神的な「感動」も、それが「短歌」という形式において作られることによって、死のもつ意義を感情的にまた反省的に捉えることができる。それは言語をもつことによって本来的に「観念的」な動物となった人間のみに可能なことである。人間の感情はすでに言語を介在させたものになっている。言語をもたない動物は「死」を反省的に捉えることはできない。

すでにここでは短歌が芸術と哲学の接点において詠われていることは明らかである。万葉歌人にはまだ死をこのように反省的に捉える段階には達していなかった。実際「死」というような哲学の主題ともなりうる事柄が、業平によって象徴的に感情的に詠われはじめたことに短歌の発展が見られるといえる。

ただ短歌においてはそうした抽象的な主題が、感覚的に感情的に表象することに意義がありまたそこに限界もある。個別芸術としての短歌はそれに満足するしかないが、しかし、業平の時代とは異なって、はるかに深刻で分析的な意識を持った現代人が歌を作るときには、そこにより自覚的に哲学的な主題を短歌に設定することもできるだろう。

西行の『山家集』の中には次の歌がある。

六波羅太政入道持経者千人集めて、津の国和田と申す所にて供養侍りけり。やがてそのついでに万燈会しけり。夜更くるままに、燈火の消えけるを、各々点しつぎけるを見て

862   消えぬべき  法の光の  燈火を  かかぐる和田の  泊まりなりけり

西行や紫式部の和歌は、もはや万葉歌人のように天真爛漫のものではありえない。彼らの歌には当時の時代思潮である仏教思想が浸透している。仏教の観念を意識した人間によって詠まれている。その意味で歌人もまた時代と民族の子である。時代の不安に仏教に救いを求めて出家した西行の意識が、この和歌の中にも色濃く反映している。

当時の没落しつつあった貴族社会に流布していた末法思想の不安な世相の中で、万燈会に点された灯火が今にも消え入るように揺らいでいる。和田の泊まりの海面は、そのおびただしい灯火を映している。それを見た西行の不安な心象風景が、美しく妖しく幻想的に詠まれている。

この短歌の詞書きには、この歌の詠まれた背景がくわしく語られている。それによって私たちはこの和歌の詠われた背景をくわしく知ることによって、この和歌の鑑賞においてより深く味わうことも可能になる。

時代の混乱と不安の中におかれたこの現世で、西行が出会い見つめた美しい光景の一瞬がこのように詠まれることによって、一個の短歌の作品として象徴的で普遍的な独自の存在価値をもった創作として記録されている。

西行は平安期末の京都を中心とした日本という特殊な環境に生きたのであり、それが彼の運命であったのだが、それは西行に限らず、どんな人間においても、その生存は特定の地理的な場所と歴史的な時間の制約にある自然的および社会的な環境の下に生きざるをえない。場所と時間は人間がその生活を営む舞台である。

現代に伝わる万燈会

人間は時代と空間に規定されている。個人はすべて時代と民族の子である。そして、短歌はそのような運命におかれた人間の生存の記録としての意義ももちうる。西行のこの歌はそれを示している。

これらの三つの作品によっても、伝統的な従来の短歌が、今日でいう哲学的な主題をどのように取りあげているかを見ることができる。とりわけ西行の「消えぬべき」などの短歌は、芸術と哲学の境界の上に咲いた美しい花といえる。

最後にもう一つ言い置かれなければならないことは、あるいは、言うまでもないことかもしれないが、西行であれ業平であれ、彼らの和歌に彼らの置かれた社会的な地位や身分が反映されていることである。

当時の社会の中では彼らは貴族階級に上流階層に属し、彼ら自身は生産的労働に直接的に従事しなくてもよい身分にあったらしいことである。生活に余裕がなければ、彼らのような歌もまた詠まれることはなかった。その意味でも、彼らの詠唱はこの上ない贅沢の上に成り立った産物であるということができる。


(きわめて荒削りで不十分ですが、和歌、短歌における哲学の可能性を理論的に検討してみようと試みたものです。 )

 

 

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短歌と哲学(3)

2008年10月22日 | 芸術・文化

 

短歌と哲学(3)

文学は言語のもつリズム、音韻によって本来的に音楽性を含んでいる。また言語は概念と表裏一体である同時に、たとえ抽象的ではあってもその表象が色彩や形象をもつ点で美術の性格の側面も併せもっている。それゆえ言語芸術である文学は芸術と哲学の境界に位置する。

その文学の一ジャンルである短歌は、もちろん個別芸術としてそれ自体の自立的な完全性をもち、独自の価値を追求する。その自立的な完全性は、短歌の形式である三十一文字のもつ音韻とリズム、その言語のもつ表象の象徴性のなかにある。

しかし、文学としての簡易な様式のゆえに短歌は、ちょうど画家にとってのスケッチやデッサン、あるいは音楽家にとっての練習曲のような役目も果たしうる。ちょうど画家がデッサンやスケッチにおいて絵画の基礎的な訓練を怠らないように、またピアニストがバッハなどの練習曲につねに慣れ親しむように、短歌の制作において日常生活の中から素材を発掘し、メモをとりながら主題を発想し、同時に言語の表象を彫琢し、用いる概念を洗練する。

また、その制作の推敲の過程で感性を鋭くし作品としての造型性を深めて、芸術品の創作の価値と能力を向上させてゆくなかで、どのジャンルに属する芸術においても修練としての効用をもちうるのである。もちろんその質的な内容の向上のためには、短歌においても、あらゆる芸術がそうであるように、一定以上の量的な訓練の消化を必要とすることは言うまでもない。

短歌の制作のみならず一般に芸術品の制作において、人間は文化的な社会的な存在として自然や同類である他者に関係する。人間は社会的動物であると同時に文化的な動物として、歴史的に社会的に形成された何らかの認識や行動の枠組みを学習しながら成長する。文化とはそうした思考と行動の様式でもある。

その典型が言語である。言語は人類の歴史的な産物であり文化の頂点にたつ。そして個人は日本語なり英語なり特定の言語を思考の枠組みとして取り入れることによって社会的な存在として生きる。

その意味では文化とは、人間が世界を眺めるときの「先入観」を形作るものである。そうした認識のための枠組としての道具、「パラダイム」は歴史的に社会的に作られるのであるが、その文化も弁証法的であって、人間は文化を形成するとともに、またその属する文化によって規定もされる。すべての個人は民族の子、時代の子として属する文化のもつ価値観、行動様式などの影響を受ける。 

短歌は日本を象徴する一つの文化である。その風土と歴史のなかで発展してきたもので、長く深い伝統をもっている。短歌は日本人が自然や人間などの世界を芸術として捉える一つの型である。

日本人の感覚が短歌において捉えうるものは、その生活の舞台である独自の地理や気候や風俗であり、自然や社会の物象であり事象である。歌人にとってそれらの事物、現象は、その背後に存在するもののシンボル、象徴として現れてくる。そのとき象徴されるものは、現象の背後に隠れている普遍的で恒久的なものとしての本質あるいは概念である。歌人が作歌においておいて捉えようとするものは、その象徴によって映されるさまざまな現象の背後に存在する本質もしくは概念である。

というよりも、歌人が言語によって事物の姿を捉え映そうとするとき、自ずから本質的で普遍的な事柄を現すことになる。なぜなら、言語は本来的に普遍的で抽象的な事柄しか言い現しえないからである。

そして、短歌においてもこの普遍的な事柄の言い現しにおいて、感動の基礎にあった感覚の対象としての個別具体的なものは、その作品で言い現そうとしている事柄すなわち概念の裡に保存されアウフヘーベンされている。そして、そのとき短歌はもとの個別具体的な素材から切り離されて、それ自体の独立した価値をもつにいたる。それが完成された芸術品としての短歌である。このとき短歌は、哲学の目的でもある概念を事柄として捉えることができる。ここに短歌における哲学の可能性を求めることができるのではないだろうか。

もちろん、従来の普通の歌人は歌人として心に受けた感動を言葉に言い表すだけであって、こうした哲学的な自覚は歌人にとって本来の作歌の目的ではない。カントは物自体は認識できないものとして不可知論に終始したけれども、また、現象の総体に本質を見るヘーゲルは汎神論者に誤解されるということはあったとしても、芸術であれ哲学であれ、それらが本来的に捉えようとしたものは、現象に象徴されるものの背後に存在する恒久的で普遍的なものである。この点において短歌も簡易な形式ではあるけれどもその他の芸術や宗教、哲学と同じ意義をもつことができる。

 

 

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短歌と哲学(2)

2008年10月10日 | 芸術・文化

 

芸術作品に共通する特徴の一つとして、その軽やかな美しさというものがある。その典型が音楽である。音楽はあらゆる芸術の中でももっとも抽象的で、それゆえあらゆる現実存在の重苦しさからは解き放たれている。それは時間と空間のもっとも抽象的な世界へと私たちを誘うものであり、音楽は一つの啓示である。少なくとも啓示とはどのようなものであるかを予感させるものである。音楽はその意味で純粋な形而上の世界のミメーシスであるといえる。

文学もまた芸術の一つのジャンルとして、言語の表象とリズムによる「影の国」を形成する。それは音楽よりは具体的ではあるかもしれないが、それでも「影の国」としてあるいは「光の国」として、現実存在から自由に解き放たれた精神はその饗宴に遊ぶ。

そして、それぞれの芸術もまた多くの分野で特殊な発展を遂げている。音楽にも交響曲のような重厚長大の作品から小夜曲にいたる小品までさまざまな様式がある。絵画も同様で巨大な壁画、天井画からデッサンやスケッチの類までさまざまである。

短歌という様式はもちろん文学の中の一ジャンルではあるけれど、また詩歌に属するが、とくに五七五七七音と三十一文字という日本語に特有の音韻にそって歴史的に発展してきた。それゆえ当然のことながら、その形式のもつ特殊性のゆえに、短歌においては長編小説のように深刻な人間ドラマや哲学的な主題をその中で具体的に展開することも追求することもできない。

しかしまた、その軽薄短小としての形式として弱点は、一方では長所とも利点にもなりうる。短歌の近隣芸術である俳句などと同様に、その形式の簡易さ単純さゆえに、より大衆的な要素を備えている。実際にも短歌は俳句などとならんで日本においては、農民、商人、教師、主婦などの勤労者、大衆の間にもっとも広く普及している伝統的な芸術様式である。

短歌については、今においてももっともその本質を規定しているのは、やはり古今和歌集の仮名序の中に紀貫之が語っている次の言葉だろう。貫之は次のように述べている。

「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事わざしげき物なれば、心に思ふ事を見る物きく物につけていひ出せるなり。花になく鶯、水にすむ蛙の聲をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。」

だからこの本質を外れるものは、もはや短歌ではないといえるかもしれないが、しかし、この本質を原点としながらも、短歌がその歴史の中でさまざまに発展してきたことも事実である。それは和歌の初心としての万葉集から始まり、古今集などのさまざまな勅撰和歌集へと、さらに歴史的にさまざまな停滞と変革と発展を遂げながら今日に至っている。

その中で初心を失い完全に様式化されてしまう時代の来ることも避けられない。独自のみずみずしい豊かな発想も失い、マンネリズムにおちいって芸術としても停滞してしまったと言われる古今集以降、あるいは江戸期を経て、今日に至るまで短歌の世界もさまざまな革新の試みがなされてきたようである。学校における文学史の学習でも、とくに近代においては明治維新後の西洋文化の影響を受けて正岡子規らによってなされた短歌・俳句の革新運動がよく知られている。

そうした歴史的な発展の足跡については、別に専門書で調べていただくとして、この小論で明らかにしておきたかったことは、要するに単なる自然に対する叙情や恋愛感情の発露に過ぎないと思われてきた短歌にも、ただに芸術的な意義のみならず、宗教的な、さらには哲学的な短歌としての可能性を見出しうるのではないかということである。

この立場は、従来の伝統的な短歌の立場に立つ人にとっては「邪道」であるかもしれないけれども、短歌のそうした可能性の一つの方向を追求できないか、哲学の立場からそれを問うのも自由であるはずだ。

この発想をもつようになっていた背景には、国民的な歌人である西行の和歌はすでに単なる美的な叙情にとどまらず宗教的な感情や認識をその和歌に示していることがあった。

さらに直接の契機になったのが、日経新聞の毎週木曜日の夕刊に、「現代短歌ベスト20」と題して佐佐木幸綱氏が入門講座を連載されていたのを読んだことがある。その中でとくに渡辺直己、故宮柊二氏の短歌を詠んで啓発されたことである。

そこで取りあげられた現代短歌に、美的な感情表現と同時に、何よりも短歌が人間の日々の生活の中で実存的な記録性をもちうることに気付かされたからである。確かにそれらに着目することを短歌入門の契機とするのは、短歌への道としては本来的でもオーソドックスでもないかもしれない。

一方で、概念のもっとも無味乾燥の世界に終始するのが哲学である。そうした仕事の中で短歌は比較的に短時間のうちに芸術的な表現欲を充足させてくれる貴重な形式である。その点において時間にも余裕の少ない者にも都合がよい。また、短歌の日常的な制作が、その制作上での修練が、言語のもつ表象力や概念の彫琢、吟味の素養の上で果たしうる意義も、また、さまざまな発想や認識の記録としても、決して小さくはないと思われることである。


 

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短歌と哲学(1)

2008年10月09日 | 芸術・文化

 

1507    雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてをとめんとぞ思ふ

西行は山の麓に流れ行く雲を見ている。と同時にその雲に誘われるように自分の心に漂泊への思いの兆し始めているのを自覚している。もちろん私たちには西行がどのような場所でこの歌を詠じたのか知るよしもない。

峠を上りつめたところ正面にその山容を眺めたのか。しかし、この歌は、時の過ぎゆくままに流れゆく雲と、その一方で時間を超越したかのごとくに泰然自若として不動の姿を見せている山との、その静と動のコントラストをしっかりと捉えているのであるから、この和歌を詠じた主体である西行自身が動いていてはその対比は捉えきることはできない。

おそらく、隠棲していた庵の窓から、流れゆく雲と、それを遮りつなぎ止めるような大きな山を西行は眺めていたのかもしれない。この歌から読みとる情景は私たちに自由に想像できるし、またそうするしかない。けれども、ただ、この歌から確実に読みとれるのは、流れ行く雲が旅や漂泊に対するやむにやまれぬ憧憬に西行を誘うその一方で、その心を押さえ殺そうとしている西行自身の矛盾した心である。

雲に付き従って行こうとする心、それは旅に出ること、また歌を詠じることであったが、それを「うかれのみゆく」と詠うことによって、仏道修行の真摯さや信心の堅固さを象徴する山と比較している。そして西行は自らを責めているのである。

1508    捨てて後はまぎれし方はおぼえぬを心のみをば世にあらせける

世間を捨てて出家してからは、世俗の煩わしい出来事や執着に思い乱れることはなくなったけれど、ただそれでも、わが心は妻と娘を置き去りにしてきた世の中にいつまでも残されたままである。

このような中古の和歌を深く正当に鑑賞するためには、西行の生きた平安末期という世紀末的な時代の転換期の背景を知っておくことも必要なことだろう。出世間の願望は、すでに平安の貴族である光源氏に象徴的に見られたように、仏教思想の流布とともにまず支配層から浸透していった。そして貴族の社会から武士の時代に移行するとともに禅仏教の思潮が色濃くなってくる。

西行も聖と俗の二律背反をよく自覚し、西方浄土への悟りへの道程の中で、出家と漂泊の間に揺れ動く矛盾する自らの心を詠うことを和歌の主題としていた。だから西行の時代においては、和歌はすでに古今、万葉の時代の伝統的な自然美や単なる恋愛感情の詠唱の段階から、宗教的な感情や表象を主題とする、いわば形而上的な対象を和歌の主題にするという段階に入っていたのである。

[短歌日誌]②2008/10/09

ふたたび「マディソン郡の橋」をDVDに見て

アイオワの夏の宵に深南部米国人の熱き情語りたる

 

 

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景観条例――都市と農村の景観問題

2008年05月26日 | 芸術・文化
 
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。
 

春の歌(2008年04月01日)

竹を切る(2008年01月20日)

toxandoriaさんとの議論(2007年05月15日)

冬枯れの大原野(2007年01月20日)

二本の苗木(2006年01月06日)

個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
  
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業平卿紀行録8

2008年05月03日 | 芸術・文化

業平卿紀行録8

在原業平は825年(天長2年)に生まれ、そして紀貫之は866年(貞観8年)頃に生まれたというから、ちょうど昭和の人間が明治の人間を思い出すように、業平の人間像も貫之の世代の人たちにはまだ鮮明に記憶されていただろう。貫之が子供のころには業平はまだ生きていたし、彼は紀貫之と同じ紀氏有常の娘を妻にめとっていた。まして業平は桓武天皇の曾孫でもあり、光の源氏のように浮き名も高かった業平の人間像の伝説は隣人のようにその輪郭も明らかだっただろう。


616     起きもせず    寝もせで夜を    明かしては
                  春のものとて    ながめくらしつ  

この歌も古今和歌集の恋歌三の巻に収められてあるもので、そこには次ぎような詞書きが添えられてあるだけである。

「弥生の一日より、しのびに人にものを言ひて後に、雨のそぼ降りけるによみてつかはしける」

この歌も後朝の思いを女に遣って詠んだもので、伊勢物語には第二段に取り入れられている。その女性が人並み外れて美しかったこと、西の京に住んでいたこと、奈良の都から遷都してまだ間もないころの出来事であったことなど、この歌の詠まれた背景がさらに詳しく物語られている。

747     月やあらぬ    春やむかしの    春ならぬ
                  わが身ひとつは    もとの身にして

仁徳天皇のお后が五条の后と呼ばれていたこと、お后の姪の藤原高子がお后の屋敷の西の対に住んでいたこと、この女性を業平が恋い焦がれたこと、かっては忍んで通い親しく語り合いもしたのに、やがて高子が宮中に上って業平の手の届かないところに行ってしまったことなどが明らかにされている。

梅の花盛りのころ、女性がいなくなってがらんどうになった部屋の板敷きに伏せりながら月が西に沈むまで眺めながらこの歌を詠んだという。

梅の花や月などの自然の景物に、自然の悠久と春の反復を感じる業平の時間意識を感じることができる。そこに同時に業平は自分たちの恋だけが反復を許されないという人間の宿命の悲しみを詠う。その心情は、西洋の近代で詩人哲学者のキルケゴールがレギーネとの恋の反復の不可能を嘆いたものと同じである。私たちの生は反復も不可能な、不可逆な時間の宿命におかれている。このことは業平の時代も近代もまた現代も、洋の東西を問わず変わりはない。

 

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業平卿紀行録7

2008年04月18日 | 芸術・文化

業平卿紀行録7

伊勢物語はこの時代に生きた在原業平を主人公にしながら、彼を取り巻くゆかりの深い人たちも多く登場する。とくに清和天皇の女御に上ってからは、もはや業平には手の届かない人となった藤原高子、まだ入内するまえの二条の后がただ人の身分であられた頃に業平と出会う。この二人の恋愛関係が物語の核を作る。彼らのことは当時の人々にもよく知られていたらしく、そのときに詠まれたらしい業平の歌が古今集の中にも詞書きとともに多く取り入れられている。伊勢物語にはそれらの歌の詠まれた背景がさらに詳しく具体的な逸話として記録されている。

奈良の都を離れて新しく平安京に遷都した頃の人々の暮らしも、伊勢物語には象徴的に描かれている。伊勢物語の冒頭の初冠の段には、成人式を終えたばかりの少年の初恋の記憶が物語られる。

領地がそこにあった縁で奈良の京に少年が狩りに訪れたとき、そこで美しい姉妹を垣間見た。そのときの心のときめきを、若紫の乱れ模様に染められた狩衣の裾を切りとり、歌をそこに書いてその姉妹に詠んで贈ったという。

           みちのくの    忍ぶもぢずり    誰ゆゑに
                     みだれそめにし    われならなくに 
 
しかし、この歌は業平のものではなく、古今和歌集にも収められている河原左大臣、源 融の詠んだ歌がもとになっている。この和歌の一部が変えられて物語の中に取り込まれたものだ。源 融は嵯峨天皇の第12子で臣籍降下されて源氏姓をいただき、六条河原院を造営したことで知られている。 

724         陸奥の    しのぶもぢずり    誰ゆゑに
                   乱れむと思ふ    われならなくに    

源 融のこの歌はすでに幾度か恋愛を経験して知っている成熟した男の詠んだ歌である。それが伊勢物語の中の歌のように変えられることによって、異性を異性としてはじめて意識し始めた少年の、思いがけずときめき始めた自分の心に彼自身が驚いている若者の気持ちが詠われている。

伊勢物語には、業平以外の和歌も多く用いられているけれども、その多くは古今和歌集にもおさめられているものだ。905年(延喜5年)醍醐天皇の勅命を受けて紀貫之らは和歌を編纂するために、すでに大伴家持らの手によって成立していた万葉集以降の、そして紀貫之よりも一世代上の六歌仙たちの生きていた時代と、さらに当時の「今」でもある紀貫之たちの生きた時代に至るまでの和歌を収集して古今和歌集を編んでゆく。すでに古今集そのものが四季の移ろいや恋の高揚して行く様子を物語る構成になっていた。

この編纂の過程でおそらく貫之たちは、古今和歌集に載せた業平の歌を並べることによって、ひとりの男を主人公にした物語が作れることに気づいただろう。それに万葉時代の素朴な歌風を残している「読み人知らず」の歌も古今集に残されて多くある。そして、源 融のように名の知られた業平以外の歌、あるいはまた歌人でもある貫之ら自身の詠んだにちがいない歌をも含めて、それらをとりまとめて業平を主人公とする美しい一代記の歌物語を完成させようと思ったにちがいない。

 

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小野小町7

2008年03月22日 | 芸術・文化


小野小町7

小町の恋愛とその生涯が後の世にこれほど広く深く広まったことには、さらに南北朝時代から室町時代に生きた観阿弥、世阿弥の親子の力があったと思う。

彼ら親子は能という芸術を通じて、小町の恋愛と仏教の無常観を象徴的に描き出した。それが武士階級を通じてやがて民衆の間にも広まっていったと考えられる。しかし、卒塔婆小町や通小町など七小町として謡曲などの物語の主人公となった小野小町は、もはや仁明天皇に采女として仕えた歴史的な小町ではない。ひとりの生きて泣き笑う具体的な肉体をもった女性ではなく、すでに物語の中の小町は、人々に人間と人生の真実を告げる普遍的な小町そのものになっている。

勅命を受けて古今和歌集の編纂に従事した紀貫之たちは、同じ氏族の紀静子を母とする惟喬親王や、父の謀反の失敗ゆえに出世の路を閉ざされた在原業平と同じく、当時天下を牛耳りつつあった藤原氏のようには運命を謳歌することはできなかったにちがいない。そんな彼らに代わって、紀貫之は六歌仙の世代に属する人々の笑いや悲しみや恋の物語も美しい歌物語として編み残そうとしたようである。

古今和歌集の末尾には、

698         恋しとはたが名づけけん言ならん 
                      死ぬとぞたゞにいふべかりける

と詠じた清原深養父の歌を連想させるように、深養父に呼びかけながら、詞書きとともに貫之自身が次の歌を詠じて締めくくっている。

    深養父  恋しとはたが名づけけん言ならん下

1111        道しらば摘みにもゆかむ 
                      住之江のきしに生ふてふ恋忘れ草

この歌は明らかに鎮魂歌でもある。歴史の中に生まれ、そしてその中に姿を消していった多くの人々の恋の歓びや悩み、花の美しさや別れの悲しみを歌いながら時間の彼方に消えて行った人々の心を慰めるために歌ったようにもみえる。

しかも、貫之は、仮名序の中で小野小町のことを衣通姫(そとほりひめ)にたとえていた。そのそとほり姫が帝のことを恋い慕って詠んだ歌が貫之の歌の前に置かれてある。

      そとほり姫のひとりゐてみかどを恋ひたてまつりて

1110        わがせこが来べきよひなり  
                      さゞがにの蜘蛛のふるまいかねてしるしも

 



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小野小町6

2008年03月21日 | 芸術・文化


小野小町6

小町が思いを男性に託して恨みを述べている歌としては、ただ一つ
残されている。それは小野貞樹に当てたもので次の歌。

                                       をののこまち

782         今はとて  わが身時雨にふりぬれば 
                           言の葉さえに移ろひにけり

          返し                          小野さだき  貞樹

783         人を思ふ心この葉にあらばこそ  風のまにまにちりもみだれめ

小町が当時のきびしい身分制度をのりこえられずに、恋を成就させることができたのは、この小野貞樹だけだったのかも知れない。この歌からも推測されるように、貞樹との交際は、小町が若き日々を過ごした宮仕えを離れてからのことであったように思われる。

もし若き日に小町が采女として帝にお仕えしていたとすれば、小町が帝に身近に接する機会もあったはずだし、当時は北家藤原氏の子女のほかには御門の正室や側室になることはむずかしかったから、帝の方もかなわぬ恋でありながらも、政略のからまない美しい小町に思いを寄せたことがあったとしてもおかしくはない。

同じ古今集の墨滅歌の中にも、天の帝が、近江の采女に我が名を漏らすなと詠っている歌がある。また、巻第十四の恋歌四には、世間の噂を心配する近江の采女に贈った帝の歌(702番)ものせられている。

702         梓弓ひき野のつゞら  
                すゑつひにわが思う人に言のしげけん

このうたは、ある人、天のみかどの近江の采女にたまひけるとなむ申す

703         夏びきのてびきの糸を 
                      くりかへし言しげくとも絶えむと思ふな    

この歌は、返しによみたてまつりけるとなむ

采女や更衣はそれほど帝とは身近なところにいた。

深草の少将が実際に誰のことであるのか少し調べてみても、桓武天皇から土地を賜った欣浄寺にゆかりのある深草少将義宣卿がその人であるとするには無理がある。この人は仁明天皇が生まれて間もない頃にはすでに亡くなっている(813年)。仁明天皇にお仕えしたと考えられ、この帝の亡くなられた(850年)後も交際のあったらしい小町や僧正遍昭とは、世代が会わない。

深草の少将のゆかりの寺とされるこの欣浄寺にはその後、仁明天皇から寵愛を受けた少将蔵人頭、良峰宗貞(後の僧正遍昭)が御門の菩提を弔うためにそこに念仏堂を建て、帝の祈られた阿弥陀如来像と御牌を前にして念仏にいそしまれたという。だから、畏れ多いこの帝が後の人々によって深草の少将に名を変えられたとしてもおかしくはない。また、この天皇は深草に葬られて、その御陵も深草陵と呼ばれている。ただ、これ以上の詮索はたいして意味があるとも思えないのでこれくらいにしておきたい。

 



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