作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

小野小町5

2008年03月20日 | 芸術・文化


小野小町5

また小町自身がどのような女性であったかについては、1300年頃の鎌倉時代に生きた吉田兼好の徒然草の第百七十三段に小野小町が事として、「極めて定かならず」とすでに書いている。吉田兼好自身は小町ゆかりの山科の小野の山里に領地を買って住んでいたらしいから、小町の言い伝えなどは、よく耳にする立場にいたはずである。深草の少将が誰であったかについては語られていないから、まだその頃にはこの伝説も成立していなかったのかも知れない。

つれづれ草で語られているのは、晩年の小町の衰えた様子が『玉造小町壮衰書』という本に見えること、清行という男がそれを書いたらしいこと、また、この本を当時すでに流布していたらしい弘法大師空海の著作とするには、小町の若く美しい盛りは大師の死後のことらしいから、道理にあわずおかしいと言っている。だから、たとえそれが「極めて定かではない」ものであったとしても、すでに小町のことが世代を越えて人々の記憶に留められていたことは明らかである。

兼好がここで小町のことを書いたのは、その前段の中で、心の淡泊になった老年の方が憂いと煩いが少なく、情欲のために身を過ちがちな若い時よりも勝っているという感慨をもったことから僧正遍昭や小町のことを連想したためらしい。小町の晩年について流布している言い伝えも、この『玉造小町壮衰書』という本が大きく影響していることは明らかであり、それは仏教の教えの中に取り入れられて語られている。

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

小町が美人の代名詞であればこそ、その美のはかなさも嘆きも深刻なものになる。恋多き生涯とその時間の移ろいの早さを嘆いた小町の歌が、時間という絶対的な流転のなかに生きざるを得ない人間の運命を象徴するものとなった。このような歌はおそらく小町のような女性のほかに詠まれる必然性はない。伊勢にも紫式部にも詠まれなかった。

そして、それがやがて仏教思想の流入と広がりとともに、小町の生涯は無の諦観によって解釈し直されて『玉造小町壮衰書』などにまとめられ、もう一つの小町の伝説になっていった思われる。

兼好法師は、この本は弘法大師ではなく清行が書いたと言っているが、この清行という男が、小町とともに真静法師が導師をつとめる法事に参加したときに、導師の説教にかこつけて言い寄って肩すかしにあった(古今集第556番)あの安部清行のことであるなら、振られた意趣返しに、小町の晩年をこの本で残酷なものに描いたとも考えられる。彼なら小町の生涯を身近に見聞きしていたとも考えられて興味深い。

      下つ出雲寺に人のわざしける日、真静法師の導師にて
      いへりけることばをうたによみて、小野小町がもとに
      つかはせりける
                            あべのきよゆきの朝臣

556   つつめども袖にたまらぬ白玉は  人を見ぬ目のなみだなりけり
           
      返し                   こまち

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず  
                  たぎつ瀬なれば
 



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小野小町4

2008年03月19日 | 芸術・文化


小野小町4

小野小町にまつわる伝説には二つの方向があると思う。一つには深草の少将の百夜通いの話と、老いて落魄し行き倒れる小町である。

小町のこの二つの女性像には理由がないわけではない。いずれも小町の残したわずかな歌の中にその根拠があるように思う。

深草の少将の百夜通いの言い伝えは、まことに美しく幻想的でさえある。小町に恋いこがれた深草の少将が、小町のもとに百度訪れるという誓願を立てて通ったが、最後の雪の日に思いを遂げることのできないまま亡くなったという。                                              
小町の心も知らないで足が疲れくたびれて歩けなくなるほど繁く小町のもとに通っていた男のいたことは、事実としても次の歌からもわかる。

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

おそらく深草の少将の話は、安部清行や文屋康秀たちに返したような男を袖にした和歌が小町にいくつかあることに由来するにちがいない。

しかし、小町が単なる色好みの女性であっただけとは思われない。言い寄る者たちの中に彼女が深く思いを寄せた男性のいたことは明らかだ。それは次の歌などからもわかる。ただ、その男性とはかならずしも自由に会うことはできなかったようで、そのために夢の中の出会いを当てにするようになったり、その出会いに他人の目をはばかったり、世間の非難を気にかけたりしている様子がうかがわれる。だから、小町にとって真剣な恋は秘めておかなければならなかったようにも見える。

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

ただ、小町がおいそれと心を許さなかった、この百夜通いの伝説の深草の少将が実際に誰であるのかはよくわからないらしい。百夜通いの伝説の根拠についてはすでに黒岩涙香が江戸時代の学者、本居内遠の研究を引用している。それによれば、同じ古今和歌集の中にある次の歌、

762    暁の鴫(しぎ)のはねがき百羽がき     君が来ぬ夜は我れぞ数かく
     

が、三文字読み替えられて、

あかつきの榻(しぢ)の端しかきもゝ夜がき     君が来ぬ夜はわれぞかずかく
     

となり、それが、深草の少将が小町のもとを訪れたときに、牛車の榻に刻んでその証拠にしたという話になったという。歌の内容と伝説との関係から見る限り、その蓋然性については納得できるところはかなりある。

そうして恋する女性のもとに通いつめながらも、その思いも遂げられずに雪の夜に亡くなった男に対する民衆の共感と同情が、やがて伝説として伝えられることになったにちがいない。

 

 

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小野小町3

2008年03月16日 | 芸術・文化


小野小町3

古今和歌集の中でも実際にその贈答歌の中で、互いの名前が記録されて、小野小町との人間関係が成立していると考えられる可能性の高いのは、巻第十二恋歌二で(556に対する557)小町の返歌のある安部清行、また巻十八雑歌下(938)に小町の返歌がある文屋康秀、それに後撰集の中に歌を贈ったことが記されている僧正遍昭の三人である。

実名の記録されているこれらの人はおそらく小町と何らかの関係もあったのだろうけれど、業平についてはわからない。古今集巻第十三の恋歌三(622、623)にも在原業平の歌に次いで小町の歌が並べられてはいるが、紀貫之が意図的に編集したかも知れず、いずれも歌の上手な美男と美女として高名であったところから、並べて取り沙汰したということも考えられる。互いの贈答歌であるかどうかについての詞書きもなく、それぞれの歌の内容から言っても疑わしい。

しかし、実際二人の間に何らかの直接的な人間関係のあった可能性が決してないわけではない。むしろその可能性は大きい。業平の恋人だった二条の后(藤原高子)に文屋康秀が仕えていたことは、巻第一春歌上8からも明らかであるし、その文屋康秀自身が三河の国に下級官吏として赴任するときに、小町を誘っているから相当に親しい関係にあったことは推測される。

業平も、仁明天皇(在位833年~855年)、文徳天皇、清和天皇に蔵人として仕えたし、僧正遍昭については、そもそも仁明天皇に仕えていた良岑宗貞がその崩御に殉じて出家して僧正遍昭になったものである。

また文屋康秀も下級官吏として仁明天皇やそれに続いて文徳、清和天皇に仕えた。一方の小町も女官として同じ仁明天皇に仕えていたから、在原業平とも交際の機会のあったとことは十分に考えられる。

これら業平や小町ら六歌仙の世代はいずれも紀貫之よりは一世代か二世代上で、たとえば平成昭和の人間が大正明治の人間を回顧するようなもので、その人間像の記憶もまだ生々しいものだったと思われる。紀貫之も土佐から京へ帰還する途上の桂川で、惟喬親王や業平を追憶している。

時代は平安遷都から日も浅く、いまだ権力も固まらず、薬子の乱や承和の変、応門の変などの騒乱が続いた。そうした歴史的な事件の詳細な実証的な検証は歴史家に任せるとして、ふたたび小町の残したわずかな和歌と人々が彼女に託した伝説から、人間の内面の問題により入り込んでゆきたい。

古今集巻一春歌上8

二条の后の東宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへにめして、仰せごとあるあひだに、日はてりながら雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける
                                      文屋 康秀

8   春の日の光にあたる我なれど  かしらの雪となるぞわびしき

後撰集1196

石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける 
                                      小野小町

岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ

返し
                                         僧正遍昭

世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む

 



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小野小町2

2008年03月15日 | 芸術・文化


しかし、古今和歌集に収められてある小町の和歌を詠む限り、紀淑望の「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」というのは少し言い過ぎのような気がする。やはり、紀貫之ぐらいの評価が妥当であると思う。そこにみられるのは、和歌の創作よりも、恋愛そのものに関心を示している女性らしいふつうの女性像である。小町の歌からは女性としてとくに特異なところはみられないと思う。ただ和歌からもわかるように、彼女自身も自分の美貌を自覚していたようで、そのことから多くの男性との交渉もあったのかも知れない。しかし、恋愛においてはむしろ受け身で控えめな女性ではなかっただろうか、彼女の歌からはそんな印象を受ける。

和歌については、小町の語彙は必ずしも豊かではなく、後の紫式部や西行の和歌にみられるような、哲学的ともいいうるほどの思想的な情感や、しみじみと自然に感応した描写や詠唱があるわけではない。恋愛感情を叙してはいても深みがあるとは思わない。おそらく当時は仏教思想などもまだ民衆にはそれほど深いレベルで浸透していなかったことも読みとれる。また紫式部のような教養豊かな環境には育たなかったせいもあると思われる。

小町の歌を詠んでいて、あらためて気づいたのは、古今和歌集に

623   みるめなきわが身をうらと知らねばや     かれなであまの     足たゆくくる

という歌の前に、

                             なりひらの朝臣

622   秋の野に笹わけし朝の袖よりも  あはでこし夜ぞひちまさりける

と在原業平の和歌が並べておかれていたことだ。そして、この二つの歌が、伊勢物語の第二十五段において、恋愛する二人の男女の贈答歌として取り入れられている。この段では女性は単に「色好みなる女」といわれているだけで、小野小町という女性の名はここでは明らかにされてはいない。

しかし、古今和歌集の読者にしてみれば、歌の贈り主が在原業平であり、返歌の作者が小野小町であることは分かり切ったことであったから、伊勢物語の読者は当然に二人が恋愛関係にあるとみるだろう。ここから、後世の古今和歌集の注釈家たちも小町と業平が恋愛関係にあったと言うようになったらしい。

ただ、古今和歌集を少し読んでみてわかったことは、後代の藤原定家の小倉百人一首と同じように、あるいはそれ以上に、この古今和歌集おいても、個々の和歌の美しさ以上に、それぞれの和歌の配列の妙に紀貫之の絢爛たる美意識が編纂されているらしいことだ。その秘密を読み解く古今和歌集の注解釈がそのために特定の家系の秘伝のような趣をもたらすことになったのではないだろうか。

紀貫之が、小野小町の歌と業平の歌をあたかも贈答歌のように隣あわせに配列にすることによって、単独の和歌では醸し出せない交響曲のような躍動する美しさを生みだすことになった。そこから、逆に小町と業平との間に恋愛関係か推測されるようになり、また、それが伊勢物語にも組み入れられることになって、小町と業平の伝説になったと。この事実はすでに広く周知のことであるに違いないが、私には新しい知識であったので、これまで頭の中にバラバラに存在していた二人がはじめて結びついて、推理小説を読んだときのようなおもしろさを感じる。

たしかに、小町と業平は同時代人であったから、実際に恋愛関係にあり、それがそのまま、古今和歌集に取り入れられたと考える方が、より興味を駆り立てられるには違いないけれども、もしそうであるなら、伊勢物語の第五十段に登場する「うらむる人」も小野小町であって、業平と二人は「あだくらべ」(浮気くらべ)をしていたことにもなる。女の返した歌も小野小町が詠んだ歌ということになる。

しかし、二人の関係について歴史的な実証はむずかしいのではないだろうか。古今和歌集の成立は913年(延喜十三年)、伊勢物語は880年頃に原型ができ、集大成されたのは946年頃であるとされるから、紀貫之らが、業平と小町の二人に歌の世界で架空の恋愛を仕組んだとも考えられるし、それとも遷都してまだ間もない新しい町並みの京の都のどこかで、実際に二人は顔を合わせていたか。

 

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小野小町1

2008年03月14日 | 芸術・文化


小野の随心院で、小野小町ゆかりの「はねず踊り」の催しがあるそうで、一度訪ねてみようと思い、その際、小野小町などについてもう少し詳しく知ってから行けば興味も増すのではないかと少し調べてみた。

これまで、小野小町について知っていることと言えば、せいぜい百人一首に収められている「花の色は移りにけりな  いたづらにわが身世にふる   ながめせしまに」という歌を歌った、美人薄命の運命を嘆いた歌の作者であることくらいだった。小町がどんな女性であったのか、いくつまで生きたのか、ほとんど興味も関心もなかったし、ただ意識の片隅に、おとぎ話か伝説の住人として存在していたにすぎなかった。だから、この女性の百人一首の歌が、紀貫之の編纂になる「古今集」の巻第二春歌下にもともと収まられてある歌であるということすらも知らなかったし、どのような時代に生きた女性であるのかさえ知らなかった。少し調べて見て小町が在原業平と同時代に生きた女性であることを知って驚いたくらいである。それくらいの知識しかない。

小町という名前は今では美人の代名詞のように使われている。しかし、小町という名前そのものは、本名ではない。女性の場合は忘れられている場合が多い。源氏物語の「桐坪の更衣」のように、彼女の住まわっていた場所と身分の呼び名が、彼女自身を示す呼び名となったものである。

もともと小町の「町」とは、宮中で女官たちが住んでいた一角が局町と呼ばれていたことから来るらしい。内裏の北東にもかって采女町があった。その町がそれぞれの出身にしたがって呼ばれていたらしい。采女とは、群司や諸氏の娘たちの中から容姿端麗な女子が選ばれて、天皇の身近にあって食事などのお世話をした女性を言う。小野小町も采女であったらしいから、そう呼ばれるようになったのかも知れない。小町には同じ采女の姉がいたことは確からしく、姉の方は小野町と呼ばれ、古今集にも、小町の姉の歌が記録されている。伊勢物語に登場する惟喬親王の母、紀静子なども三条町と呼ばれていた。この姉の小野町に対して、妹の方が小町と呼ばれたらしい。「小」にはかわいいと言う意味もある。

『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあることから、奥州秋田の出身であるとされ、『小野氏系図』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の娘とあるそうだ。しかし、諸説ありその信憑性は定かではない。ただ、その出自はとにかく、実在していたのはたしかなようで、古今集の仮名序の中で、撰者の紀貫之は六人の歌人(六歌仙)を取り上げ、在原業平の名前とともに、小野小町の名を挙げて、彼女の歌ぶりについて次のように解説している。

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

古今集に採録されている小町の歌は、次の全十八首。これらの歌の中には、恋しき人との出会いを夢に願うとか、容貌の衰えを嘆くとか、男の誘いになびくそぶりなどの歌の多いことから、紀貫之らは、「強からぬは、女の歌なればなるべし。」と評したのかも知れない。真名序では紀淑望は「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」と評している。後の世の源氏物語に出てくる桐壺の更衣のような女性をイメージしていたのかも知れない。しかし、百歳近く生きて、むしろ奔放で弱々しくなかったと言う人もいるようだ。


               題しらず

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

              題しらず

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

               返し

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず   たぎつ瀬なれば

              題しらず

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

              題しらず

635    秋の夜も名のみなりけり  あふといへば事ぞともなく明けぬるものを

              題しらず                                    こまち

656    うつゝにはさもこそあらめ    夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

658    夢路には足もやすめず通ヘども   うつゝに一目見しごとはあらず

               題しらず

727    あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ   人のいふらむ

             題しらず                    をののこまち

782    今はとて  わが身時雨にふりぬれば    言の葉さへに移ろひにけり

                                           (返歌あり)

             題しらず                         こまち

797     色みえでうつろふものは    世の中の人の心の花にぞありける

             題しらず                                小町

822    秋風にあふたのみこそかなしけれ    わが身空しくなりぬと思へば

     文屋のやすひでが三河の掾(ぞう)になりて、            

    「あがたみにはえいでたゝじや」と、いひやれりける返り事によめる

                                           小野小町

938  わびぬれば   身をうき草の根を絶えて   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

              題しらず

939     あはれてふ言こそ   うたて    世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ


              題しらず

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

古今墨滅歌1104    おきのゐ、みやこじま        をののこまち

       おきのゐて身を焼くよりもかなしきは   宮こ島べの別れなりけり


小町の姉の歌                                  こまちがあね

              あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあひだに、
              焼けたる茅の葉に文をさしてつかはせりける

790    時すぎて    かれ行く小野の浅茅には    今は思ひぞたえずもえける

                                                              (歌番号は「国歌大観」による)


 

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音楽と詩

2008年02月15日 | 芸術・文化

 

音楽と詩

音楽には色彩も形象もない。絵画には視覚でとらえる対象がまだ残されているけれど、音楽においてはもはや視覚は役に立たない。物質性をもたないこの「音」をとらえるには聴覚しかない。だから音楽は絵画よりもさらに抽象的で観念的である。そして、その抽象性、観念性のゆえに、音楽は私たちのもっとも奥深い心の内面に入り込んでくる。

音楽それ自体は一つの抽象的な「話し言葉」にもたとえることが出来る。愛する人の話言葉のように心に響いてくる。それはカンデンスキーやミロの抽象画が「書き言葉」としてその印象が私たちの意識に伝わってくるのに似ている。しかし音楽は抽象絵画より以上に、そこから伝わる色彩も形象も抽象的である。ただその印象は視覚からではなく、聴覚を通じて心に達するゆえにその色彩も形象も観念的であり、絵画のように客観的な物質性をもたない。絵画の世界においても印象派からピカソ、ブラック、さらにミロやカンデンスキーへと進むにつれて、次第に具象性を失っていったが、それでも絵画にあってはまだ色彩と形象が残されている。

とはいえ、こうした抽象的な音楽であっても、器楽音だけで純粋に構成されるソナタや組曲や交響曲と違って、アリアなどの声楽曲はそこに言葉が伴われるだけ、具体的でわかりやすい。

話し言葉ももともと「音」によって伝えられるから、言葉には本来的に音楽性が含まれているけれども、ただ言葉には人間のコミュニケーション手段として、意味が分かちがたく結びついている。だから、単なる嘆きや叫声の段階から言葉がさらに表象や意味(概念)と結びつけられるとき、抽象的な世界である言語の世界も、再び、具体性を獲得してゆく。そのもっとも洗練された姿が「詩」であることは言うまでもないが、この詩が音楽と結びついたとき、音楽による感情表現はより具体的な明確な輪郭をもって私たちの意識に伝えることができる。

そして、単なる感情の洗練や浄化の段階からさらに進んで高まると、何らかの思想や理念を作曲家や詩人は伝えようとする。ソナタやパルティータなど純粋な器楽曲と比べて、カンタータなどの声楽曲は言語表現をともなうだけ、その音楽の表象や思想をより具体的に把握しやすい。

先に取り上げたエマ・シャプランの歌う「VEDI  MARIA」などの曲も、音楽の中により具体的な言語が入り込んでくるために、その抽象性はよほど失われ、具体的により表象的に音楽のテーマである感情や思想を把握しやすくなっている。

しかし、その歌曲が外国のものであって、しかもその言葉を解することが出来なければ、再びその音楽からは具象性は失われてしまう。外国語もその意味を解することが出来なければ、その声は私たちの耳には、あたかももっとも美しい一つの器楽音楽のように響いてくる。

とはいえ実際に私たちが日常聴いている海外の多くの歌曲についても、その歌詞の意味内容がわからないとしても音楽鑑賞には本質的には差しつかえはない。たとえ器楽や音声によって伝えられたその具体的な意味がわからなくとも、私たちは十分に楽しむことは出来るし、さまざまの喜怒哀楽の感情は浄化されて何らかのカタルシスをもたらしてくれる。それは音楽が言葉よりもさらに根元的で感情的な言語であるからだ。

「VEDI MARIA」でもシャプランが歌っている言語はイタリア語らしく、私には全く経験がなかったので聴いても意味がわからなかった。時折「マリア」とか「マドンナ」とか、耳にしたことのある固有名詞がいくつかわかるくらいで、歌われているその詩の内容はまったくわからない。

十分に歌曲自体は楽しめたけれども、同じ歌曲で誰かが映像を編集し、歌詞を英訳して投稿したものが同じYOUTUBEに見つかった。それを見てこの歌で歌われているらしい意味内容を何とか理解することができたけれど、イタリア語はからきしわからないから、この「英詩」が原詩をどれだけ忠実に訳し出しているのかもわからない。

それでも、この歌の英訳らしきものを手がかりにこの歌曲の原意をたどろうと思いついた。イタリア語から英語に翻訳するのは、それらはインド・ヨーロッパ語族として同じ語系に属していて、語源や語順を本質的に同じにしているし、かつ、民族的にも近接しているから、日本語に翻訳するよりも遙かに容易で、原作に忠実に訳しやすいように思われる。

ただ日本の多くの歌謡曲をみてもわかるように、歌曲においては、そこで歌われる詩自体は必ずしも優れている必要はない。むしろ、そこでは曲に一致していることが重要であって、詩としての洗練度はあまり問われない。

詩の内容は、愛することの悩みが歌われているらしい。こうした感情は万国共通で普遍的であるからこそ、外国産のこうした歌曲も私たちの共感の呼ぶのだろうし、そこに人類としての一体感も感じることもできる。

冬の野原が詩の舞台であるようで、そこで恋に悩む娘がマリアに祈る内容になっている。いかにもカトリックの国のイタリアにふさわしい。言語には民族や国民の固有の伝統や宗教の感情が分かちがたく結びついて表現されているから、そうした伝統や宗教的感情の異なる言語には翻訳するのはむずかしい。

英訳詞は誰が訳されたのかはもちろんわからないが、簡潔な力強い語句で、深い情感を現わしている。韻などは踏まれてはいないけれども、英語の詩的表現の情感の深さ、豊かさの一端を知ることはできる。

その後、ネットで原詩を探してみると見つかった。原文はイタリア語であるらしい。ドイツ語や英語なら何とかほんの少しぐらいなら意味をとれるけれども、イタリア語については全くだめである。誰かこの言語に堪能な人に訳し出していただければうれしい。                            

                                                  Vedi Maria

L'aurora, a ferir nel volto,
Serena, fra le fronde, viemme
Celato in un aspro verno
Tu viso, il sdego lo diemme

Silentio, augei d'horrore !
Or grido e pur non ô lingua...
Silentio, 'l amor mi distrugge,
Il mio sol si perde,
Guerra, non ô da far...

Vedi Maria
Vedi Maria
Ardenda in verno,
Tenir le, vorrei,
Il carro stellato !
Madonna...

In pregion, or m'â gelosia
Veggio, senza occhi miei
Il canto, ormai non mi sferra E, nuda, scalzo fra gli stecchi

Aspecto, ne pur pace trovo
E spesso, bramo di perir
Aitarme, col tan' dolce spirto
Ond'io non posso E non posso vivir...

Vedi Maria
Vedi Maria ( etc... )

Che è s'amor non è ?
Che è s'amor non è ?

Vedi Maria...
Vedi Maria...
Madonna, soccorri mi
 

 

 


 

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Vedi Maria(見て、マリア)

2008年02月13日 | 芸術・文化

インターネット オプションのフォントを、「MS P  ゴシック」か「MS P  明朝」にして見てください。

 

Vedi   Maria(見て、マリア)       Vedi   Maria  (Emma Shapplin

小枝の間から、                                    Between  the   branches  
飛び降りてきて私の顔をぶった。            Down  just   hit   my  face
そして、あなたは怒りをあらわにする。        And  anger  shows  me  yours
凍てつき、乾ききった冬。              frozen  in an   arid  winter
  静けさ。                             Silence
いやな小鳥たち。                      Birds  of  horror
私は口もきけずに叫んだ。                 I  shout  with  no  tongue
  静けさ。                         Silence
愛は私をうち砕き、                     Love  destroys  me
私のお日様もどこかに消えてしまう。        And my sun lost it's  way
だけど、私には戦いを挑む気持ちもない。 But  I  have  no  wish  to  wage  war
見て、マリア。                          See  Maria
見て、マリア。                          See  Maria
私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And   I    would   like  to  stop
駆けめぐる馭車座の星々を。              The  chariot  of   stars
聖母さま。                              Madonna
                      
嫉妬は私を虜にし、             Jealousy   is  holding  me  prisoner
私は眼に見ることもなく見る               And   I  see  without  eyes
この歌はもうこれ以上私を傷つけない。       This  song  hurts  me  no  more
私は裸足で走る。                       And  I  run  barefoot
野イバラの間を駆け抜けて。               among  the  brambles
私は待つけれど、安らぎを見つけられない。   I  wait  and  cannot  find  pease
ああ、どうすれば私は消えてしまえるの。       Oh  how  I  wish   could  perish
            
私はいくども叫ぶけれど、                    I  often    shaut
私は生きることも出来なければ死ぬことも出来ない。But  I  can  neither  live with
このような優しいマリアさまなくして。  Nor  live  without   Such  a  gentle  ghost
                                    
見て、マリア                           See  maria
見て、マリア                                                            See  maria

私は冬のさなかにも燃えているの。         I'm  burning  even  in winter
そう、私は止めたいの、               And  I  would  like  to stop
駆け巡る馭車座の星々を。               The  chariot  of   stars     
聖母さま。                              Madonna 

これは何?もし、これが愛でないとしたら、      What  is  this ,  if  not  love
これは何?もし、これが愛でないとしたら。      What  is  this ,  if  not  love

見て、マリア。                            See  maria
見て、マリア。                                                               See  maria
聖母さま、来て、私を救って。            Madonna     come   save  me !

 

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国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

2007年07月19日 | 芸術・文化

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思

新潟でまた地震があった。日本はそもそも地震列島とも呼ばれ、大陸プレートと海洋プレートがひしめきせめぎ合う地殻の上に国土がある。その上に生活する国民の運命の悲哀というべきか。いや決してそんなことはない。科学の発達した今日、地震による死亡事故などの大半は、国家と国民の危機管理能力の欠陥による人災である。

地震列島はその一方で、豊かな天然地下温泉を湧き出し、変化に富んだ美しい自然景観を造りだす。その天然の恵みは決して小さくはない。地下マグマの自然エネルギーを善用活用して国民の幸福に役立てるか、それとも、その前に、無力に手をこまねいて地震災害被害に泣くかは、国家と国民の危機管理能力しだいであるといえる。

日本などのような地震国では、そして、これほど深刻な環境問題を抱え込んだ現代においては、原子力発電以上に、国家プロジェクトとして強力に地熱発電の研究・開発に取り組まれるべきものである。地熱エネルギーの最大限の有効利用に取り組むべきである。そうしたことができないのは、科学技術などのハードの未発達に原因があるいうよりも、国家の組織機構に、政治や教育といったソフトに、国家の頭脳、その指導性に、行政に欠陥があるためである。経済産業省や国土交通省などの各省庁を横断して、欠陥の多い原子力発電に代わるものとして、地熱発電や太陽光発電、風力・海洋エネルギー発電などに強力に取り組まれていてよいはずである。

十余年前の阪神淡路大震災で、当時の村山富市首相の対応の遅れによる震災被害の拡大の教訓がいまだ十分に生かされていないように思われる。地震が起きてからの事後危機管理も充実させる必要のあることはいうまでもないが、不備を感じるのはとくに「事前の」危機管理である。

それにしても、ひとたび地殻が変動し、大地が揺らぐたびに家屋は倒壊し、そのために多くの犠牲者が出るというのはあまりにも惨めである。先の阪神淡路大震災でも、多くの家屋が全壊半壊し、その倒壊によって多くの人々が圧死した。そして、それに引き続く火災によっても多くの人が犠牲になった。今回の新潟沖地震ではそれほど多大な人的被害は出てはいないが、阪神淡路のような地震が来れば、日本のどこであれ、またふたたび家屋倒壊などに起因する大災害になりかねない。現代のような科学技術の発達した時代において、そうした人的被害を防ぎ得ないというのは、天災ではなく行政の不備による人災と考えるべきであろう。その根本的で重要な対策の一つに、住宅、工場、公共施設のさらなる耐震構造化を進めてゆく必要があると思う。

二十一世紀に入ろうという現代において、住宅家屋の倒壊による圧死というような後進的な災害が現代において繰り返されてよいのかという率直な印象を受ける。地震による被害が深刻なものになるのは、根本的には旧来の日本家屋の耐震構造があまりにも脆弱で、かつそれが放置されたままであるためである。それは素人目にもあきらかだろう。商店街を歩いてた婦人が商店の倒壊により下敷きなったり、また、お寺の屋敷が倒壊して老人が下敷きになって死亡するなどというのは決して天災などではない。商店や寺屋敷の建築物が耐震構造になってさえいれば防ぎえた人災である。

自然の威力を前に右往左往させらるのが人間の尊厳であるとは思わない。地震であれ台風であれそうした自然の威力に対抗し克服してゆくところに人間の尊厳があると思う。人間は神の子であり、「空の鳥と地の獣は海の魚とともにすべて人の手に委ねられている」(創世記9:2)。人間は自然の奴隷ではない。

国家の危機管理の問題である。危機管理には、事前危機管理と事後危機管理がある。以前と比較すれば改善されてきているとはいえ、とくに地震やテロ、戦争などの対策において、首相を頂点とした統一性のある事前・事後の危機管理対策が十分に構築されているとは思えない。とくにあまりにも貧弱なのが、「事前の」危機管理対策である。国家の頭脳としての意思決定と、その全国津々浦々への迅速な伝達を担う神経組織が十分に効率よく組織立てられているとは思えない。
 
これだけ国内に地震災害が多発することがわかっているのにもかかわらず、いまだ住宅や工場、原子力発電所などの公共施設の耐震化が十分に進んではいないようである。日本には地震に弱い老朽木造住宅がまだ1,000万戸あるともいわれている。建築基準法は改正されてきているとはいえ、こうした現状が放置されているのも、国家の危機管理能力の低さの現われではないだろうか。

こうした事前の危機管理対策が不十分であるとしても、それは日本の科学技術が未発達であるためではない。それよりも、縦割り行政や、公務員制度、旧弊の都道府県制度といった、危機管理を支える国家組織や体制機構など、政治や行政の劣悪さに起因する部分がはるかに多いのではないだろうか。国家を一個の有機体として、どれだけ美しく完全で効率的な国家体系にしてゆくかは国民自身の課題である。

その中でも、とくに緊急性のあるのは、震災による死亡事故の原因の大半を占める、旧来の木造日本家屋の老朽化した脆弱な住宅の耐震対策である。この弱点を克服しえていれば、地震後の火災発生件数も含めて、震災による圧死や焼死などの死亡者数もはるかに少なくなると思われる。

伝統的な木造家屋の耐震構造の弱点や欠陥を克服するために、国土交通省や産業経済省などが結集して、国家的な規模で「国民的家屋」のモデルを開発すべきではないだろうか。それによって、震度8ぐらいの地震にも十分に耐える耐震構造を持ち、生活上の利便性、効率性も極めつくし、なおかつ伝統的な日本建築の美しさも生かした、日本の風土、自然景観とも調和したモデル住宅建築を、国民住宅(フォルクスハウス)として、二十か三十程度も提示できないものだろうか。それを国家プロジェクトとして、安藤忠雄氏などの建築家をはじめ、美術家、耐震工学者、宮大工など国家の頭脳を総結集して設計できないはずはないと思う。必要なのは強力なリーダーシップである。

かって、ヒトラーのナチス・ドイツの下で、国民車(フォルクスワーゲン)とアウトバーンが整備されたという。ナチスドイツの国家犯罪は真っ平ごめんであるとしても、日本においても、国民住宅(フォルクスハウス)が構想されてもよいのではないかと思う。それが普及すれば、少々の地震にもびくともしない国民性が培われるとともに、何よりも、この上なく醜くなった現代日本の自然景観、都市景観の改善が見られるようになるはずである。

そうして現代日本人の殺伐とした精神構造を反映するかのような、むき出しの電柱と電線と雑然とした雑居住宅の醜悪さそのものも改善され、癒されてゆくのではないだろうか。それとも願わくは、地中海の美しい海に照り映えるギリシャの町並みと同じ美しさを、この日本に再現することを夢見るのは、かなわぬ一夜の夢物語に過ぎないか。

柏崎刈羽原発の防火体制 05年に不備と指摘 IAEA(朝日新聞) - goo ニュース

「補強する金なく」高齢者の家に犠牲集中…中越沖地震(読売新聞) - goo ニュース 

 

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バッハの言語――③無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

2007年07月18日 | 芸術・文化

 

バッハの言語―――③無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ

Milstein's Last Public Concert at 83 Years Old: Chaconne (7.1986)

ヴァイオリンという弦楽器が奏でる響きが伝える世界は、純粋抽象の天上の世界で、時間的な系列における啓示である。その表現技法のおそらくこの上なく困難なこの楽曲を、たんなる技巧に陥ることなく、質朴だけれども深い彫りで骨太く演奏しているのは、円熟を迎えたロシアのヴァイオリン奏者ナタン・ミルシテイン。たった一丁の弦楽器ヴァイオリンが、主題とその変奏の反復のなかで、ヴァイオリンの持つ可能性を極限に至るまで引き出しすかのようにその魅惑的な声で歌う。

バッハの自我の感情の、明朗、活発、苦悩、歓喜などの無限の起伏が、音の連続と断続、対立と混交の中でさらに高みへと上りつめながら、時間の終焉に向かって私自身の自我と絡み合い、やがて一体化しながら流れてゆく。ヴァイオリンが、ここではバッハの魂のもう一つの声となって響いてくる。優れた作曲には天衣無縫という言葉があるように、思わせぶりな天才ぶった技巧や創作の跡はない。職人芸のようにすべてが自然で、破綻がなく神の創造物のようにそこにある。

それにしても音楽を、このもっとも抽象的な芸術を分析するのはむずかしい。的確に音楽作品の精神を分析し、把握し、評価するには長年の修練を要するのだろう。しかし、多くのカンタータを創作したバッハには、その歌詞による詩的表現に通じることによって、バッハの音楽の抽象的な内面の表現も、その象徴的性格の把握にもより明確に慣れることも容易になるだろう。それゆえソナタやパルティータにおける純粋な器楽演奏による精神的な内面性の表現についても、バッハの音楽の形式における絶対者の把握へと導かれやすいのではないだろうか。


もちろん、音楽は音楽として、ソナタやパルティータにおいては言語は音楽との結びつきが解かれ、自由により純粋に音調そのものとして、内面的な主観を表現するようになる。それゆえ、純粋音楽という「言語」を通じてのもっとも抽象的な感情把握には、もともとの天賦の感覚とさらなる高度の修練とが求められるに違いない。バッハ自身も、この器楽曲を練習課題曲としても作曲したのではないだろうか。それによって、バッハは今日においても最大の音楽教育者であり続けている。バッハの受容と止揚は、現代の日本でも最重要な課題であると思う。今日においてもそれなくして新しい音楽芸術の創造は不可能ではないだろうか。それはちょうどバッハがヴィヴァルディたちを梃子にして自分の芸術を完成させたのと同じだと思う。


 

 

 

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toxandoriaさんとの議論

2007年05月15日 | 芸術・文化

 toxandoriaさんとの議論

toxandoriaさんのブログ(『toxandoria の日記、アートと社会』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514)を読んで、それにコメントをお送りしたところ、次のようなコメントを返していただきました。こうした議論に多少の興味を持たれる人もいるかと思い、記事として新しく投稿しました。toxandoriaさんに許可はえていませんがよろしくお願いします。もし不都合のようでしたら消去します。


そら『toxandoriaさん、TBありがとうございました。ドイツ旅行記など楽しく読ませていただきました。もうドイツからは帰られたのでしょうね。

それにしても、あなたの「ドイツ旅行の印象」に掲載された、ドイツの市街地の光景は、わが日本のそれと比較して思い出したとき、(「冬の大原野」http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070120)あまりにも憐れで貧弱で涙が出そうになります。

私自身は海外旅行での経験は実際にないので、それは正確な認識ではないのですが、この予測はたぶん誤ってはいないだろうと思います。民族や人間の「精神」の問題に関心をもつものとして、私には民族精神の現象としての市民生活は引き続き興味あるテーマです。


たとい経済力で世界でGDP第二位とか三位とかいっても(その功績を毛頭否定するつもりはありませんが)、肝心の文化的指標においては、いつ西欧、北欧の豊かな文化環境に果たして追いつき追い抜くことができるのかと思うと、絶望的になります。「幸福度」という絶対的な尺度においては、日本人はいったいどの程度にあるのだろうかと思ったりします。


民主主義の制度と精神についても同じように思います。あなたのブログ記事もいくつか読ませていただいていますが、あなたもそこで日本人の国民としての「カルト的性格」についての懸念を示されているようです。

ただ、それらの指摘について同意できる点も少なくありませんが、また同時に、必ずしもあなたの考えに賛成できない点も少なくないようにも思います。日本の民主主義についてあなたほどには絶望していないし、希望も失っていないということに、その根本的な相違は尽きるでしょうか。

現在の安倍内閣についても、確かに多くの懸念は持ってはいても、それに対する評価についてはあなたほどには辛くはないというのが、私の現在の立ち位置であるように思われます。むしろ、私が現在もっとも深刻に感じている問題は、安倍内閣にではなく、主にテレビ業界をはじめとするマスメディアの退廃と堕落、教育と官僚と大学の無能力です。そうした文化の退廃は全体主義の反動を呼び起こしてもやむを得ないくらいに考えています。その意味で、私はプラトンのような全体主義は必ずしも否定はしていません。

あなたにTBをいただいて、現在の感想を簡単に述べさせていただきました。ただ、これはあなたのブログをまだ表面的に読み込んだだけの意見に過ぎませんが。


       そら(http://blog.goo.ne.jp/askys)』 (2007/05/15 15:04)

 

 toxandoria 『“そら”さま、コメントをいただき、こちらこそありがとうございます。

ご指摘のとおり、必ずしも経済力と幸福度は一致するものではないと思います。さらに、それは必ずしも知的という意味での精神力の問題でもないようです。やはり、“分をわきまえて足るを知る”という人それぞれの煩悩との闘いの問題なのでしょうか?

日本人の「カルト的性格」については、もっと多面的に考察すべきと思っていますが、今のところでは、やはり欧米のような「市民革命のプロセス」の不在ゆえに吹っ切れていない、悪い意味での歴史の残り滓(のような病原体?)が存在するような気がします。つまり、決して絶望している訳ではなくハラハラしながら観察しているといったところです。

恐らく、それは日本人的な良さの面でもあるのでしょうが、その“弱点”(?)を承知の上で狡猾に利用しようとしたり、或いは、そのような日本国民の善良さを逆手に取り、ひたすら上位下達的、権力的に安易に国民を支配しようとするアナクロ感覚の為政者たちは、より厳しく批判されて然るべきだと思います(実は、これらの“人種”に接近遭遇して些か嫌な思いをしたという原体験ゆえかも知れませんが・・・)。

京都芸術大学あたりの自然は出向いたことがあるので承知しておりますが、まだまだ綺麗な自然が残されている方ではなかったでしょうか。いずれにしても、京都市内及び周辺の都市開発のアンバランスな姿が目立つことは確かですね(京都に残る寺社や自然が好きで、時々たずねております)。

記事でも書きましたが、日本の京都のような位置づけ(ドイツ文化を象徴する都市?)であったドレスデンは、連合軍による猛爆撃でことごとく破壊されたにもかかわらず、よくここまで修復し再建できたものだと、実際にこの目で見て驚き、感動しました。

古い都市景観や建造物を大切にし、徹底して修復し、保全するというヨーロッパの価値観と感性の元にあるものは一体何かということが、今ふたたび自分への問いかけとなっています。昨年の夏にブルージュ(ベルギー)でも同じような心理となりました。石の文化やキリスト教の信仰心のためだというだけではなさそうです。そして、最近は古代ローマ文化との接点が気になっています。

メディアの堕落(=商業主義への異常な傾斜)と大学の荒廃についても同感です。特に、大学についてはプラグマティックに一般教養を切り捨てたことが荒廃傾向に輪を掛けたのではないかと思っています。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。』 (2007/05/15 17:37)

 


 

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