作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

NHKの国家観

2006年02月28日 | 日記・紀行

 

林道義氏のサイトを見ていると、「平成18年2月27日 日の丸を隠す日本のマスコミ」と題する記事の中で、荒川静香選手の金メダル授与式の後に、彼女が日の丸をまとってリンクを巡ったシーンが放映されなかったことに異を唱えていた。http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/sunpyo.html

別に一日テレビにかじりついているわけでもないし、何が報道され、あるいはされなかったか、いちいちマスコミの報道事実についても検証できるわけではない。しかし、荒川静香選手が日の丸を纏っている美しい姿は、すでにネット上の映像で私も知っていたし、その画像は記念としてダウンロードして保存していた。彼女のメダル授与式も見ていたが、ただこの写真が、その直後に、彼女がリンクを周回したときにとられたものであることは、林道義氏のサイトを見るまで気づかなかった。

NHKばかりでなく民放各社も報道しなかったという。もしそれが事実なら、確かになぜ放映しなかったのだろうという疑問が湧く。そこには、やはり現在のマスコミの価値判断の一般的な傾向が反映しているのかもしれない。
ただ、私がネットを通じてこうした事実を知ったように、インターネットが広く普及してゆくのに応じて、現在のマスコミの限界や「偏向」は明らかにされていくのかもしれない。情報は最大限に公開され周知されていく必要がある。そして、最大限に多数の観点が国民に提供されることの中から真実が明らかになってくる。情報公開こそが、その正確な記録と保存こそが、決定的に重要である。

すでに今日のニュース報道でも、都市再生機構が、分譲マンション6棟の構造計算書を紛失したというニュースが報じられていた。http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060228/K2006022801060.html

マンションの鉄筋不足など深刻な手抜き工事が発覚し、構造偽装問題がこれほど大きな社会問題になっているおり、常識的に考えて紛失などありえない。公務員による意図的な情報隠しとしか考えられないではないか。

以前にも「民主主義とアーカイブス社会」の関係について論じたことがあるが(民主主義と文書管理)、公共的な行政に携わる公務員と公共団体の文書記録についての意識の低さは眼にあまる。その背景には公共の文書管理についての国民全体の意識の低さと教育文化の問題がある。

今日の社会でもっとも腐敗し堕落しているのは、公務員とマスコミ関係者なのかもしれない。真実を正確に伝えるべき記者は、記者クラブで飼い殺しにされ、真実を伝える勇気をもたないばかりではなく、民主党の偽メール事件のように、虚偽報道の張本人にすらなっている。政治家も公務員も新聞記者も直接に生産的な労働に携わらない職業である。それだけ腐敗しやすいのかもしれない。

NHKの最近の番組内容には、昨年の紅白歌合戦のキャンペーンに見られるような、過度に意図的な視聴率拡大作戦が目に付くようになった。NHKの改革が改悪にならないように望みたいものだ。また、そのニュース報道にも一定の立場が反映するのは避けられないのかもしれない。とすれば天気予報や地震その他の災害ニュースなどを例外にして、いっそうのこと公共放送は廃止して、それぞれの思想的立場、利害を明らかにした民間の報道各社が自由に報道するなかで、国民はそこから自らの責任と取捨選択で自由に判断するようにしたほうが、報道の本来の目的にかなうかもしれない。

ちょうど竹中総務相の諮問会議でNHKの廃止問題も議題に上っているようである。真剣に検討する価値があると思う。林道義氏が語っているように、その報道に「主観的なイデオロギー的な情報の選別」を働かせているとするなら問題であると思う。これは単にNHKの問題に限らず、国家から特権的に周波数を割り与えられているマスコミの、特に民放各テレビ局の責任と使命の自覚の問題である。

テレビ局の退廃も問題にしなければならないと思う。腐敗し堕落するのも自由であるなら、それに異議を唱えるのも国民の権利であり義務である。民主主義社会におけるモラルの回復を、西尾幹二氏のように全体主義の芽と見るのは間違いである。ただ、自由な民主主義に甘えてモラルを失った国民は、戦前のように、その懲罰として全体主義の運命を担わされることはありうる。

 

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