作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ブログでの討論の仕方

2006年08月03日 | 日記・紀行

ブログでの討論の仕方

哲学や宗教に関するようなどちらかといえば比較的に「堅い」テーマの多い、このマイナーなブログにおいても、公開してからいくらか日数も過ぎると、いろんな人の眼にも触れるようで、中には、このブログが関心をもつようなテーマにふさわしくない人の眼にも留まるようです。

もちろん、それはそれでかまわないのですが、ただコメントやトラックバックをいただく場合、そこに一切に完全な自由放任を認めても良いのかという問題が当然に起きてきます。

なぜなら、完全な自由放任にしますと、多くの掲示板に見られるように、「便所の落書き」の様相を呈することになりかねないからです。残念ながら、人類の段階は猿以下というか、実際人間の本性は猿より悪いというのがキリスト教などが認識してきた人間観だろうと思います。そして、本当の民主主義を知らず、教育も訓練もされていない多くの日本人は、まともに議論を展開したり討論する能力もマナーも持ち合わせてはいないのが現状なのではないでしょうか。悲しいですが、これが日本国民の平均的な水準だと思います。

もちろん、多くのブログの中には、自分たちの水準にふさわしく「便所の落書き」ブログになることを期待して開設したものもあるでしょうから、それはそれでいいと思います。幸いにもまだ、このブログは、そうはなっていませんが、もちろん、これからも「便所の落書き」ブログにするつもりはありません。

そこで、こうしたブログを開設していく上で、トラックバックやコメントで、議論を展開し、討論してゆく上で基本的なルールを決めて、ブログが「トイレの落書き」化しないようにしてゆくべきだと思います。

本当にまじめに宗教や哲学の問題を考えることに興味をもてない人は、その人たちにふさわしいテーマの「ブログ」が別にあるでしょうから、そちらで楽しんでいただいたらよいと思います。やはり、今後の実りある議論のために、コメントやトラックバックの掲載でのいくつかの基準を決めておいたほうが良いと思いました。そして、こうした任意の私的なブログでは管理人の自由裁量が認められて良いのだと思います。

もちろん、言論の自由は最大限尊重されるべきだいうのは、このブログの発行人自身の「哲学」でありますから、それが根本方針ではありますが、残念ながらこの自由を正しく行使できず、悪用してしまうのが人間の実際だと思います。そこで、最少必要限の原則だけを決めておきたいと思いました。

(1) ブログの内容について、疑問や質問や批判を発するのはもちろん一切自由ですが、その答えを強要しないこと。これは、共産党などの査問が往々にしてそうなるように、自己批判の強要という、最大の人格侵害になりかねないと思います。また批判や質問に筆者が答えないことが、一つの回答ということもありますし、それに、すべて問題は自分自身で考えることが原則です。質問して答えてもらうという甘ったれた態度ではなく、原則として、自分で考え抜く姿勢を身に付けていただきたいと思います。まして、このブログは信仰を勧誘しているのではなく、本来、考えるための材料を集め提供し、哲学することを目的としているのですから。

また、先生の資格も権限もない者にそうした要求をする方が間違いだと思います。月謝を払って学びに来ているのなら、もちろん先生は生徒の質問に答える義務もあるでしょうが。

(2) 議論や討論は、勝ち負けを競うものではないということです。このブログは自分たちの哲学や思想を深めることが目的ですから、個人の特定の結論を強制するものではありません。一つのテーマで、議論しあって結論が一致しないなら、それぞれ三回ずつ自分の意見を展開し、記録しておくだけで、その是非や真偽は、──少し大げさですが「歴史の審判」に任せることにしたいと思います。何が正しいかは、有限な人間には分からない、間違うかもしれないという謙虚さがどこかに必要だと思います。どんなに強固な個人的な信念であっても、狂信に陥らないことだと思います。


とりあえず、この二つの原則を、コメントやトラックバックのルールにしたいと思います。もっとさらに、整理する必要が生じるかも知れませんがとりあえず、ここから出発しようと思います。

また、議論の公正と向上を期するためにも、当ブログ発行人も含めて、ハンドル名の使用は自由であっても、匿名は避けるべきかとも考えています。

 

コメント (5)
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