橋殿
葵祭を見ていて、賀茂大社に深く愛着を抱いていた西行法師が、葵祭にちなんだ和歌を詠んでいたことを思い出しました。それで、西行が当時どのように葵祭を眺めていたのか、西行の和歌を手がかりにしてできうる限り追想してみようと思いました。上賀茂神社には今も御手洗川が流れています。橋殿も今も変わらずあり、西行の生きた時代の創建になるものかどうかはわかりませんが、当時を偲ぶよすがにはなるだろうと思います。平安から鎌倉へと移りゆく戦乱の時代の潮目に生きた西行が、自身の生きた時代の様相をどのように眺めていたかもよくわかります。仏教の末法思想の影響が伺われます。
斎院おはしまさぬ頃にて、祭りの帰さもなかりければ紫野もとほるとて
1220
むらさきの 色なきころの 野辺なれや
片祭りにて かけぬ葵は
北祭の頃、賀茂にまゐりたりけるに、折嬉しくて、待たるるほどぞ使まゐりたり。橋殿に着きて、つい伏し拝まるるまではさることにて、舞人の気色振舞、見し世のこととも覚えず、東遊に琴うつ陪従もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに見給ふらんと、恥づかしき心地して、詠み侍りける
1221
神の代も 変りにけりと 見ゆるかな
そのことわざの あらずなるにも
更けけるままに、御手洗の音神さびて聞こえければ
1222
御手洗の 流れはいつも 変わらじを
末にしなれば あさましの世や
※註釈(時間に余裕があれば、更に詳しく正確なものにしてゆきたいと思います。)
斎院のいらっしゃらない頃なので、祭りが終わった後の斎院のお戻りになる行列もありませんでした。斎館のあった紫野をめぐりながら
1220
むらさきの 色なきころの 野辺なれや
片祭りにて かけぬ葵は
紫草の色もない時分の野辺のようなものですね。斎院もいらっしゃらないようないい加減な祭りで 、葵のかずらも掛けない祭りは。
葵祭のころ、上賀茂神社にお参りしました時に、 ちょうどその折も嬉しく、待っている間に、神さまに幣を奉るお使いがまいりました。橋殿にお着きになって、つい伏して拝まれるまでは慣例通りでしたが、舞人の様子やふるまいは昔に見た様とも思われず、東遊という舞曲にはお琴を打ち鳴らす楽人もいませんでした。きっとこの世も末だからでしょう、神さまはどの様にご覧になるだろうと思うと、恥ずかしい気持ちがしてお詠みしました。
1221
神の代も 変りにけりと 見ゆるかな
そのことわざの あらずなるにも
人の世だけではなく、神の代も変わってしまったように見えることです。今は琴の音の伴奏もなく、舞人の容姿や舞踊も昔の様ではなくなってしまったのですから。
夜が更けるにつれて、上賀茂神社を流れる御手洗川の流れの音が神々しく聞こえましたので、
1222
御手洗の 流れはいつも 変わらじを
末にしなれば あさましの世や
御手洗川の流れはいつも変わらず、神々しく聞こえますのに、世も末になったからでしょうか、神事も昔通りに行われなくなってしまいました。嘆かわしい世になってしまったことです。
御手洗川
上賀茂神社や下鴨神社の由来や、葵祭の歴史は以下のサイトに詳しいです。
下のページも解説が参考になるようです。
西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.33(隔週発行)
2003年7月14日号