作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論 八[意志と罪責]

2019年05月22日 | 哲学一般


§8[意志と罪責]
Die /Schuld/ hat der Wille insofern, als: 1) seine Bestimmung nur von ihm /selbst/ zu der seinigen gemacht ist oder seinem Ent­schlusse angehört: ich habe gewollt; 2) insofern ein Wille die Bestimmungen /kennt/, die durch seine Handlung, wie sie in sei­nem Entschluss liegt, hervorgebracht werden oder die notwendig und unmittelbar mit ihr zusammenhängen.(※1)


意志は次のような限りにおいて、その/罪責/を担う。1) 意志の決定(Bestimmungen)がただ意志/自身/のみによって意志自身の物へと作られたものであること、あるいは、「私が欲していた」という意志の決断にもとづくものであること。;2)意志の行為によって作り出されたその意志の決定(Bestimmungen)が、行為が意志の決断のうちにあるように、必然的にかつ直接に意志と結びついたものであることを意志が/知っている/限りにおいて。

※1
人間はどのような場合に、責任が問われるか。その行為が彼の意志にもとづく決断によること、そのことを彼自身が「知っている」かぎりにおいて罪責を担わされる。意識の発達の不十分な動物や子供、精神病者などは責任を問われない。

追加(20190522)
※2
意志がその責任を問われる条件としてヘーゲルは、1)と 2)の二つの要件をあげている。第4節の[意志と行為]においてすでに明らかにされているように意志のもつ実行能力がその前提にあるが、意志による実力行使だけでは責任は問うことができない。

そのためには、1)意志そのものによる行為であって、それを「私が欲した」こと、さらに、2)その意志の行為としての結果(規定 Bestimmungen)が、意志と必然的かつ直接に結びついたものであることを「私」が「知っている」ことが必要である。

1)は意志の客観的条件、2)は意志の主観的条件ということができる。意志による行為が責任を問われるためには、この二つの条件が必要であり、「主観的」と「客観的」に並ぶ第三の条件はないから、罪責の条件を問うヘーゲルのこの考察の結論は必要十分条件を満たしているといえる。

※3
ヘーゲルの論考を追考する場合に注意すべきことは、その内容もさることながら、論考の「形式」を読解することである。この「形式」の必然性が内容を生む。ヘーゲルの文章については特に、論考の「形式」の必然性についての読解力が重要になる。拙訳についても鋭意、ヘーゲルの論考の「形式を読む」ことに努めてゆきたい。

※4
ヘーゲルなどの科学的(哲学的)な論考の読解については、かねてより哲学者、牧野紀之氏の提唱されている「形式を読む」姿勢を私も継承してゆくつもりです。私の拙き「研究遍歴」についてもいずれ本格的に反省し、明らかにすべき機会もあると思います。

 

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